伊藤博文の満洲旅行関係件 4
電報第三六号
<明治 四十二年十月 十七日>
在清国 伊集院公使
小村外務大臣宛
小池から左のような電報があった。
第八五号
外務部は伊藤公の來遊に対して接伴補助について、かねて督撫に対して日本との交涉問題について中央政府の意向を內示する意味で、左丞代理の曺汝霖を貴地に特派することになり、同人は十七日 に当地を出発した。曺の内輪話によれば、各種の問題に関して、中央の意思は充分に督撫に徹底することができていないようであり、例えば鴨綠江架橋問題のような件は、督撫はいまだにあれこれ[種種]理由を持ち出している。その話すところに道理があるのは勿論であるが、要するに、政府の現在の方針照らして遺憾である嫌いがないでもないので、自己(曺汝霖のことか?)をして親しく充分な說明をさせしむようになったのであり、曺汝霖はまだ若いけれど日本留學出身者のなかで人才ある人物として大臣たちの信用が篤く、近來は頻繁に栄進して、左丞代理の要職にある。主に日本関係の事務を担当している者であるので、そのように心得て懇篤に接遇するよう申し添える。大臣に転電すること。
------< 原文 >------
電報 第三六號
<明治 四十二年(一九◯九) 十月 十七日>
在淸國 伊集院 公使
小村 外務大臣宛
小池에게 左와 如히 電報하였다.
第八五號
外務部는 伊藤公 來遊에 對하여 接伴補助 兼 督撫에게 對하여 日本과의 交涉問題에 對하여 中央政府의 意向內示의 意味로써 左丞代理 曺汝霖을 貴地에 特派하기로 되어 同人은 十七日 當地를 出發한다. 曺의 內話에 依하면 各種의 問題에 關하여 中央의 意思는 充分히 督撫에게 徹치 못한 것 같아서 例컨대 鴨綠江 架橋問題와 如함은 督撫는 아직 種種의 理由를 持出하고 있다. 其 말하는 바에 道理가 있음은 勿論이나 要컨대 政府 現在의 方針에 비추어 遺憾의 嫌이 없지 않으므로 自己로 하여금 親히 充分한 說明을 하게 되었다고 曺汝霖은 아직 少年하나 日本留學出身者中의 人才로서 大臣連의 信用이 두텁고 近來 頻繁히 榮進하여 이미 左丞代理의 要職에 있다.(侍郞의 次席) 主로 日本關係의 事務를 擔當하고 있는 者이므로 그리 알고 懇篤히 接遇하도록 申添한다. 大臣에게 轉電하라.
国史編纂委員会『韓國獨立運動史 資料7』1983年, 2ページ.
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「曺汝霖」(『国史大辞典』吉川弘文館)より
曹汝霖 そうじょりん Ts‘ao Ju-lin(1877~1966)
清末・中華民国初めの官僚。字は潤田。江蘇省上海県(上海市)の人。
1877年生まれ。科挙の秀才。義和団事件後日本に私費留学して早稲田専門学校(早稲田大学)・東京法学院(中央大学)に学ぶ。中江兆民未亡人宅に下宿し、中江丑吉を識る。
帰国後、商部主事、ついで外務部主事に転じ、累進して外務部右侍郎、官制改革後に外務部副大臣代理。辛亥革命後、弁護士、袁世凱指名の参議院議員・総統府顧問、ついで外交部次長になり、総長陸徴祥・駐日公使陸宗輿とともに日本の二十一箇条要求に関する折衝にあたる。その後交通部総長。袁の死後、交通銀行総理、段祺瑞内閣・銭能訓内閣の交通部総長として一時財政部総長代理を兼ね、駐日公使章宗祥とともに西原借款の交渉にあたる。
1919年5月4日、ベルサイユ講和会議における中国代表の要求(二十一箇条条約の廃棄、山東省における旧ドイツ利権の返還)否決に抗議する北京の学生デモ(五・四運動の発端)に際し、対日屈辱喪権外交の責任者として曹・陸・章、特に曹が攻撃の的になり、その邸宅が襲撃放火され、危機一髪難を免れたが、居合わせた章は逃れるところを学生に捕捉殴打され、駆けつけた中江丑吉に救出された。
曹は免職されて天津日本租界に隠棲。日中開戦後、華北臨時政府主席就任を固辞して最高顧問となる。人民中国成立後、日・米に逃避して、1966年アメリカのデトロイトで死去。90歳。自伝『一生之回憶』(鹿島研究所出版会刊行の日本訳あり)がある。
[参考文献]
百瀬弘「五四事件関係坂西利八郎書翰おぼえ書」(鈴木俊教授還暦記念会編『(鈴木俊教授還暦記念)東洋史論叢』所収)
(波多野 善大)
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