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「価値」から「知」へ


はじめに

…人間は、もはや議論の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、(中略)すべての人間が心から信じてひれ伏すことができるような、それも必ずみんながいっしょにひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこの跪排の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにほかならない。統一的な跪排のために人間は剣で互いに滅ぼし合ってきたのだ。彼らは神を創りだし、互いによびかけた。《お前たちの神を棄てて、われわれの神を拝みにこい。さもないと、お前たちにも、お前たちの神にも、死を与えるぞ!》たぶん、世界の終わりまでこんな有様だろうし、この世界から神が消え去るときでさえ、同じことだろう。…

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」 (訳: 原卓也)

問題というものはどの時代においてどんなに解決されても解決し過ぎることはない。現代の社会で生きていかなければならない私たちも過去に存在した解決済み問題のうえに、生じた新たな問題を背負っていかなければならない。現在、私たちは世界観(価値観)が異なる多数の人々と接触し、ある時には彼らと同じ共同体に所属しなければならない。「真理」や「正義」といった絶対的な価値が存在するならば、誰も苦労せずに生きていける。しかし、近代合理主義とともに「客観」主義が崩壊しようとする今、それを前提とする仮定は無意味である。そこで全ての価値を認めようとしたり、全ての価値を否定しようとする考え方が生まれる。相対主義や懐疑主義、もしくはポスト・モダニズムがそれらに相当する。しかし、それらは他者との共通了解の可能性の遮断を招き、結局のところアイデンティティ不安や欠落感を生みだすことになり、状況は悪化する。つまり、絶対的な価値も相対的な価値のどちらも存在しない。それにもかかわらず、世界観(価値観)の共有を私たち人間はいつの時代でも目指そうとし現代もその例外ではない。この「価値」問題を考えるには新たな視点が必要である。それは、「異なった世界像や価値観を持った個人(共同体)どうしが、それについての共通了解に達する可能性を持っているのか、もし持つとすればその原理はどういうものか。」という視点である。

現在の状況と2つのキーワード

近代合理主義

現在は科学技術万能主義が世界に浸透し、学問が極端なまでに専門化されている。それらの専門化された学問のほぼ全てが、近代合理主義の方法で研究が行われてきた。そこに「諸学の危機」の要因がある。現在、学問に少なからず関わるものは、その学問を疑わざるをえない状況にまで追い込まれている。特に社会科学、人文科学の分野の学問を学習・研究するものは、その学問の基礎を成す流れ、すなわち近代合理主義をもう一度考え直す必要があるのではないか。

価値相対主義

また情報は高度化し、いわゆる国際化した社会の到来によって、自分とは異なった共同体に所属する人々および彼らが発する情報に触れる機会が急激に増えている。彼らに接触するということは異なった価値観に触れるということであり、異なる価値観が一つの空間に存在する時、多くの問題が起こる。そういった状況で価値相対主義を主張する人が多いが、彼らは問題の本質的な解決策を提示するどころか、誤った考え方をしているるように思えてならない。

2つの問題

こういった2つの問題に共通することは、近代合理主義や価値相対主義といったイデオロギーが現代においてもはや特権的な地位から失墜した、ということではないだろうか。私たちはそういった現代において新たな思想体系を必要としている。反近代主義、反相対主義といったものではなく、近代主義や相対主義をうまく消化し、いわばジンテーゼを作り出さなくてはならない。私はそのヒント、さらにはその解決策が現象学にあるように思えてならない。そこで、これからフッサールの現象学を基軸として新たな「意味」や「価値」について考えていきたい。

近代合理主義からの脱出、そして新たな「知」へ
ー生活世界の普遍的探求ー

近代合理主義の誕生

近代合理主義の世界像は客観主義と合理主義に基づいている。そしてそこには2つのポイントがある。ひとつは「自然の数学化」ということ、もうひとつは「感性的性質の数式化」である。ガリレイの測定術は時間の長さ、空間の広さなどを「数学化」した。そのことでそれまで異質なものとして存在していた世界の時間・空間を「均質化」した。つまり、それまで異質なものとして存在していた時間・空間が計量可能なものになったのである。これが「自然の数学化」である。次に「感性的性質の数式化」であるが、感性的性質とは「暑い・寒い」「明るい・暗い」といったものである。自然科学は「太陽が沈んだから暗い」というのではなくルックスという尺度で測る。温度、重さ、硬さなどもそれぞれの尺度が存在する。これが近代科学によって生み出された「感性的性質の数式化」である。この2つによって近代の客観的・合理主義的な世界像が成立した。そして、「世界の客観的実在」が厳密なかたちで完全に言い当てられたはずだ、という理念が誕生した。さらにここには世界の「因果」と「法則」の体系を全て知り尽くすことができるという確信を人間に与えた。また、この方法は自然世界の領域のみならず、「社会」「文化」「人間」といった存在そのものにも適用できるはずだ、という考え方が現れた。その考え方が近代の諸学問に収拾のつかない混乱をもたらした。その混乱とは多くの相互に対立する主張や意見が現われて、どの考えが正しいのが決着がつかなくなったというものである。例えば、歴史学ではヘーゲルの市民社会中心の歴史観とマルクス主義の階級闘争史観とで激しい対立が起こった。こういった人文科学や社会科学における学説の深刻な対立は、徐々に近代的な学問への不信感を育てることになり、懐疑主義や相対主義、ニヒリズムなどの風潮が非常に根強くなっていった。19世紀がまさしくその時代であったことはニーチェの思想がそれと格闘した思想であることを思えば理解できる。また、近代の合理性と客観性には、「生活世界」という非合理性やいわゆる主観が学問的な対象から捨象された。これは「根拠関係の逆転」である。元来、学問とは、人間の生活世界の実利のためのものであった。しかし、近代科学は、仮説・抽象・論理で構成された理念の世界を拡張し、これを完全な体系として打ち立てることを自己目的化してしまった。そして、この理念的な体系の記述の中にのみ「客観」や「真理」が存在するという観念的な逆転が生じた。これが、高度に専門化された、非実用的な現代の学問へと結び付いているのである。

生活世界の普遍的探求

このような経緯を辿って近代合理主義が現代の超専門化された現在の学問体系へとつながっているのである。この専門化された学問をもう一度編み直そうというのが総合政策学であるが、フッサールはその「総合政策学」的な解決へのヒントを与えてくれる。それは「生活世界の普遍的な探求」である。生活世界は「主観的現象の領域」であり、また「根源的意味形成」の場所である。そして、そこから生まれた近代科学は相互主観的(間主観的)に構成されたものに過ぎない。つまり、諸科学の学者が言う「客観」も相互主観性(間主観性)にすぎないのである。ならば、その相互主観性が形成される構造を解明することで初めて諸科学を基礎づけることができるのである。ただ、この構造は、認識にかかわるだけでなく、価値判断や解釈にかかわる。つまり、「意味」や「価値」の形成の問題にかかわってくるので、「主体の意味形成の構造」(ジャック・ラカンの言葉を借りれば「象徴秩序」の形成構造)という問題領域が必要となってくる。まさしく、この問題を解決しようと試みることが「生活世界の普遍的な探求」なのである。

新たな「知」の創造

このように、主体が「意味」や「価値」をどのように形成し、他者とどのように関係させるのかという、意味論や価値論の原理論を追究することは、近代科学によって逆転させられた生活世界と学問の関係を元に戻し、また、高度に専門化された学問を基礎づけることによって、生活世界に実利をもたらす学問の創造が可能になり、本来の意味での「学問」へと回帰させるのである。それこそ、新たな「知」と呼べるものなのではないだろうか。

価値相対主義批判

価値相対主義の落し穴

客観主義が崩壊した現在、価値観の多様性が自明であることを誰も疑わない。そこで、「多様な価値観を認めなくてはならない。」「価値基準は無根拠である。」という相対主義者(懐疑主義者)の考え方は一見、的を得たように思われる。しかし、それをそのまま受け止めることで問題の解決はなされるのだろうか?たしかに、価値観というものはひとそれぞれである。音楽に関して言えば、ロックが好きな人もいるし、ジャズがいいって言う人もいれば、クラシックしか聞かないと言う人もいる。その好みを他者が変えることはできない。しかし、華原朋美やELTが売れるということは、それが「いい音楽を提供してくれる」「他の曲を聞くより心地よい」ということであろう。もちろん音楽以外の側面、つまり身体的なスタイルのよさ、整った顔立ち(これも美という価値問題につながる)なども多少は影響があるだろう。しかし、彼女らが歌う曲が他の曲よりも「よい」という価値が存在しているのである。誰でも自分の価値基準というものを持っているのではあるが、もしその価値基準が無根拠なものであるとすれば、「いい曲」はもちろん、「美しい」や「正しい」、「ほんとう」といった感受性が関係することがらでの他者との一致が存在しないということになる。しかし、私たちはそういった「いい曲」や、それの根本要因である感受性の一致が実在することを知っている。例えば、善悪といった価値に関して考えてみる。もし、価値に対して相対主義を貫こうとすれば、たちまちルール(法律、規定等)といったものは空文化する。この「ルールの空文化」によって「ルールの正当性の無根拠性」、すなわち、「善悪という価値基準の無根拠性」を目指していた相対主義者は願がかなったことになる。しかしながら、ルールが価値を失うことで、いたるところで暴力事件、さらには戦争といったものが勃発するであろう。たしかに、相対主義者に限らず、多くの人々は人間的な「善」の根拠など言えるはずがないと考えるかもしれない。しかし、それは彼等が、この問題を客観的かつ論理的な方法で扱ってきた従来の方法しか知らないためである。「客観が存在しない」ことを知っておきながら、客観的で論理的、かつ観念的である近代科学の視点から離れられないからである。フッサールの著書、『イデーン』の後書きにも書いてあるように、すでに自分思想や考え方に確信をもっているからである。また、彼らは「真・善・美」といった価値基準について、過去に人類はどんな「見解の一致」にも達しなかったし、これからも決して達しそうにないことを証拠として、むしろそれらの価値基準の無根拠性こそが証明できると考える。しかし、それは論理的な倒錯(背理法の罠に陥っている)に過ぎない。例えば、世界に理想的状態が一度もなかったという事実によって、人間が「理想」を目指すことの根拠それ自体を無化することはできないのである。事物の実在を論理的に証明できないことによって、「客観」が存在しないことを証明できるが、事物が存在しないことを確信する人間はいない。

価値相対主義との共犯者、ポスト・モダニズム

いままで価値相対主義について考察を行ない、それが近代的な枠組から出ていないことについて述べてきたが、そのことはポスト・モダニズム(特にフランスで主流である、ニーチェ的な懐疑主義的側面にのみ依拠しているポスト・モダニズム)についても同じことがいえる。ポスト・モダニズムは既成の価値、権威といったものに対しての、徹底的な懐疑を行なう思想である。しかしながら、それは懐疑主義に留まるだけで、あらたな「知」を示してはくれない、という点で、相対主義(相対主義とは全ての価値を懐疑する。)と変わらない。また、一般的にポスト・モダニズムの考え方は理解しがたく、大衆消費社会である現在において、それは実用的ではない。誰もが「価値」や「意味」の「本質」を理解できる原理を示す必要がある。致命的なのは近代合理主義を否定しつつも、論理的な思考から抜け出せないところである。

現象学の視点

前章の「近代合理主義……」での新たな視点を提供してくれたように、ここでも現象学は別の視点を提供してくれる。それは「ことがらや事物の実在の根拠が論理的に証明できないにもかかわらず、人間が諸価値を作り、それなしでは誰も生きていけない事実を、どのように了解すればいいか。」また、「科学的な事実は証明できるのにもかかわらず、価値が関わることがらには論証不可能なものとして存在するという事実を、どのように了解できるか。」の2点である。これらの2点の問題を考えるためには前章で述べたように、近代科学を乗り越えた、新たな「知」なるものが必要となってくるのでないだろうか。

終りに

私はなぜ現象学を選んで現在の問題を書こうと思ったのか。それは現象学はこれまで私が理解できなかった「主観」と「客観」という問題に対して、「本質直観」的な確信を与えてくれたからである。ソクラテスやカント、ヘーゲル、キルケゴールといった枚挙に暇がない数の哲学者たちが、その問題に対して答えを出そうとしたが、誰もが満足いく答えを提示することはできなかった。ニーチェがかなりいいところまで導いてくれたがまだ納得できなかった。そこで竹田氏の著書による、現象学の本を読んでみたところ、確信は訪れた。それは「こういうことならわかる!」という強いものであった。それまで相対主義や観念的な理想主義の間をふらふらしていた私にとっては、まさしく「パラダイム・シフト」といえる事件であった。主客の理解ができると次は「価値」「意味」そして「知」といった問題に必然的に移行する。それをここで考えてみたかったのである。すべての学問の根底にある「知」は何であり、論理ではとらえられない「価値」とは何なのか、ということを言葉にして整理してみたかった。問題点については整理できたが、残念ながらそれらの問いに対する明確な答えというものは簡単には見つからなかった。しかし、問題点を明らかにすることができただけでも、意味があったと思う。

参考文献
フッサール「イデーン」「諸学の危機と超越論的現象学」
竹田青嗣「現象学入門」「意味とエロス」「ニーチェ入門」
橋爪大三郎 「はじめての構造主義」

※1997年秋学期 慶應義塾大学総合政策学部 必須科目「総合政策学」提出論文


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