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ハインラインと女性とLGBTQについてわたしが思うこと



月が女王に見えるのは…?

『月は無慈悲な夜の女王』は、わたしがR・A・ハインラインというSF作家に傾倒するきっかけとなった作品です。

この作品は『月は無慈悲な夜の女王』というこの「邦題そのもの」を絶賛するひとも珍しくありません。
原題をそのまま直訳した『月は厳しい女教師』よりも響きがよく、かつ印象的だからでしょうか。

が、わたしは個人的に、このタイトルに違和感をもっています。
なにしろこれを書きはじめた時点では、「ハインライン作品の日本語訳タイトルについて物申す」という記事にするつもりで書いていたぐらいですから。

だからといって、ここで「女王」や「女教師」を問題にして、女性差別のどうのという話をしたいわけではないので、早とちりしないでください。
これから書くのは、わたしがハインライン作品から読みとった作家としての彼のスタンスや、人物像についての見解です。

『月は無慈悲な夜の女王』の舞台は、月の内側に作られた月世界市です。
月世界はもとは犯罪者の流刑地で、そこに代々暮らす人々が、月世界をいつまでも自分たちの思うがままにできる植民地だと思いこんでいる地球を相手に、独立戦争をおこすというお話です。

このあらすじを聞いて脳裏に思い浮かんだ物語に、『月は無慈悲な夜の女王』というタイトルをつけてみてください。
何か違和感がありませんか?

“月が夜空に女王のごとく煌々と輝いて見える”のは、地球から月を眺めた場合だけです。月の夜空にあるのは地球であって月ではありません。
さらに、月では圧力服(宇宙服)なしで地表へは出てゆけません。だから月の内側に住んでいるわけです。地球を眺めるためだけにふらふら地表に出て行くような月世界人はいないのです。

こう考えてゆくと、失礼ながら『月は無慈悲な夜の女王』というタイトルでは、革命を起こして独立を勝ちとる月世界をイメージしているようには思えません。
むしろ地球のだれかが夜空に月を見上げて、月世界との戦争を回想するかのごとく思われるタイトルです。
こういうふうに分析していくと、ちょっとイメージが違うんですよね。


一方、原題[The Moon Is a Harsh Mistress]を直訳した『月は厳しい女教師』という言葉のほうは、何故そうなのかの説明とともに作中にそのまま引用されています。

ひとつの社会では、その現実に適応しないかぎり生存を続けられない。月世界人は地球とは異なる月の厳しい現実に適応した人々で、そうできなかったものは死んでいったのだ。
つまり、月世界は厳しい女教師のように人々を淘汰するのであると。

地球では呼吸する空気は無料であるし、地上のどこからでも夜空に月や星を眺めることができます。
けれど月では空気は有料で、これは生きるために必ず支払いつづけなければならないことを意味しています。
圧力服も着ずに地表に出てゆく者は自殺志願者か観光客だけで、地球の常識は、月では通用しないのです。

『月は無慈悲な夜の女王』という邦題にわたしが違和感をおぼえるそれが理由です。



ハインラインと女性

ハインラインファンなら誰でも知っているように、本国アメリカでは『月は無慈悲な夜の女王』が絶賛されている一方、日本で人気の『夏への扉』の評価はさほど高くありません。

この国で『夏への扉』が大絶賛されていることに関するわたしの見解は別の記事にもう書いたので、今度は『月は無慈悲な夜の女王』がアメリカで高く評価されていることについて考えてみたいと思います。

ハインライン作品に登場する女性たちが、男にとって都合がいいタイプの女性であることはまずありません。
むしろ男性優位社会の歪みを真っ向から突くような独立独歩の女性であることのほうが多く、そもそも物語の枠組みじたいが男の特権を良しとしない世界観で描かれていたりもします。

『月は無慈悲な夜の女王』に登場する女性たちもそういうタイプだし、この作品では何故そうであるのかという背景をきっちり用意したうえで、月世界の自由な女性たちについて描かれています。
これを読むと、フィクションだと思いつつも、作中の地球やリアル世界でも当たり前になっている男性優位社会の常識は必ずしも絶対的ではないし、こういう社会もあったのだということに気付かされます。

ハインラインは1907年生まれなので、日本の元号に直すと明治の終わりの生まれということになります。
この作品が、そんな時代の男性作家の手で書かれていたということにわたしは素直に感嘆します。

さて、明治といえば日本がそれまでの階級社会から、近代化された社会へと変わりつつあった時代です。
江戸時代にあった身分制度をなくすことにはじまって、憲法や、それまでの藩に代わる現在の『47都道府県』を制定するなどし、何かと話題の選択的夫婦別姓を邪魔する「戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度」家制度(家長制度)などができたのもこの時代でした。

家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。

Wikipedia「家制度」より引用

わたしの意見では、この頃に日本は男性優位で「女子供は二級市民」という考え方を根付かせ、長男を次の家長として特別視するような風潮が生まれたのではないかと思います。
そして、時代が昭和になる頃には、もうすっかり「女は3歩下がって歩け」だの「女のくせにでしゃばるな」だのといった男優位の考え方が定着していたのです。

そのうち、なんの資格も立場にもない単なる庶民の男でさえもが、「家長の命令は絶対だ」などと特権を振りまわしはじめ、偉ぶって見せるのが男らしさだと勘違いして、面倒なことは女性に押しつけるのが当たり前という時代になりました。

ようするに、歴史を遡ればこのころに、今現在まで尾を引く日本の「新しい身分制度」ができたわけです。
そのせいで、女性は良き妻かつ良き母であることを無条件に要求されることになりました。

結婚すれば退職して家事と育児に専念するのが当たり前。結婚後に仕事をする場合には「家事に差し障らない範囲」でパートを選び、仕事を終えて家に帰っても家事や育児は相変わらず女性の仕事でした。

わたしがハインライン作品を高く評価する反面、明治から昭和にかけての日本の文豪の作品を「文科省推薦のつまらない本」と決めつけてほとんど読まずにいるのは、この辺りに理由があります。

すべての作家、全ての作品を全否定するつもりは毛頭ありません。
が、学校の授業で避けられずに読むことになった作品でも、無意識だろうと男尊女卑を当たり前と考えている作者の意識が透けて見えると、わたしにはそれがとにかく不快だったのです。


ハインラインの作品からは、たとえ彼自身のスタンスにそういうものがあったとしても、それががほとんど感じられなかったのです。
もちろん登場人物には、日本の家父長制度に首まで浸かっているようなタイプの傲慢で偉ぶった男も出てくるのですが、作者であるハインラインがそうでないことは、登場人物の扱い方や女性の描き方からもわかりました。

これは特定の1冊2冊でなく、分析可能なだけの話数や冊数の作品を読んだうえでの個人の見解です。
異なる意見もあるかもしれませんが、わたしはそう感じたのです。


ハインラインと政治

日本の元号が昭和に代わり、女性たちが新しい身分制度によって虐げられつつあった頃、太平洋の向こうでは、女性解放運動がアメリカを席巻していました。

フェミニズムは市民革命に端を発し、19世紀から20世紀前半までの女性参政権運動を中心とする第一波フェミニズムと、社会習慣・意識に根ざす性差別との闘いを中心とする第二波フェミニズムに大別される。

Wikipedia「フェミニズム」より引用

女性解放運動は、ハインラインが作品を発表していた1930年代の終わりから1980年代ごろにかけて、戦争による中断をはさみながらも途切れることなく続いていたようです。


第二次世界大戦が終了した1950年代になると、帰還兵の就職口を作るために、働く女性が職を手放さなければならなかったが、多くの女性はその後も工場・農場・伝統的な女性職の領域で働き続けた。

戦争が引き起こした人手不足は女性の積極的労働参加を促し、「女性も男性と同じ仕事ができる」という、仕事における自信をもたらした。この女性の社会的自立が、のちのウーマンリブ運動の気運を高めたといえる。そしてベトナム戦争の反戦運動と共に、男社会に対する不満を抱えた女性たちによるウーマンリブ運動がアメリカ中を圧巻した。

Wikipedia「ウーマンリブ運動」より引用

この時代背景だけをとっても、同年代の日本の作家とは随分と状況が異なります。
そのうえハインラインは、いい意味で節操なしの作家だったのです。

新しいものにはすぐに飛びつくタイプだったようだし、それはそのままバラエティに富んだ彼の作品のアイデアや作風にも表れています。

彼の著書は、作品によっては右翼傾向だの左翼的だのと評されたものもあれば、何千年も生きる長命人種や、老衰で死にかけていた男が脳移植で若い女性として生まれ変わるなど、アイデアじたい突拍子もないものまでさまざまです。
とうぜん何を読むかによってかなり評価が分かれたのではないかと思われます。
彼の本を1冊か2冊読んだぐらいで「ハインラインはこうだ!」と決めつけるのは早計ではないでしょうか。


ハインラインを右翼的だと決めつけるひとの多くは、わたしに言わせればそれっぽい作品ばかりを選んで読んでいるのです。
何作かまとめて読んで比較してみれば、彼の作品は、広範囲な政治的スペクトルを右へ行ったり左に振れたりと、節操なく行き来していることがわかります。
そこもわたしにとってはハインラインの魅力のひとつなんですけどね。

R・A・ハインラインは、もうずいぶん前に亡くなっています。
もしご健在だったとしても、とっくに100歳を超えている年齢です。

けれどわたしは思うのです。
彼が今なお書き続けているとしたら、彼ならばおそらくLGBTQを取り上げ、この時代について語る作品を書いているのではないかと。
そのくらい彼の興味の幅も、人間への深い理解もチャレンジ精神も、作品にえらぶ題材や何もかもが、とにかく既存の枠や社会通念にはおさまらず、次は何を書くかわからないおじいちゃんだったのですから。

ハインラインが描くLGBTQをテーマにした物語を、わたしは読んでみたかったし、同じように考えるファンは、きっとわたし以外にもいるはずです。

勝手な思いこみかもしれませんが、わたしにとってハインラインとは、そういう作家なのです。


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