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【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】『もう、忘れていいよ』(3)


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

「もう、忘れていいよ」
この言葉に
きっとあなたは救われる

第5章『話がかみあわない女』

 和雄の様子が気になり、和雄が働く仕事先を訪ねた。
都心の繁華街から少し離れたラブホテル街だ。
和雄はここで住み込みで、清掃の仕事をしているらしい。
和雄がちょうど休憩中で、ホテルの裏側の路地でタバコを吸っていた。
和雄に缶コーヒーを渡して「仕事が見つかって良かったな」
「ああ。この歳でおまけにこの景気だ。住みこみとなると、贅沢はいえないさ。体はきついけどな。お前はどうだ」
「相変わらずさ」
「そうか。まぁ若いし俺と違ってお前はちゃんと大学まで出てるんだから、なんとかなるだろ」
「金用意できたんだ。借そうか?」
「ありがとう。でもいつ返せるかわからないしいいわ」
「母さんのところに、帰ったら」
「そんなこと、できるわけないだろ」
「母さんもそういってたけど」
「俺が勝手にしたことだ。母さんには、どうしたって会えないさ」
「このまま、死ぬまで?」
「ああ。そうだ」
「母さんが会いたいっていっても」
「いうわけないだろ。お前も結婚したらわかるさ。夫婦の間のことは、そのふたりにしかわからないんだよ」
「俺はもう一度、やり直して欲しいな」
「そう簡単じゃないさ」
「じゃあ親父は、このままずっと一人で、死んでいくのかよ」
「先のことはわかんないさ。いい女が拾ってくれて、面倒見てくれるかもれないしな。どんなに愛し合った女と居ても、死ぬ時は一人だしな」
「親父はどうして母さんじゃなくて、あの女を選んだんだよ」
「……どうしてかな。忘れちまったな」
「そんなに簡単に忘れられるのかよ」
「お前も俺の歳になるとわかるさ。忘れないと生きて行けないこともあるのさ。自分を守るために、都合のいいように忘れる。人間ってそういうずるい生き物さ」
休憩が終わり、仕事に戻った和雄と別れてホテル街を歩いた。

サービスタイム6800円と看板が出ている。
こんな昼間に利用する客って、と思ったら、明らかに10代とわかる女の子と中年の男性が、ホテルに入って行く。
これが現実だよな。
携帯に着信があり、出ると見知らぬ女からだ。
前に美和子が、俺のことを宣伝した一人らしい。
すぐ近くにいるからと、会うことになった。
待ち合わせ場所のデパートの入り口にいた女は、すぐにわかった。
人気のネコのキャラクターで全身をコーディネートしている。
目立つというよりは、浮いているという印象だ。
おまけに髪型も化粧も、かなりケバイ。
並木香代という女に「澤田ですが、お電話頂いた方ですよね」
「はい。はじめまして。並木です」

一緒にファーストフード店に入り、話しをはじめた。
「まず聞きたいんだけど。美和子とはどういう知り合い?」
香代はくせなのか、しきりに染めてパサついた髪をさわりながら。
「美和子さんって、すっごくいい人ですよね」
少し待ってからもう一度尋ねる。
「で、美和子とどういう知り合いなの」
「えっと、私入院したんですね。だけどお金なくって。だって一週間で十三万ですよ。もう困っちゃって」
そこまで話すと今度は、ジュースの氷をかきまぜる。
この調子じゃ、時間がいくらあっても足りそうもない。
「君さ。俺が聞いた質問わかる?美和子とどういうつながりかって、聞いてんの」
「つながり?別につながってはいないけど」
こうやって香代から聞くより、美和子に聞いた方が早いと思い美和子に連絡を取った。
香代は酒の飲みすぎで肝臓を悪くして、美和子の勤める病院に入院したが、治療費を払えずに困っていたので、美和子が病院に掛け合い、分割で支払うことになったそうだ。
美和子が香代のことを「ちょっと、変わっている子でしょ」といっている。そんな奴を俺に紹介するなと思ったが、もう目の前にいるのだから仕方がない。
「君は俺にどうして欲しいの」
「う~ん。忘れたいの」
「何を?」
「いわれたこと」
「誰に」
「男に」
「彼氏?」
「違う」
「じゃ、何」
「何って?」
ヤバイ。また堂々めぐりのスパイラルに落ちそうだ。
これは俺だけじゃ無理だ。美和子に助けてもらおう。

美和子も合流しファミリーレストランで、再び香代の話を聞いた。
さすが女同士とあって、香代の曖昧でとっちらかう話も、美和子はうまく聞き出してくれた。
香代の話は生い立ちから始まる。
香代が5歳の時に、両親が離婚。自分と弟は母親に引き取られるが、母親も新しい男とどこかにいなくなってしまい、施設で育つ。弟は中学時代から施設を飛び出し、今は行方不明。香代も中学を卒業したら、施設を出てあらゆる所を転々として、今はキャバクラで働いて、酒の飲みすぎで入院し美和子と知り合う。
香代が俺に頼みたいのは、キャバクラで知り合った男と深い関係になり、半年前に男と別れたが、その時にいわれたことが忘れられずにいるそうだ。
美和子が調子よくあいづちを入れ「それでその男になんていわれたの?」「え~と『俺はバカと貧乏人とは付き合わない』って」
「そりゃ、ひどいな」
髪をいじりながら香代が「私~その通り、なんだけど一応、傷ついたのね」「私だったら、その男、殴っているね」と美和子が憮然という
「何者なんだ、その男は」
「何者って?」香代が首をかしげる
「仕事とか何してる人」美和子がしびれを切らす。
「え~と、国で働いているって」香代が髪の毛をくるくるさせながら
「官僚かな」といってみる。
美和子が怒って「いるのよね、そういう上から目線の奴ってさ~。自分が世の中を動かしているんだって勘違いしてるのよね」
俺は男だからよくわかる。
香代には申し訳ないが、その男はほんのちょっと遊ぶつもりで、香代とそういう関係になったんだろう。
香代の気持ちが知りたくて「君はその男のこと、まだ好きなのかな」
「う~ん、自分でもよくわからない」
俺も美和子もこれだけ聞きだすのに、くたくたになった。
美和子がデザートを注文するといい出したので、俺も珍しく一緒にチョコレートサンデーを注文した。
脳が糖分を欲しがるくらい、香代との会話は疲れる。
これから香代と美和子抜きで会うのかと、思うと気が重くなった。
それぞれが注文したデザートが運ばれてきて、黙々と食べた。
香代がまたパサついた髪をいじりながら「私ホントに頭悪いけど、変わりたいって思うの。幸せな結婚がしたいって」
美和子がデザートを食べ終えて「私だってそう思うよ」
「俺だって思うな~」
水を飲みほし美和子が「どうしてうまいくいかないのかしら。みんな幸せになりたくて、結婚するのにね」
劉にいわれた“本当の恋愛がしたいのなら、本当の自分をつくれ”っていわれたことに通じるのかな。俺はまだまだ、本当の恋愛はできそうもないな。
香代には先に帰ってもらい、正直に美和子にいう
「あの子無理だわ」
「そうだよね。さすがに私も疲れた」
「断っていいかな」
「それは哲也が決めて。……でもさ私たちも両親が離婚して、お母さんに育てられたけど、違うよね。私たちはこうして姉弟がいて、お母さんもいて何でも相談できてさ。私ってなんて幸せなんだろうって。香代ちゃんの話を聞いて、しみじみ思った」
「そうだな。俺たち最高に幸せだな」
「香代ちゃんはずっと子供の時から、何でも一人で抱えてああして生きてきたんだよね。それってスゴイよね。頭が悪いとか貧乏だとかじゃなく、香代ちゃんの方がずっと人として上を行ってるよね。香代ちゃんみたいな人が、一番先に幸せになってもらいたいな」
「……そうだな……」
美和子がいったようにこの世に幸せになる順番があるとしたら、やっぱり俺も香代に「お先にどうぞ」っていうかな。
香代が「変わりたい」ってきっと本当の自分をつくることだし、そうしたら本当の恋愛ができて、そして幸せな結婚ができる。
漠然と香代のサクセスストーリーを考えてみた。
そう簡単にいかないのが人生だってわかっているけど、でもやるだけやってみるか。
「やっぱりやってみるよ。香代の『忘れさせ屋』。自信ないけどやってみる」
「今の哲也ならできると思うよ。だって哲也変わったもん」
「え~、そうか?」
「うん。変わった。なんかカッコよくなった。弟じゃなかったら、惚れているかも」
劉にいわれたことをそのまま美和子に話した。
「『本当の恋愛がしたいなら、本当の自分をつくるか』いいこというね。その劉さん。節姉、早く結婚しちゃえばいいのに」
「そう思うよ。“男が男に惚れる”っていう感じだよ」
「ねぇ、私にも劉さん紹介してよ」
「そうだな。今度節姉も母さんも一緒に、みんなでメシでも食おうか」
「外堀から固めるってやつね」
「そうだな」
そこに和雄も一緒にと思い「親父も誘わないか」
「え~、私はいいけど、節姉とお母さんが何ていうか」
「じゃ、母さんは美和子に任せるからさ。節姉は俺がなんとかするよ」
「わかった。そうだね」俺たち家族がそれぞれが嫌なことを忘れて、もう一度やり直せるって信じたい。

美和子と別れて自宅の郵便受けで郵便物を取っていたら、後ろから声をかけられた。
「澤田さんですね」
振り向くと50歳位の男が立っていた。
ふちなしのメガネの奥の目が明らかに、据わっている。
男に異様な殺気を感じた。
男は低い声でハッキリと「まどかの父です」といった。
心臓の鼓動が最速で動き、息苦しくなるのを感じた。
「……どうも……」
その後の言葉が見つからない。
まどかの父はどなるように「なんでお前が生きているんだ!!色々調べさせてもらったが、まどかが死んでから、よくまあ色んな女とチャラチャラして。お前はまどかがどんな思いで、死んだかわからないのか!」
今ここで何をいっても、いいわけにしかならない。
黙っていると睨みつけられて、突然殴りかかってきた。
体に鈍い痛みが全身をつく。
転んだ顔を足で蹴られる。
激痛で頭がもうろうとする。
もしかしたらこのまま、殺されるかもと思った。
遠くの方で誰かが『警察を呼ぶ』といっている声が聞こえる。
そのまま意識を失った。

気がついたら病院のベットの上だった。
状況を思い出すのに、ちょっと時間がかかった。
しばらくして刑事が話を聞きにきた。誰かが通報したのだろう。刑事にまどかの父を告訴するかと聞かれたが、そんな必要はないと答えた。
刑事が何かまたあったら、すぐに連絡するようにといって帰っていった。まどかの父親のすごい形相が浮かんだ。
まどかが死んだことを “絶対に忘れるな”といわれているようだ。
そうだ。俺のせいでまどかは死んだんだ。
取り返しのつかないことをしてしまったという、どうしようもない後悔の渦の中に突き落とされた。
“償い”そんな言葉もとうてい及ばない。体中が痛い。
一晩中体の痛みで、眠れなかった。

翌朝、病院からは誰かに迎えに来てもらえといわれたが、一人でタクシーで帰った。
部屋に入りそのまま、ベットに横になったら眠ってしまったようだ。
あたりはすっかり暗くなっていたから、かなりの時間眠っていたようだ。
急に腹が減った。お腹がグ~と鳴る。
昨日の晩から何も食べてないしな。
部屋にはカップラーメンくらいしかない。
何か買いに行く気力もない。その時携帯が鳴った。
香代からだった
香代は俺に何回か連絡をしたらしい。
簡単に状況を説明したら、今から食べ物を持って来てくれるという。
迷ったが甘えることにした。
香代がスーパーの袋を提げて、部屋に入ってきた。
相変わらず猫のキャラクターの服に、ケバイ化粧だ。
しかし驚いたことに香代はこれから料理を作るという。
「コンビニで何か買ってきても、良かったのに悪いな」
「私バカで勉強はダメだったけど、ごはんは好きなの」といい香代は手際よく料理を作る。
香代が作ったたまごがゆと、白身魚の煮付けに、ほうれん草のゴマ和えと一気に食べた。どれもすごくうまい。
心底感心して「お料理がうまいのは、頭がいいんだよ。これだけパッと作れるんだ。君はいい奥さんになれるよ。男は料理で釣らなくちゃ」
香代はいわれている意味が全くわからないという顔で「釣るって?」
「あぁ、いいんだ。とにかくおいしかったよ。ありがとう」
香代は改めて哲也の顔を見て「でもすごい顔。痛そう~」
ろくに鏡も見ていなかっから、香代が貸してくれた手鏡を見てとても驚いた。
自分ではないまるで別人だ。
こんなに殴られたんだ。
でも殴られても仕方のないことを俺はまどかにしたんだ。
まどかの父親は、今どんな気持ちだろう。
「誰にやられたの」
香代に説明するには相当に骨が折れそうだけど、まどかのことを話した。
途中で何度も話がかみあわなくて、面倒になったけど最後まで話した。
「ふ~ん。でもまどかって人。ずるいよ」
「ずるい?」
「だってさ、逃げたんでしょ」
「逃げた」
「そうだよ。私だっていっぱいあったよ。死にたいって思うこと。でも死んだらずっと、いやなままじゃない」
「君ならどうする」
「……色々やる。私バカだけど、何かやってみる」
「それで俺のところに来たんだもな」
「そう」
「君はバカじゃないよ。偉いよ」
「えらい?」
話題を変えようと思い
「仕事変えないか」
「変えるって」
「ちゃんとした仕事して、もう一度勉強した方がいいよ」
「ちゃんとした仕事って何」
「何したい」
「う~ん」
「何が好き」
「ごはん作るの好き」
「そうだ!こんなに手際よく、早く作れるんだもの。それがいい!」自分がものすごい発明をしたかのように、嬉しくなった。さあこれからどうやって香代に説明しようかと思うと、なぜか心が躍った。
香代にまどかのことを話して良かった。
少し心が軽くなった。
顔の腫れがひき、ようやく少し普通に見られるようになるまで一週間かかった。
その間何度か香代が食事を作ってくれた。
どれも本当にうまい。
そしてすっかり香代のペースになれて、お互いにうまくコミュニケーションができるようになった。
ありえないが俺は香代に恋をした。
やはり男は料理で釣られる。
見事に香代に釣られた。
今日は何を作ってくれるかなと待っていると、香代から仕事で来れなくなったと連絡があった。
この時は狼狽するほどイライラした。
来られないのならこちらから会いに行こうと、まだ腫れている顔をかくすために帽子にサングラスをして出かけた。

 香代が働くキャバクラでは不審者のような外見のせいで、入口で店員に入店を断られたが、チップを渡したらあっさり入れてもらえた。
仕事をしていた時に何度かこのような店に来たことがあるけど、あまり好きになれない。
店の中はスケベな男たちと、軽薄な女たちの異様なテンションで盛り上がっている。
案内された席に座り、香代が来るのを待った。
しばらくしていつもの猫のキャラクターの服装ではなく、レースをふんだんに使った下着かと思うような、露出度満点のミニスカートのワンピース姿の香代が笑顔で隣に座る。
一瞬俺の変身ぶりにだまされたが、わかるといつもの香代になった。
すっかりとキャバクラ嬢に変身した香代に、高校生が初めて年上のお姉さんに恋の手ほどきを受けるような緊張を覚えた。
香代はそんな戸惑いに全く気がついている風でもなく、いつもの調子で「今日はごめんね~、ごはんつくりにいけなくて」とのんびりという。
香代のいつもの笑顔を見たら心から素直に「会いたかった」といっていた。「私も~」とそっと手を重ねてきた。
きっと香代にとっては店で普段から客にしている、ソフトタッチなスキンシップだろうし、今までの自分ではこんなことくらい何でもないが、恥ずかしいくらいにドキドキした。
香代はそんな俺の気持ちを全く感じても、察してもなく、そっと俺の肩に頭を乗せてきた。
安っぽいシャンプーの香りに、またもや変な高揚感が湧いてくる。
もうどうにでもなれと思い「君を好きになった」といおうと思った時に、店員が香代を呼びに来た。
どうやら香代に他に指名が入ったみたいだ。
そして香代の顔色が変わった。
「アイツが来たの」
アイツとは香代が忘れたい男だとすぐにわかった。
香代はどうしようとかという不安そうな顔を向けたが、一発殴ってこいというジェスチャーでかえした。
香代は大きく深呼吸して、その男の元に行った。

少し離れた席に座っているその男は、30代の中位で見るからに上等なスーツを着ているが、偉ぶった態度が前面に出ている同じような仲間と数人で来て大騒ぎをしている。
香代の肩に手を回し、俺の女だといわんばかりだ。
さすがに香代も、少しイヤな顔をしている。
見ていてその男を殴りたい気持ちを、抑えるのに必死だった。
その時その男が香代の胸をムンズと掴み、ニヤニヤと軽薄な笑いをしている。
もう我慢の限界だと立ち上がりそうになったと同時に、香代がその男の顔にコップの酒を思いっきりかけた。
一瞬あたりがシーンと静まりかえった。
とっさに飛び出して香代の腕を思いっきり掴み、その場から全速で逃げた。

ふたりでもう走れないという所で止まった。
肩で息をし噴きでる汗がとまらない。
しばらくして呼吸が落ち着いてから、
「逃げるが勝ちだもんな」
「そうだね。あ~、楽しかった」
「俺も」
「これで私忘れられる」
「えっ」と香代を見るといつもの笑顔をむける
「ありがとう。哲ちゃんのおかげだよ。私もう大丈夫だよ」
今までためてきた香代への恋心を打ち明けようと「俺……俺、君のこと」
好きだといってしまえば、多分この状況だと香代とはそういう関係になれるだろう。
でもその先香代とずっと一緒にいられるかと聞かれると、自信がない。
ダメだ。中途半端な気持ちで、香代と付き合ったらまた同じことの繰り返しだ。香代を好きだという気持ちを、ぐっと飲みこんだ。
「これからどうする」
「もうお店に戻れないから、帰って寝る」
そうじゃなくてさ、と突っ込みたいがそれも飲み込み。
「そうだな。帰ろう」
「うん」
「腹減ったな」
「そうだね」
「報酬として、ラーメンおごってくれよ」
「いいよ~」
「意味わかった?」
「うん、わかったよ。『忘れさせ屋』の報酬でしょ。お金ないから助かる」
香代はバカなふりをしてるが、本当はすごく頭が良いのではないだろうか。香代の嬉しそうな顔を見ていて、ふとそんなことを思った。
「君はさ、料理がうまいから、勉強して免許とってちゃんとしたところで働けよ」
「免許?」
「そう。免許」
「そうしたら、幸せになれるかな」
「たぶんな」
「幸せになる免許取る」
「香代なら、できるよ」
もしも人生に幸せになる免許があるとしたら、それは劉にいわれた “本当の自分をつくる”ってことかな。
これは簡単にできることじゃないと。
でもいつか必ず、その免許を取ろうと思った。

 
第6章『音楽教師の自信』

 俺はある中学校の校門の前に立ち、真紀から聞いた学校名であることを確認する。
放課後の時間帯だから、校庭ではテニス部が素振りの練習をしている。
自分の母校ではないが、中学校に来たのは卒業以来だ。
校舎の玄関口の主事室にいた中年の男性に、音楽室の場所を訪ねる。
階段を上がりながら途中の壁に貼られている、生徒が書いた絵画や○○年度卒業生一同と彫刻された木製の大きな壁かけの鏡を横目に4階と教えられた音楽室を目指す。
途中階段を降りてきたセーラー服姿の女子学生や、学ラン姿の男子生徒がすれ違いざまに明らかに外部者とわかる俺に恥ずかしそうに挨拶をして通り過ぎる。

4階に着くときれいなハーモニーの歌声が、聞こえてくる。
声の方に近づき、ガラス越しの扉の音楽室の前でしばし佇む。
中で40人ほどの生徒が、笑顔で大きく口を開け、のびやかに歌っている。7対3の割合で女子の圧倒的な明るく澄んだ声に、男子の低いがつややかな声がアクセントになり絶妙な合唱アンサンブルだ。
それを中央で指揮をしているのが、真紀の叔母の町田みのりだろう。
真紀からの連絡では、ひとまわり上の叔母のみのりとは、子供の頃から真紀がみのりを姉のように慕っていて、俺との一件も全て話していたそうだ。
俺との関係に決着が着いたことを報告したら、是非紹介して欲しいとなったそうだ。
みのりは次なる “忘れさせ屋”のクライアントだ。
真紀からはみのりは中学の音楽の教師をしていて、バツイチで今のところ彼氏はいないようだとの情報をもらっている。
真紀にもみのりが“何を忘れたい”のかは話してくれないそうだ。
哲也との面談もみのりからの指定で、勤務する学校に来て欲しいとの依頼だ。

俺には合唱というと、苦い思い出がある。
中学3年生の合唱祭で、指揮者に立候補した。
それには理由があって、受験の内申点を上げるためには指揮者をするのがいいとのうわさがあった。それを間に受けていた生徒たちは、指揮者を決める時はこぞって立候補するものが多数いた。結局くじ引きになり、見事に引き当てて指揮者となった。
これが実際やってみるとすごく難しくって、適当にタクトを振っているように見えるが、そうではなかった。この大役を願って引き受けたことを後悔した。
しかしもう後には引けない。上手く指揮が取れない俺は、その時の音楽の先生の特訓を受ける事になった。
この時の音楽の先生が、みのりよりは10歳くらい上でやっぱり独身の女の先生だった。小学校も高校そうだが、知ってる範囲では音楽の教師=女性の独身という定義だ。
そしてもう一つの定義は「ヒステリック」であること。この時の先生もその定義通りに、少しでも俺が間違えると、頭のてっぺんからつま先まで使って全身で怒る。このヒステリックな女教師の絶叫にやがて、恐怖まで覚えるようになった。
放課後一人残されての練習は、本当に地獄のような日々だった。
何でも器用にこなしてきたが、どうしてだかこの指揮だけは例外で、何度やってもテンンポがずれたり微妙に間違えたりで、とうとう合唱祭の当日を迎えた。

朝から憂鬱(ゆううつ)で仮病を使って休もうかとも考えたが、頑張って練習してきたクラスの仲間の顔が浮かび登校した。
会場となった体育館には、全校生徒とその半分くらいの保護者で熱気に包まれていた。
3年生の順番は最後でしかも俺たちのクラスは、大トリで緊張はマックスだった。
他の学年や違うクラスの演目を見ても、みんなそれなりにうまくやっている。
とうとう出番となった。
仲のいい友達が目配せをしたりして、女子も熱い視線を投げてくる。
俺は大きく深呼吸をして、ピアノの伴奏者に指示を出し、タクトを大きく振り上げた。
出だしは良かった。のびやかな歌声が静まり返った体育館に響き渡る。
夢中でタクトを振り続けて、中盤に差しかかりいよいよクライマックスというところで固まった。
どうしてだか頭の中が真っ白になった。何をしていいか分からなくなった。クラスメイト達が、異変に気付くが皆がなんとか歌い続ける。
少し場内がざわつくのも、気配で感じる。
気持ちは焦るが、どうすることもできない。
俺が固まったままで、合唱は終わった。
少し間があり場内から盛大な拍手が響いた。
俺たちのクラスは5クラス中3位だった。
俺の失態でビリでも文句はいえなかった。
仲良しの連中や一部の女子達は慰めてくれたが、優勝候補と噂されて3年の最後の合唱祭に指揮者の失態で、3位に終わったことにあからさまに不満を言うクラスメイトもいた。
それ以上に大変だったのがあの音楽教師だった。
放課後一人音楽室に呼ばれて、聞いたこともない低くくぐもった地獄からの使者のような声で説教をされた。何をいわれたかはもう覚えていないが、家に帰って食欲もなく、翌日から高熱が出て3日間学校を休んだ。
今となっては苦い思い出だが、みのりが音楽教師と聞いた時、真紀の紹介でなければ断っていた。
でも俺の心ない言葉で何年も真紀を傷つけてきた償いと思い、引き受けることにした。

合唱が終わり、生徒たちが片付けをはじめた。
ドアが開き荷物を抱えて生徒たちが出てくる。
軽く会釈したり元気よく挨拶しながら、最後の生徒が出て行った頃を見計らい、遠慮がちに教室へと入る。
グランドピアノの片づけをしていたみのりが気付き、手を止めて一瞬?となるが、すぐに笑顔になり「もしかして哲也君?」
「はい」
「うわ~。やっぱり真紀から聞いていた通りだわ~」
「えっ?真紀が何って」
「哲也君は学校一のイケメンで、女子に大人気のプレーイボーイだよって」「そんな~。ですか?」「うん。そんなです。私も色んな生徒を見てきたからわかる。そうとうモテたでしょう。あ、今でもモテるでしょうけど」
「はぁ~」
「今日はわざわざおいでくださり、ありがとうございます。改めまして真紀の叔母で、町田みのりと申します」とみのりは深々と頭を下げた。
みのりはショートカットの髪に、少し大きめの黒フチのメガネをかけていて、全く化粧気もなく洋服も同じく全体に黒っぽいパンツスタイルが、音楽の先生というよりは、体育教師のような雰囲気だ。

みのりが時間が大丈夫なら場所を変えて少し話をしようというので、みのりが指定した駅まで一足先に向かった。
若い男と連れ立って学校から帰ったとなるとまずいのだろうと気を使った。駅に先に着いたことをみのりにラインで知らせた。
すぐにみのりから返信があり30分後には到着するので、近くのファーストフード店で待っていて欲しいと。
ファーストフード店で待っていると、みのりが時間通りに入ってきた。
「ごめんなさいね。お待たせしちゃって。」
「いいですよ。これは仕事ですから」
「あらそう。じゃ哲也君は、ジャズとか好きかしら?」
「はい。好きです」
「そう。良かった。ちょっと歩くけど、選曲のいいジャズを聞かせる店があるの。付き合ってもらえるかしら」
「はい」
みのりと一緒に歩きながら話していると、みのりと今日初めて会った気がしなかった。
ずいぶん昔からの知り合いで、親戚のお姉ちゃんみたいな感覚を覚える。
それをみのりに話すと「たぶんそれは、真紀から哲也君のことず~と聞いていたからじゃない。真紀はとても哲也君のこと、好きだったからね」
「そうなんですか?」と知ってはいたが、初めてきいたように答える。
「そうよ~。真紀が結婚を前提にお付き合いをしている人ができたって聞いた時、ホッとしたもんね。やっと哲也君からの呪縛からとかれたって」
「呪縛って、俺がですか」
「そうよ~」と明るくとがめる風でもないみのりの話っぷりに、店に着く頃にはみのりにすっかり親近感を覚えた。

少し歩くと言われた通りにやっとたどり着いたその店は、閑静な住宅街にひっそりと佇むモダンな外観の日本家屋をお店に改装したようだ。
ドアを開けると心地良い古いジャズの名曲が聞こえてくる。
音の大きさも丁度いい。
薄暗い店内は、アンティークな小物やさりげなく飾られた植物が置かれている。
意外と中が広く、大きめのソファが程よい感覚で置かれている。
優に50人は入れそうなスペースだ。
奥にカウンター兼キッチンがあり、中年の小柄な上品な女性がコーヒーを淹れている。
客も常連のような客が1人で本を読んでいる。
みのりは店主の女性に軽く挨拶をし、勝手知ったるという調子で一番奥の大きなソファに案内してくれる。
「いいでしょここ」
「はい。すんごい、落ち着きますね」
「夜はねお酒も飲めるのよ。哲也君は飲めるんでしょ?」
「はい、普通に。でも、結構飲めるほうかな」
「そう。私は全くダメなの。飲めてもお酒は喉によくないから、飲まないけどね」
「やっぱり、そういうの注意するんですね」
「そうね。これでも、年に数回は、アマチュアでコンサートに参加したりするからね」
「いいですね」
「どうぞ遠慮しないで飲んで」
「今日はみのりさんのお話を聞きますので遠慮します」
「そうよね。哲也君に私その “忘れさせ屋”のお仕事をお願いするんだものね」
みのりは少し考えてゆっくりと話しはじめた。
みのりはまるで詩の朗読をするような抑揚のきいた、決められたシナリオを説明するように依頼したい要件を話してくれた。
話を聞き終えて、素直にみのりに「忘れたい相手って、男性じゃないんですね」
みのりは?って顔をした。
「勝手に想像してたんですけど、今まで関わった依頼人はみんな恋愛が絡んでいたんで。それに真紀からは、みのりさんがバツイチで今は独身で」
「彼氏なしでしょ」
「はい。すいません。失礼ですがなんとなくそうかと~」
みのりはにっこりと笑って「ゴメンね。色気がない話で」
すぐにみのりは真顔になり
「でもね。私にとってはこれはず~と胸の奥の底の方で、固くなってしこっているの。…自信がないの…」
「自信がないって?」
「哲也君が合唱、見てくれたでしょう。どうだったかな」
「どうって…。うまいんじゃないですか」
「ねぇ。本当にそう思う?」
「はい。思いますよ」
「そうでしょう!私も今回は優勝狙えるって思っているの。だけどね…」「だけど?」
「そのしこりがうずくのよ。コンクールで優勝させるほどの、お前には実力はないだろうってさ」
「はぁ…」
「うちの学校でしかも、このビックタイトルのコンクールに出場できるだけでも快挙なのね。もしかしたら、最初で最後かもしれないほどの奇跡的なことなのね」
「なんとなくそのニュアンス、わかります」
「今回うちの合唱メンバーは、教えてきた中でもうピカイチ、最上級なのね。客観的に見てもこんなに揃ったメンバーなら、優勝狙えるかもって思うんだけどさ」
「けど?」
「私がとっても不安なの」
「 “人間としても中途半端、教師としても中途半端なアナタに教えてもらう生徒がかわいそう”でしたっけ?」
「そうね。正確には、“生徒が不幸よ”だけど」
「すげ~キツイこといいますよね。みのりさんの恩師ですか?」
「そう」
「その人って独身で、絶対に処女ですよ」
「処女かどうかは知らないけど、今でもたぶん独身だと思うわ」
「やっぱりな~、そうだと思った。その恩師、スゲー性格の悪い奴ですよ。そんなひどいこと、自分のかわいい教え子によく言えますね。だいたい音楽教師って、性格の悪い奴が多いんですよ」
みのりに中学3年の合唱祭の苦い思い出を話した。
みのりは今まで知っている音楽教師とは全く違う、とても好感が持てると付け加えた。
「でもどうかしら。私の生徒の中には哲也君みたいに、私を疎ましく思う生徒も沢山いると思うわ」
「確かに全員に好かれるってことは、難しいと思いますけど、少なくとも今日の合唱を歌っている生徒達は、町田先生を慕っているように見えましたけど」
「そうかしら。それを知りたくて、哲也君にわざわざ学校まで来てもらったの」
「そうでしたか。俺、その辺の感は鋭いんですよ。だからわかりますよ。生徒の歌っている表情見てたら、あの合唱のメンバーは、町田先生を慕ってます。自信持ってください」
「ありがとう。そういってもらって、少し気持ちが軽くなったわ」
「スイッチ入りました。中学3年生のあの悔しい合唱祭のリベンジをかけて、絶対に町田先生のそのしこり、きれいさっぱり忘れさせます」
「お願いします」と神妙にみのりは頭をさげる。
そういいきったが、とたんに不安になった。
一体どうやってみのりの抱えるしこりを忘れさせるんだよ。

次の日の朝真紀から電話があり、今日の午後少し会えないかという。
みのりと真紀は早速連絡を取り合ったようで、真紀は昨日のみのりとのいきさつを聞きたいそうだ。
俺ももう少しみのりの情報を聞きたいと思った。
真紀と待ち合わせした町は、最先端のファッションの発信地として人気の場所だ。
平日の午後でも、沢山の人びとで賑わっている。
待ち合わせのカフェに行くと、すでに真紀が待っていた。
軽くあいさつを交わすと真紀が身を少し乗り出して驚いたように「哲也がみのりちゃんの依頼を受けるとは思わなかったよ」
「なんだよ。頼んだのは真紀だろ」
「そうなんだけどさ。みのりちゃんなんかいってなかった?」
「なんかって?」
「私が哲也を…」
真紀は俺とみのりさんかこんな形で近づくとは想定していなかったようだ。「それは真紀からちゃんと聞いたじゃん」
「そうだけどさ。その~色々とね」
「マズイことあった?」
「別に…ないけど…」
「みのりさん真紀の叔母さんだけあって、素敵な人だな。ああいう先生なら、俺ももっと音楽の成績が良かったかな~って」
「そうでしょう。みのりちゃん、めっちゃいいの!私長女じゃない。だからみのりちゃんがお姉ちゃんみたいで、いつも頼りにしていたの」
「うん。わかるよ」
「だからみのりちゃんには、絶対幸せになって欲しいんだ」
「そうだな」
「で、みのりちゃんを不幸にした男の正体、聞いたでしょ?どんな奴?別れた元ダンナ?それとも職場の同僚?」
「ごねん。いくら真紀でも、クライアントの情報をお話できません」
「やだ~知りたい~」
「じゃあ、とっても特別に教えてあげるけど」
真紀がさらに身を乗り出す。
「残念ですがみのりさんが忘れたいトラウマは、男ではありません」
「え~?何?男じゃないって?じゃあ何?」
「まぁ、人には色々な人間関係があってさ。その中で傷ついたり、傷つけたりするわけじゃない」
「え~なんかすっきりしないけど」
「みのりさんがそのトラウマを忘れられたら、ちゃんと真紀に全部話すと思うよ。その時まで待ってあげてよ」
「…わかった…哲也。絶対みのりちゃんのトラウマ解決してあげてね」
「任せろ!っていいたいけど、ちょっと自信ないな」
「やだ~。お願いしますよ」
「はい。頑張ります」

買い物に行くという真紀と別れて、劉に会いに大学に向かった。
最後の授業が終わる頃だ。
大学の近くの居酒屋から、劉に連絡を入れるとすぐに劉がやってきた。
劉にみのりからの依頼の話をすると「そのみのりさんの恩師の先生は、みのりさんに嫉妬したんでしょうね」
「教え子に嫉妬?え~何で」
「おそらくみのりさんは、とても実力のある優秀な先生かと思います。合唱は指導者によって全く変わります。今回あまり優秀でない生徒たちが、奇跡的に名だたるコンクールに出場でき優勝も狙えるとは、みのりさんの有能な指導力の賜物です。何の世界でもそうですが、有能な指導者によって結果は大きく変わるのです。逆の場合もありますが」
中学3年生の合唱祭の、あの嫌な音楽教師の顔が浮かんだ。
俺も一生懸命努力したけど、あの結果だった。
劉の話は妙に納得がいく。
「みのりさんの恩師の女性に会ってみるといいですよ。大事な教え子になぜそのようなひどいことをいったのか、真相を聞いたらいいでしょう。恐らくその女性は、今は幸せではないと思いますよ」
「どうして」
「人を傷つけた報いは、必ず自分自身に返ってきます。それが因果(いんが)応報(おうほう)です」
劉のいう通りかもしれない。

劉に言われた通りに、みのりの恩師に会いに郊外にある老人施設を訪ねた。大きくて立派な建物に入り、まるでホテルのフロントかと思う受付で、みのりの恩師の女性の名前を言う。
受付の中年の女性がパソコン画面を操作して「失礼ですが、金内様とはどのようなご関係ですか?」
「どのような~」何といおうかと思案していると。
「あのもしかして教え子の方ですか?」
「あ、そう、そうなんです。先生だったんです」
「そうでしたか。金内様に面会者が来られたのが、初めてだったので」
「えっ、あの、俺が初めてですか?」
「はい。金内様は入居されて10年ですが、今までどなたも面会に来られてませんので」
「そうでしたか」
「あの…ご存知ないかと思いますが、金内様は痴呆がかなり進んでいまして。お客様のことを覚えてないかもしれませんが」
「そうでしたか。それは残念でした。ではお会いしても…ですね」
「そうですね…でもせっかくお見えになりましたので、どうぞご面会してくださいませ」
「いえ。覚えてくれてないなら、会わずに帰ります。忘れられていることにショックなので。ありがとうございます。失礼します」
帰り道劉がいった通りだと思った。
そうだよな。人を傷つけた結果だよな。
すぐにみのりに話したくて、みのりが勤務する中学校へと急いだ。
夕方の時間だが、今日は校庭で部活をしている生徒もいない。
なんとなく、学校全体が静かな印象だ。
入口の主事室にいた見覚えのある中年の男性に声をかけたら、今日は全校で部活が休みだという。
予め用意していた大きめの菓子折りを渡し、みのりへの生徒からの評判を調べて欲しいと伝える。
中年の男性は人の良さそうな笑顔で菓子折りを恐縮しながら受け取り、快く受けてくれた。
みのりの携帯に電話を入れると、まだ近くの駅で電車を待っているというので、落ち合うことにした。
みのりと駅で合流し、前に一緒に行ったジャズの店のいつもの席に座った。みのりの恩師の女性を訪ねた話をし、劉から教えてもらった推理を自分の考えとして説明し「金内さん老人施設に入居して10年間もの間、1人も訪ねてくれる人がいないなんて、寂しい人生ですよね。今では過去の記憶も全て忘れてしまっていて、みのりさんにいった言葉も、みのりさんの存在自体もです。いった本人が全く忘れてしまっているんですから、みのりさんも、もう、忘れていいですよ」
黙って聞いていたみのりが、大きくため息を吐き「そう…。先生は全部、忘れちゃってるんだ…」そういったきりみのりは腕組みをしたまま、俯き黙ってしまった。
長い沈黙が続く。
ジャズの名曲が3曲かかったところで、みのりが大きく息を吐き「忘れてる?私はこんなにも苦しんできたのに…」
みのりの目から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
これって人からみたら、俺がみのりさんを泣かせているって感じだよな。
しかし店主も常連客も、全く知らん顔をしている。
みのりさんは静かにしばらく泣いた。
その姿をただじっと見守りながら、ジャズの名曲に聞き入った。

 それから1カ月がたち、みのりさんからの手紙が届いて、1週間後に開催される合唱コンクールの招待状が同封されていた。
歴史ある日本一を決める合唱コンクールとあって、テレビの取材も来ての盛況ぶりだ。
真紀と一緒に指定された席に着く。
コンクールがはじまり、中盤戦にみのりさんの学校の番になった。
黒いパンツスーツのみのりさんが指揮をとる。
文句なしにうまい。
今まで聞いた中で一番だ。
これは本当に優勝するかもしれない。
歌が終了して観客の盛大な拍手に満面の笑みで応えるみのりさんを見て、もう大丈夫だと確信した。
結果はみのりさんの学校が3位だった。
初出場でしかも今まで無名の公立中学校だから、ある意味奇跡だと周りの反応で分かった。
全部のプログラムが終わり、近くのレストランで真紀と一緒にみのりさんを待った。
真紀は興奮が収まらない様子で、ハイテンションだ。
しばらくしてみのりさんが入ってきた。
3位を祝してひとしきり話が盛り上がり、注文した料理が出てきたところでみのりさんが「哲也君。ありがとう」と深く頭をさげる。
「いえ…」
「自信取り戻せたわ。私らしくできたの」
「そうですよね」と俺は照れながらみのりを見る。
真紀が不満そうに「あ~ずるい!2人でわかりあっちゃって」
「真紀のおかげだよ」とみのりが真紀を見て
「えっ?私の」
「そう。哲也くん。ちゃんと私に悪いしこりを忘れさせてくれたよ」
真紀は俺ととみのりを交互に見て「そ、そうなの?」
みのりは、真紀に全てを話した。
聞き終えて真紀は「そういうことだったのね」
話を終えてすっきりしたみのりが微笑んで
「そう。男だと思ったでしょ」
すっかり謎が解けて満足げに真紀が「うん。でもね~。人生色々あるしね~」
「真紀が哲也くんにぞっこんだったのも納得したよ。哲也君に『もう、忘れていいですよ』っていわれた時に思わず恋に落ちそうになったもの」そういうみのりに思わず食べかけた料理を落としそうになり「え~そうなんですか~」
みのりは高笑いをして「冗談。ゴメンね。私職業病か、歳下は対象外です」3人で一斉に笑い合う。
「でもね、あの日から、憑き物が落ちたみたいにスッキリしてさ。もう思いっきり生徒達と一体となって練習ができて、すごく楽しかったんだ。教える自信っていうか。私のありのままでいこうって素直に思えたの」
「そうですよ。『町田先生は面白くって、お茶目で、歌っていて楽しい!って気分にさせてくれる、大好きな先生です』って生徒達の評判ですよ」
みのりの学校の主事室の中年の男性から仕入れた情報をそのまま伝える。「そうだよ。みのりちゃんは、きっといい先生だよ」
俺は得意げに「生徒は嘘をつきません」
「ありがとう。今日こんな名誉な結果をもらえて、ほんとに自信ついた。これからはもっと精進して、次は優勝を狙います」
また3人で乾杯をして、その日はみのりのおごりでたくさん飲んで食べた」みのりからもさらに、前の会社でもらっていた給料の半分くらいの報酬まで頂いた。
“忘れさせ屋”なんか怖いくらい順調です。


第7章『美人の条件』

 節子の働く大学の、教室の扉を静かに開いた。
すり鉢場になった教室で三百人は入れる大きな教室の中央の教壇に、節子が立ち講義している。
3分2は生徒で埋まっている。
一番後ろの席に座った。
静かな教室に、節子の落ち着いて自信に満ちた声が響く。
いい声だ。

俺は声フェチだ。
仕事をしている時に営業先に電話をかけると、すごく好みのいい声の女子社員がいた。
そして勝手に想像した。
歳は30歳位で、顔は昔好きだった女優似でと。
妄想は膨らみやがて彼女と対面する。
実際の彼女は歳は珠枝と同じ位で、女優顔というよりは関西の大御所漫才師にそっくりで、俺と同じ歳くらいの子供がいる人妻だった。
そしてその会社での彼女の仕事ぶりが、高く評価されていることがわかった。
さすがにその彼女にどうこうしようとは、思わなかったけど。

 やがて節子の授業が終わり、生徒の何人かが質問している。
丁寧に応える節子。
生徒からも信頼されている様子が伝わる。
劉も節子のこういう姿を見て、好きになったのだろう。
生徒たちがそれぞれに帰って行く。
片付けをしている節子に、ゆっくりと近づき声をかけた。
「先生。お願いがあります」
顔をあげてとても驚いたが、すぐにいつもの優しい笑顔で
「どうしたの~。ビックリしたわ」
「また相談に乗ってもらえないかな」

次の授業まであまり時間がないという節子と、キャンパスの中にあるベンチに座った。 
通り過ぎる生徒たちは、行儀よく挨拶していく。
「俺の出た大学とは違って、みんな行儀がいいな」
「そうね。うちの大学の生徒は優秀ね」
「先生が優秀だからな」
「ありがとうございます」
「節姉の授業を聞いていて、はじめて聞いた内容だけどよくわかったよ。生徒さん達からも信頼されているのが伝わってきたし」
「そうかしら」
「だから劉さんも、節姉に惚れたんじゃない」
節子はなんで?という顔をした。
「劉さんを知っているの?」
劉との交流のいきさつを話した。
「そうだったの」といい少し何か考え込むが、気持ちをきりかえて「それで相談って何?」
「ああ。親父と母さんと皆で食事をしたいんだ」
「えっ、お父さんと」
「家族揃って食事するなんて、いつしたか忘れただろ」
「私は覚えているよ。お母さんの誕生日。お父さんが出て行く少し前の」
「母さんの誕生日」そういわれて遠い記憶をたどる。

うちの家族は誰かの誕生日には、必ず家族が揃って食事をする。子供達の誕生日は自宅でやるが、珠枝の誕生日には普段の家事をねぎらって、外食をしていた。たいがい近所にあるケーキも食べられる洋食屋で。
腹を空かせた子供たちは先に食事を済ませたが、珠枝は和雄が来てからと食事をとらなかった。
珠枝のために注文していた誕生日のケーキが運ばれてきた時に、かなり酔っ払って和雄が来た。
そして珠枝が泣き出した。
その時は俺は嬉しくて泣いているのかと思ったが、今思えば妻の誕生日に愛人と過ごしていたであろう夫に、やり切れない思いがあったのだろう。
「思い出したよ。母さん泣いていたよな」
「そう。あの時私心に誓ったの。『私がお母さんを一生守ろう。絶対に悲しい思いはさせない』ってね」
「そうだったんだ」
「その食事会、私はお母さんがいいのなら構わないわよ」
「それともうひとり、呼びたい人がいるんだ」
「え、誰?」
「劉さん」
節子が明らかに動揺した。
「どうして劉さんが。私達家族の中に。そんなの変よ」
「これから家族になるかもしれない人だからさ」
「……そんな。まだ……」
「俺は劉さんと節姉が一緒になって欲しい」
「そういわれたって、困るわ」
タイミングよく俺たちを見つけて笑顔の劉が近づいて来る。
「噂をすればだな」
節子も劉に気づき、あきらかに動揺している。
その節子の様子を見て確信した。
節子も劉に惚れている。
劉がさわやかな笑顔で「こんにちは。今日はご姉弟で、何かご相談ですか」節子がいいかけた時、近くで女子学生の悲鳴が聞こえた。
見ると一人の女子学生が倒れている。
そばにいた友達が倒れた女子学生の名前を呼んでいる。
俺たちは急いで駆けつける。
劉が倒れている女子学生の脈を計り
「大丈夫です。すぐに救護室に運びましょう」
そして劉が倒れた女子学生を、お姫様抱っこをして行く。
おい!劉。カッコ良すぎるよ。
節子の顔を盗み見ると、少し頬を紅潮させているようにみえる。
もしも俺が女だったら、劉にこの瞬間に間違いなく恋に落ちるだろう。

 授業があるという節子を行かせ、劉と倒れた女子学生の友人で、救護室で回復を待った。倒れた女子学生は森田さなえといい3年生だという。
救護室の50代の小太りの職員が呆れてさなえの友人に「彼女これで3回目よ。もうあんなに細いのに、食べないから倒れるのよ。あなたからも、ちゃんと食事を摂るようにいってね。ダイエットもいいけど、体壊しちゃうからね」といい行ってしまった。
さなえの友人の話では大学に入学した時は太めの体系だったが、ダイエットをして見違えるほど細くなったと。
それでも太るからといって、よく食事を摂らないことが多いそうだ。
劉がとても驚いて「私が運べるほど、彼女はとても軽かったですよ。まだ痩せるつもりですか」
俺もおもわずさなえの友人を見た。
劉も運べないくらい太った友人は、あどけない笑顔で「私も痩せたいです~」という。
劉とお互いの目で、笑いあった。
授業があるという友人もいなくなり、劉とふたりになった。
さっき節子と相談していたことを劉に話した。
劉は嬉しそうに「私がお邪魔してご迷惑でないのなら、喜んで参加させてください」
「劉は何でもできるんだね。さっきあの子の脈を取って、抱き上げた時かっこ良かったよ」
「そうですか。当然のことです」
「俺が男じゃなかったら、劉に間違いなく惚れているよ」
劉が真顔になり「いいですよ」
「えっ?」
「惚れてもいいですよ」
劉の反応にうろたえた。
じゃあ、劉は両刀ってことか。
「ちょっとマジで。劉はそっちもオッケーなの~」
「そっちもとは?本物の男とは、男が惚れるほどの器が必要です。哲也さんが私にそのように思って頂いて嬉しいです」
「そういうことか。なるほど」
やっと劉は俺のいいたいことが理解できたようで。
「誤解のないようにいいますが、私の性の対象は女性です。人生を生涯共にすると決めた女性以外とはそうしないと決めていますので」
ってことは劉はまだ童貞!こんなに何でも知っていて、できる男が童貞。
妙に嬉しくなった。
やっとひとつ劉に勝てる。
その時は、色々教えてあげますよ。
劉も授業に行き、初対面のさなえが気になり一人で残った。
劉にだっこされて運ばれて行く時に、だらりとたれた細い手にあったんだ。あれは多分、吐きたこだと思う。
前に少しだけ付き合った女の子が、同じように手に吐きたこがあった。
どんなに食べても口に手を突っ込んで、吐いてしまうそうだ。
何度も繰り返すので、手にたこができるといっていた。
女ってそんなことをするんだって、驚いて美和子に聞いたらそれは “摂食障害”という病気だと教えてくれた。
美和子の病院にも、若い女性の患者が多いそうだ。
そのまま放っておくと本当に何も食べられなくなり、死に至ることもあるそうだ。
有名な外国の歌手もそれが原因で、亡くなったと教えてくれた。
やっと意識が戻って、さなえが起きてきた。
見知しらぬ俺に戸惑っているようなので、節子の弟でさなえが倒れた時偶然そばにいたことを話した。
さなえはこうやってそばで見ると、高校生といってもいいくらい化粧っけもなく垢抜けない印象だ。
さなえが小さな声で「ありがとうございます」
「大丈夫?……じゃなさそうだね。とにかく何か一緒に食べようよ」
「えっ?」
「だって、何も食べてないんだろ」
さなえは気が乗らないようだけど、節子に頼まれたと説得して、学食に連れて行った。
さなえにやっととジュースとヨーグルト食べさせた。
「いつもこんなに食べないの」
さなえは小さくうなずく。
このままだと本当に死んでしまう。
なんとかしなくては。
頼まれてもいないが、さなえを救ってあげたいと思った。
美和子に任せるつもりだったが、珠枝にも家族の食事会の話をしようと思い、珠枝の携帯に連絡をしたら、また仕事を休んで家に居るそうだ。
珠枝の好きな果物を手土産に実家に帰ったら、珠枝の姿が見当たらない。
しばらく居間でテレビを見ていたら、珠枝が部屋に入ってきた。
寝室で休んでいたらしい。
「ごめんね。帰っていたの気がつかなくて。少し横になっていたら、眠っちゃったみたいね」
生気のない珠枝に「少し痩せた?」
この間から気になっていたことを聞いてみた。
「そうね。少しだけ。歳をとると、あんまり食べられなくなるのよ」
「どこか具合でも悪いんじゃない。仕事休むなんてさ」
「お母さんだって疲れるのよ。今までがむしゃらに働いてきたからねぇ。有給休暇もたまっているからこれからは休ませてもらうは」
「そうならいいけど。美和子から聞いているかと思うけど、家族の食事会のことどうかな」
気が乗らない表情の珠枝が、少し考えるように視線を外す。
珠枝には絶対に来てもらわなければ、この会をする意味がない。
「美和子も節姉も都合はいいんだけど。母さんは?」
「そう」
「そうってさ、オッケーってこと」
「あんまり、気が進まないけどね」
「節姉の多分未来のダンナも来るし」
「そうなの?」珠枝ははじめて聞いたような表情で節子のねぇ」と嬉しそうに微笑む。
「男の俺が惚れそうになるほど、いい男だよ」
「節子にもやっとそういう人がね。じゃあ、お母さんもうんとおしゃれしていかなくちゃ」
節子に聞いた、珠枝の誕生日のことを聞いてみたくなった。
「覚えているかな。親父が出て行く前にやった、母さんのお誕生日の食事会のこと。親父すごく遅刻して、おまけに酔っ払って来ただろ。あの時、母さん泣いたよな。あれって嬉し涙?それとも悲し涙?どっちだったのかな」「……もう、忘れたわ」
そういうと思った。
「あのね。人にはそれぞれ、忘れてしまいたいことって沢山あるでしょ。だからわざわざ、昔のことを堀りかえさないで。知りたくても知らんぷりすることも、優しさなのよ」
その通りだ。
大いに反省した。
『忘れさせ屋』のくせに、思い出させてどうするんだよ。
実家から出て気がついた。
和雄の了解を取るのを忘れていた。
今回は和雄が参加しないと意味がない。

 日が暮れて和雄が働くラブホテル街は、カップルたちがちらほらとホテルに消えていく。
劉がいった、生涯でたった一人としかセックスしないって。
俺はそんなこと無理って思う。

いつまで待っても、和雄はなかなか出てこない。
今日のところはあきらめて帰ろうかと思った時、首にタオルをさげランニングに短パン姿の和雄が、汗を拭きながら出てきた。
和雄のたるんだ皮膚が、老人のような印象を受けた。
「待たせて悪かったな」
「仕事きつそうだな」
「これからが一番のかき入れ時だからな」
さっそく用件を切り出した。
「家族みんなで食事をすることにしたんだ。来てくれないかな」
「お母さんは何って、いってるんだ」
「俺たちがいいなら、いいって」
「そうか」
「じゃあ、オッケーだね」
和雄は少し険しい表情になり「いや。行かないさ」
和雄の意外な返事に「なんで」と責めるような語気になる。
「前にもいったが、お母さんにはもう二度と会わない」
「なんでそんなこと、決めるんだよ」
和雄はゆっくりと視線を足元に落として「いいんだ。それが俺の精一杯の償いなんだ」と苦しさを吐き出すようにいう。
「償いって何だよ」
「ああ。俺はお母さんに、許してもらえないほどのひどいことをした」
「だけど」そうだとわかってはいたけど、珠枝なら許してくれるとどこかで期待していた。
「それでいいんだって」和雄の意思の固さを感じた。
「節姉が結婚するんだ」つい嘘をいった。
この際和雄が来てくれるためなら、なんでもいいさ。
和雄を説得するために「相手は節姉の大学に留学している中国からの学生だけど、将来は国を代表する外交官になる人なんだ。劉っていうんだけど、男が惚れるほどスゴイ奴なんだ。劉が親父に節姉との結婚の了解を取りたいそうなんだよ」
これは本当のことだ。
和雄は腕を組んでまた考えこんで「俺にそんな資格があるか」と不安そうに俺を見る。
「あるさ。親父は親父だもんな」
「中国人か。節子も国際的だな」和雄と嬉しそうに顔をほころばせる。
「節姉からも、頼まれたんだ」とさらにウソをかさねる。
ここまでいわれたら、和雄も断れないだろう。
「だから来てくれよ」
「……考えておくよ」と和雄が放心したように仕事に戻っていく。
その後ろ姿を見送る。
いつも能天気でいい加減な和雄が、ここまでこだわる “償い”って。
まどかの父親からいわれた『なんでお前が生きているんだ!』って言葉が重くのしかかってきた。
俺の “償い”って何だろう。
何度も問いているが、出ない答えを早く出したい。
生きていく上で答えが見つからないことなんか、沢山あるのはわかっている。
俺という人間がとても未熟で、中途半端だってことも充分知っている。
沢山反省もしている。
まどかを死なせてしまった“償い”のつもりで、バカげているような『忘れさせ屋』なんてことをやっているが、本当にこれでいいのかといつも考えている。
やっぱりこんなことやめて、ちゃんと働こうかと思った時に、視界に信じられない光景が飛び込んできた。
さなえだ。
さなえが少し歳上のいかにも遊び人風の男と、まさにホテルに入っていく所だった。
とっさに大声で「ちょっと、待った!」
さなえと男は立ちとまりこちらを見る。
さなえはあっ、という顔をした。
ふたりに近づき「さなえ、こんな所で何しているんだよ」
男がいやな顔をして「なんだよ、お前」
「お前こそなんだ。俺はさなえの兄だぞ」
さなえがえっ?って顔をした。
「な、さなえ。一緒に帰ろう」
さなえの細い腕を掴み、強引に連れ出した。
さなえの耳元に「いいか。いう通りにするんだ」
哲也とさなえは、早歩きでその場を去った。
しばらく歩くとさなえは、哲也の手を振り払って
「なんでこんなことするんですか。あなたには関係ないじゃないですか」「関係あるね。姉から自分の大切な学生さんを、悪い狼から守るようにいわれているんでね」
「私もう大人ですよ。それに大学にそんな規則ないし」
「好きでもない男とエッチしたって、君の心の傷は癒されないよ」
「ほっといてください」
「ほっとけないね」
「もう~、なんで私に」
「俺のせいで君みたいな女の子を、死なせてしまったんだ」
「えっ」
まどかのことをそして、“忘れさせ屋”のことを話した。
「忘れさせ屋……」
「ああ。だからもしも君の力になれたらって思うんだ」
時刻は夜の9時を過ぎていたので、さなえを自宅まで送ることにした。

帰りの電車は帰宅を急ぐ人たちで混んでいたが、運よくふたりで席に座ることができた。ずっと黙っていたさなえが、ゆっくりと話しはじめた。
「私、子供の頃から太っていたんです。きっとうちの両親を見たら、納得すると思いますけど。兄ふたりも太っています。私ずっとたくさんダイエットしてきました。ちょっと成功しても、またすぐに元にもどっちゃって。
学校ではブタマンていわれて、よくいじめられました」
「そうなんだ」
「だからいじめてるクラスのみんなを見返してやろうと思って、沢山勉強しました。
勉強はクラスで、いえ学年でいつもトップでした。そんな私に次についたあだ名は、ガリブタ。でもクラスのみんなが、私に一目おいてくれるようになったのが嬉しくて、本当に勉強ばかりしてきました」
「なるほど」
「大学に入って今度は、周りの女子は勉強はできるし、みんなおしゃれでかわいくって。ただ勉強ができる私はここでは特別ではありません。そんな時同じクラスの男の子と生まれてはじめてデートしました」
「そうか」
「私勉強しかしてこなかったから、デートなんてはじめてで。映画を見て、ご飯を食べて。その男の子が、自分の家で一緒にビデオを見ようって。私はそれがどういう意味があるかわからず、一緒に行きました」
さなえはその時のことを思い出したのか、悲痛な顔になり下をむいたまま「そうしたら、いきなり押し倒されて。私もうびっくりして、その男の子の大事なところをおもいっきり蹴ってしまったんです。そうしたら、逆ギレされて」
少し前の俺もそんな風に軽く、女の子とそうなっていたなとバツが悪くなる。
「いわれました『お前みたいな、デブ。誰もやりたくないよ』って」
「そいつ、ひどいな」
「いくら経験がない私でも、それがどういう意味かくらいわかります」
さなえのここまで追い詰めた男にものすごい腹が立つ。
「それからもう必死で、ダイエットしたんです」
「見事に大成功だね」
「でも私太りやすいから食べるとすぐに太ってしまうので。覚えたんです。どんなに食べても、太らない方法を」
さなえの指にあった吐きたこのことだとわかったが、何もいわなかった。「試してみたかったんです。痩せた私を受け入れてくれる男の人がいるのかって。だから誰でも良かったんです」
「それは誰でも良くないよ。一番大切に思える人のために守らなきゃ。」
そういって、亡くなったまどかの顔が浮かぶ。
まどかにとっては、俺とのことはそういう覚悟だったのだろう。
それを俺は。
劉と節子の顔が浮かぶ。
このふたりのような関係もあるんだ。
さなえを自宅の近くまで送り届けて電車に乗ったら、この先にあの占い師の女性がいる駅があると思った。

途中下車してあの占い師の女性の元へと急いだ。
あの占い師の女性は、まるで俺が来ることを知っていたかのように迎えてくれた。
あの日から、占い師の女性にいわれた通りやってきたことの一部始終を話した。
占い師の女性はまた、俺の手を大きな虫メガネで見て優しい声で「この調子ですよ。あなたがやっていることは、全部無駄はありません。これからもたくさんの傷ついた女性の味方となってあげてください。そうしているうちに、必ずあなたを幸せに導いてくれる女性が現れます」
その言葉にすがりつくように「本当に出会えるんですか?」
「はい。手相は正直です。近い将来あなたにとって、生涯愛し合える女性が現れると出ています。それまで我慢してください」
一番気になっていることを聞いてみた。
「俺にとって “償い”って何ですか?」
「それはあなた自身が、幸せになることです。今こうして生きていることに、心から感謝して生きて行く。そしてあなたにしかできない使命を果たすことです」
「俺にしかできない使命って何ですか」
「それはあなた自身が自分で考えて、答えを見つけることです。今目の前の課題を全力で取り組むことです。大丈夫ですよ。もうすでに全部、いい方向に向かっていますよ」
「今のままでいいんですか」
「自分でそう思うならいいんです。その調子です。自分を信じてください」そうか。今のままでいいんだ。
心に占い師女性の言葉がストンと落ちた。
よし、また “忘れさせ屋”の使命を果たすぞ。
今は目の前の課題に全力で取り組もう。
さっき別れたさなえの顔が浮かんだ。

 翌日また節子の大学に行き、さなえを探した。
さなえは哲也を見つけて、駆け寄って来て
「昨日はありがとうございました」と頭を下げた。
「遅くなって、大丈夫だった」
「父にひどく叱られました」
「そうだろうね。父親は娘が心配で仕方ないからな」
和雄の顔が浮かんだ。
考えておくっていったけど、和雄は絶対に来ると確信した。
「ところで今日は、これから何か予定ある」
「いいえ。午後から授業が休講になったんです」
「よし決まり!これからお兄さんとデートしよう」
さなえは困ったように「はぁ~」というが少し笑顔になる。

『世界の美人画展』と看板がでている、美術館にさなえとやってきた。
一緒にガイドのイヤホンをつけながら、展示を見てまわる。
音声ガイドから「美人の条件。それは時代や国によって、様々に変化します。本展ではわたしたちが、日頃常識だと考えていることが、実は全く違っていたのなら?そんな発見と驚きの展示をお楽しみください」
ふたりでどんどん展示物をみていく。
古代遺跡コーナーでは、ずんくりむっくりの女性の置物が展示されている。西洋絵画コーナーでは、贅肉たっぷりのグラマラスな女性の裸婦の絵画がずらりと並ぶ。
日本の江戸時代には、一重まぶたの女性の浮世絵がある。
番外編として『世界の秘境コーナー』では、唇がベロリとたれた少数民族や、首が異様に長い少数民族の写真が紹介されている。
これがこの人達の間では、美人とされているのだ。
さなえと展示を見ながら共に笑ったり、真剣に説明を読んだりした。
頭のいいさなえだ。
何でここに連れてきたか、察知したようだ。
さなえと美術館を出て、近くにあるオープンテラスのカフェで休憩した。
ここは外国人が最も多く暮らす街だ。
世界中の人種が集まり、まるでニューヨークにいるような錯覚を覚える。「さなえちゃんは頭がいいから、さっきの美術展の主旨がわかったよね」「……はい……」
「さなえちゃんが考える美人の条件って何?」
「痩せていて、目がぱっちり二重で、胸がおおきくて」
「確かにそういう人が美人と思う人もいる。でも世の中の全員が、同じように思うかというと」
「……違いますかね」
「そう」
「ほら、見てごらん。世界にはこんなにも外見や言葉が違う人が沢山いるんだよ。どこか外国に行ったことある?」
「いいえ」
「じゃあ、夏休みにでもアメリカ、ニューヨークでも行ってきなよ」
「はぁ~ニューヨークですか?」と不安そうにいう。
「外国に行けば、沢山の人種がいる。人種が違えばみんな好みも違う。当たり前のことだけど、日本にいるとなかなかそうは思えない」
「そうですね…。私はそうです」
「俺さ秘境が好きでさ。大学時代に結構いろいろな外国に行ったんだよね。さっきの展示にあったけど、いままでの常識だと、当たり前って思っていたことが、全部ぶっ壊されて帰ってきたよ。知ってる奴で、太った女性しか魅力を感じないっていう奴もいるし、小さいオッパイが好きって奴もいる。みんな違っていいんだよ」
「私もそう思いました。私も痩せてる男の人より太った人。背の高い人より背の低い人が好きです」
「そうだろ。そうなんだよ。周りが何をいっても、自分がいいと思えばそれでいいんだよ。さなえちゃんのことを、世界で一番かわいいっていう男が、必ず現れると思うよ」
さなえは笑顔になり「そうですよね」
「その時まで、大切に自分を磨いてさ」
「一番好きな人とですよね」
さなえを真っすぐに見つめて「だから “もう、忘れていいよ”その同級生にいわれたことは」
さなえは一瞬驚いたように目を大きく開いてごくりとつばを飲み込んで
「……もう、忘れます。……ありがとうございます。澤田さんって本当に“忘れさせ屋さん”なんですね」
とさなえに真っすぐにいわれて照れてしまい、おちゃらけて「何の種も仕掛けも、魔法もないけどね」
さなえもいたすらっぽい笑顔で「実は違う星から来た宇宙人だったりして!」
お互いに顔を見合って、大声で笑いあった。
そうだったら、どんなに楽だろうか。
でも俺は今を生きている。
とにかく今日も悔いなく生きていこう、そう思えることに感謝して。

創作大賞「もう、忘れていいよ」(4)へ続く

https://editor.note.com/notes/nb958f4e513a9/edit/


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