【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】『もう、忘れていいよ』(2)
第3章『四年で冷めない永遠の愛』
美和子の一件から一ヶ月が過ぎた。
時折男友達や女友達から、飲み会やデートの誘いがあったが全て断った。
今まで読もうと思って買った本や、観たかった映画をネット配信で観たり、凝った料理を作って時間を過ごした。
平日の昼間近所をゆっくり散歩し、立ち寄った公園のベンチに腰掛けた。
小さな子供を連れた若い母親が、数人で楽しそうに話している。
今頃世間の人達は、仕事をしている。
こうして昼間から何をするでもなく、ただぼんやりと時を過ごしていると、自分だけが世の中からはじき出されたような孤独感に襲われる。
一体俺は何をしたかったんだろう。
大学時代もたいした目標もなく、遊んでばかりいたな。
適当に勉強して、適当に遊んで。
真剣に生きていなかったんだ。
“忘れさせ屋”そんなことやっていていいのか。
占い師の女にいわれて、美和子に天職だって褒められて、
その気になっていたけど。
こんな中途半端な人間が、人の痛みや苦しみを受け止めるなんて
できるはずがないじゃないか。
やっぱり真剣に仕事を探そうと思った時に、見知らぬ女性から携帯に
連絡があった。
話しているうちにどうも美和子の変身ぶりが良い宣伝になったようで、
どういうつながりかはわからないが忘れさせ屋の依頼が来た。
クライアントの女性から指定された待ち合わせのラーメン屋は、
50人ほどは入れそうな大きめな店内だが、ランチタイムで賑わっていて
満席だ。
しばらく店の外で空席を待っていたが、カウンターに1つだけ空きが出たから座った。
待ち合わせの時間にはまだ少しある。
店のオリジナルのラーメンを頼み、クライアントを待った。
といってもお互い初対面だから、クライアントから連絡が入ることになっていた。
ラーメンができあがり約束の時間になっても連絡がこない。
ラーメンを食べ終わって吹き出た汗を拭いていたら、クライアントから連絡があり店の外に出ろという。
勘定を済ませ店を出ると、しばらくしてから同じ店から、
クライアントの女性が出てきた。
坂田和子と名乗る女性はしゃれた薄いサングラスにセンスのいい小ぶりな帽子をかぶっている。肩まで伸びた髪は、きれいにカールしている。
素材のいいサーモンピンクのブラウスをウエストでリボン結びにし、
体の線がハッキリと出る細見の白いパンツが、まったく贅肉がないのがわかる。そして、妙に姿勢がいいのが、全身に無駄や隙が全くないという印象を際立たせている。
「お約束の時間が過ぎちゃってごめんさいね。あなた澤田君よね」
「はい。澤田です。澤田哲也です」
「そう。澤田君を少し観察させてもらったの」
話し方もテキパキして、隙のないいい方だった。
初対面だが、すでに和子のペースになっている。
「はあ……」
「インドのガンジーって人、知っている?彼が『人は食事のしかたに応じた人間になる』っていっているの」
「ガンジーがですか」
いきなりガンジーって?さらに隙を与えない威圧的な話し方で
「そうよ。人をみるときは、その人の食事の食べ方をみるのが一番だって。どんなに外見が立派だったり、きれいでも食べ方に全部あらわれるのよ」
和子は自信満々と絶対に自分の意見は、全て正しいという口調で更に続けた「これから時間を共にする、パートナーでしょ。いくら身元が分かっていても、生理的に受けつけない子だったら困るもの」
“子”だって。確かに歳上だろうが、まるで子供扱いだ。
いったい和子は、何者なんだ?こっちだって少しは情報を得ようと思い。「あの。美和子、いえ姉とは、どういうつながりなんですか」
「う~ん。それはまた後で説明するわ」
こんな面接も変だと思うが一応聞いてみる。
「それで俺は、合格ですか」
「そうね。じゃあ、行きましょう」とそっけなくいう。
スタスタと先に和子が歩いていく。
出会いから完璧に和子のペースだ。
その後を追いかけながら、自分にいい聞かせる。
和子はクライアントだ。
それにこれは仕事だ。
腹をくくって、付き合おう。
俺が小走りになるほど、和子は歩くのが早い。
息を切らしながら歩調を合わせて到着したのは、女性ばかりが集まるアイスクリームの専門店だ。
「ラーメンの後は、やっぱりアイスでしょ」
と和子が嬉しそうにいい、店員にいつものといわんばかりに、3種類のアイスを注文した。
注文しようかとウインドーの中のアイスを見ていたら、和子が注文したアイスを差し出して。
「私は食べないからどうぞ。とってもおいしいわよ」
それをどうもと素直に受け取り、周りの女性たちを気にしながら食べた。
確かに3種類とも絶妙の味のバランスで、どれもとてもおいしかった。
それにこってりとしたラーメンの後味をいい状態で打ち消してくれる。
めったにアイスを食べないけど、これはやみつきになりそうだ。
「なんでこんなにおいしいのに、食べないんですか」
待ってましたとばかりに、和子はバックの中からどこかの国のお姫さまのような肖像画の一枚の絵葉書を取り出しだ。
「私の憧れの人なのよ。18世紀に生きたエリザベート王妃よ。この方はこの時で、すでに私より10歳も年上の還暦なのよ。それでこのプロポーショよ。でね生涯この体系を維持したそうよ」
なんだって和子は俺より、10歳年上の還暦といった。
ということは和子は50歳。
それも驚きだ。
10歳いやそれ以上に若く見える。
しかもこのプロポーションは、とてもその年齢に見えない。
和子は更に饒舌(じょうぜつ)に「エリザベート王妃はね、フルーツとお野菜しか食べなかったんですって」
「だから坂田さんも、食べないんですか?」
「そうね。私とっても太りやすいのよ」
フルーツと野菜しか食べない生活までして、体形を維持する必要がある和子は、どんな生活をしているか興味がわく。
アイスを食べ終わると、和子は行き先も告げずに「さあ、行きましょ」と店を先に出て行く。
急いで和子の後を追うように店を出る。
すると和子は、変わりかけた信号を更に急いで渡って行く。
慌てて全速でついていく。
しばらく歩くと和子がまた当然という足どりで、店に入っていく。
店の看板には、ダンス用品専門店と書かれてある。
店内はきらびやかな社交ダンスで着るドレスが、所狭しと飾られてある。
すっかり旧知の間柄のような親しさで、年配の女の店員が和子に話しかける。
「先生。ご注文頂いていたドレスが、ちょうど出来上がってきました」
「わぁ、嬉しいわ。見せて」
店員が和子を先生といったぞ。
そうか和子は社交ダンスの先生なのかとぼんやりと考えながら、試着室に消えた和子を手持ちぶさたで待った。
真紅のドレスに着替えた和子が、更に姿勢を正して試着室から出てきた。
やっぱり女は、本当に化ける。
サングラスをはずした和子は、少し上がった目元もキリッとした印象でなかなかの美人で、さっき見せてもらったエリザベード王妃さんみたいだった。年配の女の店員が、とても大袈裟に和子を褒める。
和子もまんざらでもなさそうだ。
「これね、今度のヨーロッパの大会で着ようかと思っているのよ」
鏡ごしに軽くポージングする和子に向かってたずねる。
「ヨーロッパの大会って?何ですか」
和子は当然といわんばかりに
「私が出場するの。社交ダンスの大会よ」
「へぇ~、すごいじゃないですか」
一瞬和子の表情が少し曇り「たぶんこれが最後になると思うけどね」
年配の女の店員が自慢そうに「坂田様は日本を代表する、社交ダンサーなんですよ」
なるほど。だからあの自信満々の態度なんだ。
そうとうなセレブと知り合ったんだな。
和子と翌日の約束をして別れた。
珠枝と話したくて珠枝の携帯に連絡したら、仕事を休んで家にいるという。珠枝の好きなチーズケーキを買って実家へと向かった。
実家に着いたら、珠枝が庭で草むしりをしていた。
「ただいま」
「お帰り」手を休めていつもの笑顔になる。
でも珠枝がなんとなく生気がないように感じる。
「仕事休むなんて珍しいな?」
「ここんとこ忙しかったから、お休み取ったのよ」
「この間手ぶらだったから」とケーキの箱を見せる。
結婚前に喫茶店で働いていた珠枝は、コーヒーを淹れるのがうまい。
豆から挽いて水サイホンで淹れるから時間がかかるが、とびきり美味しいコーヒーを飲ませてくれる。
部屋中に香しいコーヒーの匂いがたちこめる。
珠枝が喫茶店を出すのが夢だったと、前に聞いたことがある。
珠枝の顔色を伺いながら「この間美和子と一緒に、親父に会ったんだ」
「そう」とすでに美和子から聞いているのかそっけない。
「美和子が 『女と別れたんなら、家に帰ってきたらって』いってさ」
珠枝は少し困ったようしながら、カップにコーヒーを注ぎ「美和子ったら」「どうするの?」
珠枝が箱からケーキを出して、皿にのせて出してくれて「どうするって。どうにもならないでしょ」
まずはうまいコーヒーを一口味わって「そうなんだ。もうどうにもならないんだ」
珠枝もコーヒーを飲み「なりませんね」とあからさまに不機嫌な声でいう。「親父さ、俺に金を借してくれっていってきたんだ。アパート借りるのにって。親父帰ってきちゃダメかな」
珠枝の目つきが急に険しく変わり、冗談じゃないというように「そんなこと、できっこないじゃない」
「できっこないかな。そうかな……」と呟く。
「いやよ。今更」と口をきつく結びコーヒーをじっと見つめている。
「本当は親父と別れたくなかったの?」心に浮かんだ疑問を聞いてみる。「なんでそんなこと聞くの」珠枝は怪訝(けげん)そうな目つきになる。
「今まで親父とのこと、ちゃんと聞いたことなかったから」と取りつくろうようにかえす。
珠枝は少し考えてから「そうね……できれば、別れたくなかったかな」と力なく俯く。
「親父から聞いたんだけど、母さんから離婚届けを持ってきたって。どうして」
珠枝がゆっくりと顔をあげて「……節子にいわれたのよ。『お父さんと別れて。私が一生お母さんを守るから』って」
「節姉がそんなこといったのか」
「節子はずいぶんと、私とお父さんのこと見てきたからね。節子にいわれて目が覚めたのよ。お父さんを追いかける女じゃなくて、私はこの3人の子供の母親でいようって」といつもの穏やかな微笑を浮べた。
「親父のこと、嫌いになったんじゃないんだ」
「お父さんのことは好きよ。今でも私の人生の中で一番好きな人よ。だってあなたたちのお父さんだもの」
珠枝から和雄のことを今でも好きだといわれて、嬉しい反面身勝手に生きてきた和雄に対抗したくなった。
「俺だって一生、母さんを守っていくよ」
マザコンだと揶揄(やゆ)されても珠枝を一生大事にしていくぞと改めて思う。
「ありがとう。でも節子も、美和子も、哲也も、一番好きな人と結婚して、幸せな家庭を築いていって欲しいな。お母さんは大丈夫だから」
「そうだな。考えておくよ……」
他の女のもとに走った和雄をいまでも一番好きといえることは、今は理解できない。だけどいつか、それほど人を好きになれるのだろうかと考えた。
和雄が家を出て行って、残った家のローンを払い、俺たちを育ててくれた珠枝にもっと幸せになって欲しいと心底思った。
珠枝の幸せはやっぱりさっきいわれたように、俺たちが幸せな家庭を築くことなんだろうか。
だけど珠枝にも、女の幸せを味わって欲しい。
翌日『坂田ダンススクール』と看板が出ている雑居ビルの2階に、約束の時間より30分も早く到着した。入ろうかと迷っていたら、いきなり扉が勢いよく開いた。
レオタードに腰巻を巻きつけたスタイルの和子が「やっぱりね。どうぞ入って」
30畳ほどありそうな、前面に鏡がはりめぐられた室内。
和子はすでにウォーミングアップをしていたようで、うっすらと汗ばんでいた。
「あと1時間ほどしたら生徒さんたちが来るから、悪いけどお掃除お願いね」
相変わらず和子は勝手だ。
仕方なく鏡を拭いたり、モップで床を拭く。
そうこうしているうちに数人の中年のご婦人たちが入ってきて、一気にスタジオの中が賑やかになった。
ご婦人たちの体系は中年太りだが、和子のように妙に姿勢がいい。
和子を中心に鏡に向かって、ステップのレッスンがはじまる。
白ゆき姫と7人の小人のように和子が別の世界のお姫さまのように、一気に輝いて見える。
一瞬『ヤバイ』と思う。
まだ昨日出会ったばかりの、しかもひとまわりり以上も歳上の和子に、この瞬間に恋に落ちた。
一時間ほどのレッスンが終わり、ご婦人たちがまた賑やかに帰っていった。和子とふたりきりになり少し緊張した。
そんな心の変化にまったく気が付いていない和子が「澤田君も踊ってみる?」といって、いきなり腰に細い腕を回して右手をしっかり握りしめ、
ぐっと体をそらせてみせる。
先程からレッスンを見ていたから、これから一緒にダンスを踊ることはなんとなくわかる。
さっき芽生えた恋心が見抜かれるんじゃないかと心配で、もうのどがカラッカラッになった。
すごい勢いで心臓が鳴っている。
和子がまるで雲の上を歩くみたいに、優しくゆっくりステップを踏み出す。その和子の動きに合わせてゆっくりとステップを踏む。
「そうその調子」といわれ更に、大きくステップを踏む。
一緒に踊る和子は今までみせてきたせっかちでぶっきらぼうで、自分勝手な和子ではなかった。
まるでゆりかごの中で眠っている赤ん坊を優しくあやしてくれる、母親のように優しかった。
「澤田君センスいいよ」という言葉に我にかえった。
と同時に和子が終わりというように離れた。
「先生の教え方がうまいからですよ」興奮冷めやらぬでいう。
「そうなのよね。ダンスを教えるのだけは、自信があるんだけど、その他は全くダメなのよ」
全くすきのない自信に満ちた和子が、ダメとはなんだろうと思って
「なにがだめなんですか?」
「まぁ、そのうちわかるわよ。時間まだ大丈夫?」と和子は話題を変える。「はい」と元気に応える。
「今日はもうレッスンがないから、ちょっと付き合って」
「はい!喜んで」とさらに力いっぱい応える。
どこまでもお付き合いします!と心の中で叫ぶ。
和子は柔らかなシルク素材の光沢のある濃紺のワンピースに着替え、アップにしていた髪を下ろした姿はまた美しい。
これからデートに行くような、ムードに戸惑った。
もしかして和子も、俺に気があるのか?
まさか知り合ったばかりなのにそんなはずはない、と勝手に自問自答していると「さあ、行きましょう」と軽やかに先を行く。
高めのヒールで颯爽と歩く度に、スカートの裾からのぞく引き締まったふくらはぎが、妙に色っぽい。
和子がダンスを踊るように軽やかに歩く姿を、エスコートするのは優越感だった。
相変わらず和子は、行き先も告げずに地下鉄に乗り、俺が前に働いていた職場の最寄り駅で降りた。
同僚たちに会うんじゃないかと内心ヒヤヒヤしたが、和子と一緒にいるところをみせびらかしたい欲求がわいてきた。
それほど和子は、きれいだし自信に満ちたオーラが出ていて客観的にみても魅力的だ。
駅から出て少し歩いたところに、大きくて立派なレンガ造りの重厚な建物が見えてきた。
建物の前で和子が一瞬立ち止まり、何か少し考えてから、扉をゆっくりと開けて中へと入って行くとそれに続く。
中に入るともう一つの扉があり開けると、ゆったりとしたスイングジャズの音楽が聞こえてくる。
中は広々としたフロアで、10数組の中年の男女がペアになり踊っている。ここは社交ダンスのホールのようだ。
和子はいつも訪れているのか真っすぐに窓際の心地良さそうなソファーに腰掛けた。
その和子の隣に座る。
しばらくして和雄よりは少し歳上に見える、紳士が近づいてきた。
急に和子が緊張したのがわかった。
初老の紳士が和子に「お久しぶりです。お変わりなく、今日もお美しいですね」
更に驚いたことに、和子がはじめて男性に声をかけられた10代の少女のように、恥ずかしそうにした。
一体この紳士は何者なんだ。
「ようこそ、おいでくださいました。どうぞごゆっくりお楽しみください」と俺に実に丁寧にお辞儀をして去っていった。
和子は恥じらいながらも、その初老の紳士をじっと目で追って見つめている。
俺は悟った。和子はあの初老の紳士に惚れているんだ。
勝手に嫉妬しながらトゲのある口調で「あの紳士、何者なんですか?」
「杉本さんはここのダンスホールの経営者で、若い頃は何度も世界大会で優勝した社交ダンスのチャンピオンで……」
ムッとしながら「はぁあ、すごい方なんですね」
「そして……」
といい淀む和子の横顔を見て「そして?」
「……私の、初恋の人で……忘れたい人」
和子は潤んだ目を杉本に向けながら、最後は消え入りそうな声でいう。
やっぱりそうだった。和子の初恋で、忘れたい人って。
胸がズキンと高鳴り、やっと声を絞りだす。
「それって今でも好き?ってことですか」
「……うん……」
初めて見たまるで少女のような和子の、恥じらう姿に杉本に猛烈に嫉妬する。
そして和子に意地悪な質問をしてみた。
「どうして忘れたい人、なんですか」
「だって。奥さんも子供さんもいるのよ。それに私なんかじゃ、ダメなのよ」
思わずその場に立ち上がり大声で「ダメなんかじゃないですよ!」
周りのお客が、一斉に俺たちを見る。
和子もバツが悪そうに「ちょっと!そんな大声出さないで」
諭されて我に返り、席に座り直して
「和子さんはとてもステキです。好きです」
いってしまってから、ヤバイぞ何いってんだよ。
こんなところで告白するなんて。
しかし和子は今の告白はただの社交辞令だと思ったのか、さらりと交わし「そう。ありがとう。嬉しいわ」
といいまた、杉本に熱い視線を注いでいる。
その態度に少し腹がたったが、それよりも和子が惚れてる杉本が、いったいどんな奴なのかが知りたくて仕方なかった。
そんな思いが伝わったのか、また杉本が和子のところに近づいて来て、
「一曲踊ってもらえませんか」
和子は恥じらいながらも待っていました、とばかりにダンスフロアへと向かう。踊っていた人達も、和子たちのために隅へと控へる。
ダンスフロアには和子と杉本のふたりだけになり、一瞬の静寂のあと軽快なワルツの音楽が流れる。
ふたりが踊りはじめて、和子が杉本に惚れた理由が分かった。
男でもうっとりするほど、杉本はカッコ良い。
和子も18世紀のお姫様に引けをとらないくらい、美しく輝いている。
ふたりが踊り終わると、自然に周りから拍手と歓声が湧く。
和子が拍手に包まれて、自信に満ちた顔で帰ってくる。
うっすらと汗をかいている。
「とてもステキでしたよ。まるで映画のワンシーンのようでした」
「ありがとう。杉本さんのリードが良かったからね。あ~、やっぱりだめだわ。忘れられそうにないわ」
俺の中でメラメラと闘志が湧いてきて、心の中で大声で叫んだ。
絶対に忘れさせてみせる!
これはもう、仕事なんかじゃないぞ。
一人の男としての闘いだ。
杉本が遠くから笑顔で、片手を和子にむけて讃嘆している。
なんてスマートでカッコイイんだ。
ダンスホールを出たところで、ダメもとで和子を飲みに誘った。
意外にあっさりとオッケーしてくれ、仕事の帰りに何度か行ったことのあるワインバーに一緒に行った。
お互い異様なテンションの高さで、ワインを一本すぐに飲み干した。
酒には強い方なのでまったく大丈夫だったが、和子は2本目を飲み干したら、ばったりと酔いつぶれた。
やっとの思いでタクシーに和子を乗せたが、自宅がわからないし、かといってホテルに連れ込むわけにもいかず、和子のダンススクールに戻ってきた。スクールの中に倒れこむように入ると意識を失った。
目が覚めたら外はもう明るくなっていて、見ると和子はレッスン着に着替えていて当然というようにストレッチなどをしている。
鏡を見て寝ぐせを直したりすると
「すごく大きないびきをかいていたわよ」
「すいません」と妙に恥ずかしくなる。
「私こそごめんなさいね。こんなに付き合わせちゃって」
「いえ。嬉しいです。こうして和子さんといられて」と鏡越しに和子を見る。
和子は「ははは」と笑い声を立てて「そうやって、色んな女の子を泣かせてきたんだ」
何と返そうかと思っていると。
「あ、ごめん。気にしないで」と少し申し訳なそうに和子がいう。
「いえ。泣かせてきたっていうか。今までその人のことが、ずっと忘れられないほど好きになったことがないから、すごく羨ましいって思いました」
昨日の和子の杉本に対しての態度を思い出す。
「これが羨ましい?お陰でこの通リ、結婚もしないで50歳になっちゃったのよ。バカみたいじゃない」
「そんなことないです。和子さんはステキです」と真顔でいう。
「澤田君にそういってもらえると、少し救われるわ……杉本さんに出会って、もう30年になるのかな。もう一目惚れだったわ。夢中でダンスを覚えて、少しでも杉本さんに近づきたいって、必死だったのよ」
和子の正直な告白に、きっとそうなんだろうと思う。
「そんなにずっと、好きでいられるんですか?」
俺は今までそんな一途に心から人を好きになったことがないし、そこまで思える人に巡りあえて羨しいと思う。
ふと珠枝の顔が浮かぶ。
「だから私って、バカなのよ。おかしいでしょ」
珠枝も今でも親父のことを、好きだっていってたしな。
和子がバカなんかじゃないってことを教えたくて、両親のことを全部話した。
「そこまでされてもうちの母さんも、親父のこと好きだっていってましたよ。だから和子さんだって、バカじゃないですよ」
「全部理解できないけど、女って初恋の人が忘れられないんじゃないのかしら」と和子が考えるように俯く。
初恋か。
初恋は忘れられないって、そうなんだろうか。
はたして杉本は、和子のこの一途な思いを知っているのだろうか。
「杉本さんは和子さんのその気持ち、知っているんですか?」
和子は大きくため息をついて「ええ。もう随分昔だけど、私の気持ちを打ち明けた時、杉本さんからいわれたの」
「なんて?」
「君みたいな人は、結婚しないほうがいいって」と力のない声でそう答える。
「それってどういう意味ですか?和子さんには、一生独身でいてくれって。自分は他の人と結婚するけど、君はずっと自分を好きでいてくれってことなんですかね」
「私もずっとその言葉の意味を考えているのよ」
無性に腹がたった。杉本って奴はあんな紳士のふりをしながら、こうして長い間、和子さんを縛りつけてきたんだ。
絶対に許せないぞ!
また勝手な闘志がムクムクと湧いてくる。
「絶対に決着つけましょうよ!」
「決着って?」と和子が不安そうに見る。
「任せてください。絶対に忘れさせてみせますから」
「そうね。そのためにあなたにお願いしたんだから」その目には期待というよりも、悲しそうな光があった。
そうはいっても、とたんに不安になってきた。
任せてくださいって、一体何が大丈夫なのかよ?
このとき何か、具体的な対策があったわけではなかった。
さてこれからどうするか。
いつも本を読んでいた節子の顔が浮かんだ。
節子は大学院を卒業して、教授に気に入られてそのまま大学に残り、しばらく教授の助手を勤めて36歳という若さでしかも、女性では異例の准教授になった。
よく親戚から“トンビが鷹を産んだ”と冷やかされるほど節子は優秀なのだ。できのいい節子なら、何かいい案を授けてくれるのではないかと、節子の勤める大学に向かった。
突然の弟の訪問なのに、節子はあたたかく迎えてくれた。授業が終わるまで校内の食堂で待っていて欲しいといわれ、缶コーヒーを飲みながら節子が来るのを待った。
数人の生徒と楽しそうに話しながら、節子が現れた。
やはり節子と会うと少し緊張する。
節子が微笑みながら近づいてくる。
「ごめんね。待たせちゃって」
節子は高校に入学したころからメガネをかけている。
そのメガネが節子に近づきがたい印象を与えているような気がする。
時折節子がメガネをはずすとびっくりするほど、美人に思える。
普段からあまり洋服や、化粧に興味のない節子に美和子はよくこと細かにアドバイスするようだが、節子がそれを真剣に聞いてはいないようだ。
仕事柄なのか洋服も地味だし、化粧もほとんどしてない。
だけど節子はそんな外見を打ち消す、自信に満ち溢れた美しさがある。
「節姉、キレイだな」久しぶりに会った節子を見て素直に言葉がでた。節子は少して照れて「えっ?そう、ありがとう」
「突然ごめんな。忙しいのに」
「そんなことないよ。哲也がこうして私のところに尋ねてきてくれるなんて、今までなかったじゃない。だから嬉しいわ」
そういわれてみるとこうして、節子とふたりで会うのは初めてだ。
優しい節子の笑顔に心もほぐれる。
「美和子と哲也はいつも仲が良くって、いいな~って思ってたよ」
と節子が意外なことをいう。
節子が俺たちのことをそんなふうに思っていたなんて。
「ちょっと相談したいことがあるんだ」
まどかのことから、和子のことまで話した。
聞き終えた節子は「そうなんだ……」といいしばらく考えこんでしまった。授業が終わったのか、学生たちで急に周りがざわついてきた。その中にこちらをじっと見つめる男がいた。
他の学生とは違う、俺と同じ歳くらいだが妙な落ち着きがある。
見つめても視線をそらさない、その男が気になり節子に聞いた。
「あの男さっきからずっとこっちを見ているんだけど、知り合い?」
節子がその男を見た。
一瞬節子の表情が変わって
「中国からの留学生よ。国費で来てるから、すごく優秀なのよ。哲也と同じくらいの歳かしら」
「もしかして、節姉の彼氏?」
軽い冗談のつもりでいったのに、節子は驚くほど動揺して「そんなはずないでしょ。私のゼミの生徒さんよ」
「そうなんだ」
その男はやっと視線をはずし、本を読み始めた。
なんとなくその男が気になったが、節子に視線を戻して
「節姉は結婚しないの」
「結婚ね。まず相手を見つけないとね」
「彼氏とかいないんだ」
節子は中国人の留学生をチラッと見て「悔しいけど、いないのよ」ととても残念そうにする。
「でも好きな人はいるんだ?」
節子が呆れて「ちょっと、今日はそんなこと聞きにきたんじゃないでしょ」またあの男を見ると、男もゆっくりとこっちを見る。
節子もなんとなく中国人の男を気にしながらも、相談に応えようとゆっくりと言葉を探しながら「私は恋愛の経験が少ないし、哲也が納得できるアドバイスをしてあげられないかもしれないけど、その和子さんの好きな人に、正直に聞いてみたらどうかしら?」
「やっぱり、それしかないかな」
同じことを思っていたから納得した。
「当たり前のことだけど、人って話してみないとわからないじゃない。哲也らしく、誠実にあたっていけばいいんじゃないかな」
「ありがとう。そうしてみるよ」
「ごめんね。気の利いたこといえなくて」
「今日は良かったよ。こうして節姉と話ができて。」
節子と腹を割って話せたことが、すごく嬉しかった。
そして節子にあのことを聞いてみたくなった。
「親父と母さんが別れる時、節姉が母さんに別れてくれっていったんだよな。どうしてそんなこと、いったんだよ。別に責めている訳じゃないんだ」節子は言葉を探すように「……このままじゃお母さんが、壊れちゃうって。なんとかして助けなきゃって思ったの。だから私がうんと偉くなって、お母さんをずっと守って行こうって」
「……俺小さかったからよくわかんなかったけど、あの時母さんががそんなに悩んでいるって知らなかったよ」
「私もまだ子供だったけど、自分が好きな人が他の女の人と愛し合ってるなんて、考えただけで気が狂うじゃない」
高校生で恋愛経験もない節子が、そんな想像をできるとは精神的にかなり成熟している。
「確かにそうだよな」
「それにお母さんはお父さんのこと、すごく好きだったし。あんなんだけどね」
「そうだよな。あんな親父だけどな」
「私もお父さんのこと、すごく憎んだけどキライになれないし」
「節姉はどう思う?親父さんと母さんが、もう一度一緒に暮らすって」
節子は頬に手を当てて真剣に考えて「……お母さんがそれを望むなら、いいんじゃない」と節子はほんの少し寂しさを帯びた笑顔を向ける。
珠枝のこれからの幸せは、和雄ともう一度一緒に暮らすことなんじゃないかと、ありえないかもしれないけど、そうなって欲しいと思った。
でもそのことは節子にはいえなかった。
節子と食堂で別れてから大学の構内を歩いていたら、後ろから呼びとめられた。
振り返るとあの食堂で、会った男がいた。
流暢な日本語で自己紹介をされた劉と名乗る男は「失礼ですが澤田先生とは、どのようなご関係ですか?」
同じ歳には見えない堂々とした劉の態度に、なぜか嫉妬した。
「恋人です」と自分でいって驚く。
劉の表情が一瞬険しくなって「恋人ですか?本当に?」
そういわれて収拾がつかなくて、ぶっきらぼうに「あなたには、関係ないでしょ」
「あります」と劉が真っすぐに見る。
「ありますって?どうしてですか」と俺も挑戦的にいう。
「私は澤田先生に、プロポーズしました」
思いがけない言葉に「プロポーズ!」と大声で叫んだ。
「はい。私は澤田先生を愛しています」と劉が真顔でいう。
ちょっと、どういうことだよ。
節子とこの男は、そういう関係なのか。
もう堪忍して「ごめんなさい。恋人なんてウソです。弟です。澤田節子の弟の澤田哲也です」
こうなったらこのまま帰るわけにはいかず、劉を近くの居酒屋に誘った。
お互いに誤解が説けて、酒も入りすっかり意気投合した。
劉は歳は一つ上で、中国では最高レベルの大学を卒業し、アメリカの名門大学の博士号まで取り、自国の全面的な援助を受けて、日本で勉強中だということ。来年の春には中国に帰国することになり、その時に一緒に節子と帰国したいと、プロポーズしたらしい。
節子とは数回ゼミ仲間と一緒に酒を飲み行っただけで、まだ手も握っていないと酒を飲んで饒舌(じょうぜつ)になった劉は、一気に話してくれた。
「じゃあ劉さんは、どうやって姉にプロポーズしたの?」
「手紙を書きました」
「手紙?ラブレターを」
「はい。そうです」
「それで返事は?」
「まだもらっていません」
節子はなんて応えるのだろうか。
さっき見た節子の劉を見る目は、まんざらでもなさそうだけどな。
「劉さん。まだ付き合ってもいないのに、どうして結婚しようって思えるのかな。姉がとんでもない女だったらどうするの」
劉は大事なことを打ち明けるような輝く目になって
「私は一生涯愛したいと思う気持ちを信じているので、節子さんにプロポーズしました」
何があっても揺るがないという劉の姿に、恥ずかしくなった。
俺ってこの歳まで、いったい何をしてきたんだ。
何もかも中途半端な自分を本気で変えたいって思い、これまでの抱えてる問題を話した。途中で何度か劉から質問を受けながら、全て話し終えると。「まずなんでもいいから、とことん真剣にこれ以上できないと思えるまで、つきつめることではないでしょうか。〝一つの堀を超えられない者は、もっと大きな堀を超えることはできない”と中国の古い格言にあります。一つを超えられれば、そこから一気に全て、良い方向に開けて行くと思います」
「劉さん。あなたはすごい人だ。俺からも姉をよろしくお願いします」深く頭を下げる。
劉の言葉は心にストンと落ちた。
言葉ってこんなにも人を奮い立たせることができるんだ。
あの占い師の女がいった言葉が蘇る。
『もう、忘れていいよ』
バカげてるって人からは笑われるかもしれないけど、今俺が真剣に取り組むことは、依頼人に『もう、忘れていいよ』と背中を押してあげることだ。
久しぶりにスーツを着て、杉本の経営するダンスホールにやってきた。
ドアの前で大きく深呼吸をして、ドアをあけた。
中へ入るとまだ客はまばらだ。
すぐに杉本が気付いて近づいてきて
「いらっしゃいませ。今日はお一人ですか」
「はい。今日はあなたとお話がしたくてきました」
杉本は察したように、別の部屋へと案内してくれた。
「ここだと静かなので、お話をゆっくりお聞きできますので」
座り心地のいい椅子に腰かけてチラッと部屋の中を見回す。
センスのいい調度品が置かれた部屋は、杉本の趣味が反映されている。
気負わずに杉本に短刀直入に聞いた。
「坂田和子さんのことですが、今日私がこうして杉本さんに会いに来ていることは、彼女は知りません。これは私が勝手にしていることです。杉本さんは坂田さんを、どのように思っているんですか」
杉本は一瞬怪訝な顔をして「どのようにとは?坂田さんは大切なお客様ですし、日本を代表する尊敬するダンサーだと思っていますが」
その言葉は真実だとわかる。
杉本には和子の抱える気持ちを伝えるしかない。
「和子さんがあなたに特別な気持ちを持っていることも、知っていますよね」
驚いたような表情を浮かべるが「ずいぶん昔にそのような気持ちを伝えられたことは、覚えています。しかしもうずいぶんと昔のことですよ」
そんな昔のことを今さらと少し迷惑そうにいう。
「和子さんは今でも変わらず、杉本さんを思っています。そして杉本さんにいわれた『君みたいな人は、結婚しない方がいい』といわれた言葉の意味に縛られています」
杉本はしばらく遠い記憶をたどるように考えていて「そうでしたか。それは大変に申し訳ないことをしました。確かに坂田さんから、思いを打ち明けられました。その時私は家内との結婚を決めていましたので、はっきりとお断りしました。それに坂田さんに、結婚しない方がいいと申し上げたのは、彼女のダンサーとしての才能を思って、申し上げました」
杉本の真意を知りたくて「それはどういう意味ですか?」
「はい。大変に傲慢ないい方に聞こえるかもしれませんが。社交ダンス界では何組も御夫婦で御活躍されている素晴らしいカップルがいます。しかし当時は、坂田さんの才能を更に開花させる技量の男性のパートナーが見当たらなかったのです」
「杉本さんなら、できたんじゃないんですか」
「いえ私は、そんな器じゃありませんよ」
「この間こちらでおふたりが踊られているのを見て、感動しましたよ」と素直にいう。
「そのように思われるのは、もう現役を引退した者も引き立ててくれる、坂田さんが本当に素晴らしいダンサーであることがわかりますよね」
「坂田さんも杉本さんを、同じようにいっていましたよ」
杉本は穏やかな微笑をたたえたままで静かに見つめて。
「私も沢山の成功した女性ダンサーを見てきましたが、それと同じ位才能を開花できなくて挫折していった女性ダンサーも沢山見てきました。坂田さんにはそうなって欲しくなかったのです」
「結婚したら、ダメってことですか?」
「男は結婚したら、自分だけの妻で居て欲しいと願うのは当然です。いくら理解があっても坂田さんの才能を思う存分開花させてあげられる方でないとだめだと思い、その様に申し上げたと思います」
坂田の和子への思いは、師匠が弟子を思う親心のようなものだと。
そして和子の希な才能が、恋愛や結婚で潰されてしまうのを憂いたと理解できた。
「そうだったんですか。今お聞きしたことを、和子さんにお伝えしてもいいでしょうか」
「勿論です。私も今度お目にかかったら、大変に申し訳なかったと、お詫びさせて頂きたいです」
この話を伝えたらおそらく和子は、二度と坂田の前には現われないだろうと思った。
和子はそういう女だと思った。
杉本に聞いてみたくなった。
「これは私の個人の質問ですが、今でも変わらず奥様のことを愛していますか」
「はい。出会ったときから今日まで、一緒に歳を重ねるほどに妻を大切に思いますし、また生まれ変わっても一緒になりたいです」
杉本が心からそう思っていることが、俺にもわかった。
和雄に聞かせてやりたかった。
“四年で冷めない、永遠の愛”あるじゃないかって。
和子に杉本から聞いた話を伝える前に、和子をもっと知っておきたいと思い、美和子を行きつけの焼鳥屋に呼び出した。
美和子は今日は調子がいいらしく、到着する前にすでに生ビールを3杯飲み干し、焼鳥の串がお皿に数本転がっている。
美和子の前の席に座って「今日は絶好調じゃないか」と生ビールを注文した。
美和子はグレープフルーツ杯と、焼鳥を塩でと注文して「それで、話って何よ」
「ああ。坂田和子って、どういうつながりよ」
美和子は少し考えてから携帯を出して、検索をはじめた。「あ~、坂田さんってダンサーね」
「そう。日本を代表する社交ダンサーだよ。友達じゃないんだ」
「友達?じゃないな。ちょっとした知り合いかな」
「どんな知り合い?」
「前にお見合いパーティに行った時に、全然いいのがいなくってさ。途中で帰ろうかと思って外に出たら、彼女も同じだったみたいで。お茶でも飲みましょうって、誘われてお茶したの」
「それだけ?」と呆れた。
「うん。会ったのは、それだけだよ。それからたまにラインで、最近どう?とかってするくらいかな」
そんな薄いつながりだとは驚いた。
「俺のことなんかいった?」
美和子は察知して「もしかして、依頼があった」
「あった」
美和子は椅子に背に身をのけぞらせて「え~ウソ!ヤダ~」と信じられないとばかりに「哲也のこと宣伝してあげようと思って、色んな人にラインしたの。確かに何人かの人から、哲也の携帯を教えてくれっていわれたけど。まさかあの人が本当に連絡したなんて」
「毎日会ってるよ」
美和子は思わせぶりな微笑みをこっちに向けて「そうなんだ。で、どんな話なの?教えて?」
「ダメ。個人情報だから、教えられないよ」
まさか和子に恋しているなんていえないし。
話題を変えたくて「節姉に会ったんだ」
美和子は和子のことはそれ以上は聞かずに「あら、珍しい。どこで?」
「大学で。そこでなんと、節姉の彼氏にも会いました」
「え~、何それ!もう哲也ったらずるいよ。どんな人、節姉の彼氏って」とても悔しそうにする。
劉のことを話すと
「さすが、節姉。良い人をつかまえたじゃない」美和子が興奮気味にいう。「うまいくいって欲しいけどな。節姉がどうするかだよな」
「そうだね。昔から堅いのよね。それに節姉って、澤田家を背負っているような所あるからね」
「美和子もそう思う」
「思うよ。下手したら、一生独身でいるかもよ」
「それってやっぱり、親父のせいかな」
「う~ん。そうだね。あの親父のこと見てたら、男不信になるだろうしね。節姉は私以上にファザコンだと思うよ」
「そうかな」と穏やかな節子の顔が浮かぶ。
「そうだよ。だってさ節姉は私たちより、沢山お父さんとの思い出があるしさ。長女っていうだけで、お父さんいつも節姉を特別扱いしていたもん」
美和子は本当に悔しそうにいい、一気にグレープフルーツ杯を飲み干し、お代わりを注文した。
そうか。節子は美和子よりファザコンか。
やっぱり全然節子のことを知らなかった。
「それにお母さんを置いて行けないって、なんか変な使命感に燃えているんじゃないかな。私はしれっとお嫁に行くつもりだけどね」
確かに節子は『お母さんを一生守る』っていってるしな。
節子もそうやって、自分を縛りつけているんだ。
だとしたら、そんなこともう忘れろって。
自分が幸せになることを真剣に考えろって、いってやりたい。
「なあ。親父と母さんが、もう一度一緒に暮らすってどうかな」
「この間もいったけど、それが一番みんなの願いだって思うよ」美和子が頬づえをつきながらいう。
「みんなの願いか」
「そう。私たちずっと前はそうだったんだもん。変な寄り道しちゃったけど、元に戻ればいいだけの話しじゃない」
「そうだよな」
美和子は店員におかわりのレモン杯を注文して
「あ~もう私のステキな王子様は、いつ現れてくれるんでしょうか~」と両手を組み合わせて、祈るように目を閉じる。
「俺も永遠の愛を誓える、お姫様に早く会いたいな」とわざとらしく大きくため息をついた。
じろっと美和子が挑戦的に見て「あら?哲也こそ、一生独身でいるんじゃなかったの?」
「俺だって、気持ちが変わるさ」
「へぇ~。誰か好きな人でもできたのかな?」と探るように見る。
勘がいい美和子に、和子への恋心を見抜かれないかと内心ヒヤヒヤする。「さあね~」
俺にとって永遠の愛を誓える人、それは和子ではない。
そう思ったら、早く和子に杉本のことを伝えたくなった。
まだ飲みたそうな美和子に、適当なウソをいい店を出た。
もうすでに夜の10時を過ぎていたが、どうしても和子に早く会いたかった。会って杉本から聞いた話を伝えたかった。
そのことを和子に伝えると、覚悟を決めたように自宅の住所を教えてくれた。
タクシーを飛ばして、30分後には和子の住むマンションに到着した。
昔はずいぶんと高額だったと思わせる作りの建物の最上階に、和子の部屋がある。
どうやら和子は、このマンションのオーナーのようだ。
和子の部屋のインターホンを押し扉が開いた瞬間、その場で固まった。
部屋着でおそらくスッピンの和子に驚いたんじゃない。
玄関には奥が見えないほどの靴箱やら、荷物でごったがえしている。
これはごったがえすという表現がピッタリだ。
「ビックリしたでしょう。さあどうぞ入って」和子が観念したようにいう。部屋の中に入ると更に引いた。
部屋中にも、物があふれている。
たいがいが洋服だったりバックだったりだが、ダンスの衣装も沢山ある。「これでわかったでしょ。私ってこういう人間なのよ。だから結婚できないって、思ったでしょ」
確かに普段の和子の無駄がなく、完璧な立ち振る舞いからは想像できないすごいギャップだ。
「ずいぶん昔に杉本さんに見られたの。私がお酒を飲みすぎちゃって。うちまで送ってもらったのね。こんなにひどくはなかったけど。でもねあれだけの人だもん。わかるわよね。それで私は『君みたいに片づけもできない女は、結婚しない方がいいって』って杉本さんに思われたと。だからずっと杉本さんに聞けなかったの」
「それは違います。杉本さんは和子さんの最高の理解者ですよ」
杉本から聞いた話を全て話した。
残酷だけど奥さんに対する思いも話した。
和子は聞き終えて、張り詰めていた糸がプツンと切れたように、ワッと泣き崩れた。
そして大声で泣いた。
和子を抱きしめたい衝動をぐっとこらえた。
今ここでそんなことをしたら、和子を冒涜(ぼうとく)しているように思えたからだ。
身体中の水分が全部無くなるんじゃないかと心配するほど、長い時間和子は泣いていた。
それをただ黙って見守った。
和子が泣きはらした顔を向けて恥ずかしそうに、少し笑顔になった。
その時にごく自然に「もう、忘れていいですよ」
和子はじっと見つめて、小さくかすれた声で「……ありがとう」と呟いた。俺も和子に出会えて、ありがとうと心の中で呟いた。
和子の自宅を訪ねてから2週間が過ぎ、和子から携帯に連絡が入った。
明日成田空港まで来て欲しいと。
相変わらず和子は勝手だ。
翌日成田空港の待ち合わせ場所に、時間より早く到着した。
せっかく来たんだからと思い、空港内を散策した。
旅客機が見えるロビーの大きな窓ガラス越しに、同じ歳くらいの女性が外をじっと見つめている。
全身から張り詰めたような空気を漂わせるその女性が、なぜかとても気になった。
恋人でも見送ったのだろうか。
女性は前髪もすべてアップにした、肩より長い髪を後ろでひとつ簡素なゴムで結んでいる。
スリムなGパンに少し大きめの長袖のシャツ姿で、ほとんど化粧気のない小顔で整った横顔に小ぶりのパールのピアスが揺れている。
華奢(きゃしゃ)な体系から、一世を風靡した外国の女優のような美しいオーラを醸し出している。
そのたたずまいにまるでスターを見るように、じっと見惚れた。
彼女は俺の視線には全く気付かずに、じっと窓ガラス越しに停まっている飛行機を見つめている。
彼女の頬に光るものが見えた。
泣いているんだ。
彼女の頬にいく筋もの涙が伝う。
溢れる涙が止まらず、やがて嗚咽に変わっていく。
彼女は肩を震わせて、激しく泣いている。
声をかけようか迷っていると、携帯が鳴った。
和子からだった。
すっかり和子との待ち合わせの時間が過ぎている。
慌てて和子の元へと急いだ。
和子は以前の自信に満ちた、姿勢のいい姿で待っていた。
「遅いぞ。私あと10分しか時間がないからね」
といって和子が封筒を差し出す。
「はい。忘れさせ屋さんに報酬です」
どうもといい受け取る。
「これからロンドンで行われる大会に行くの。多分そのまま、しばらく帰ってこないと思うの。前からロンドンでダンスのインストラクターをしないかって、誘われていたのね。だからやってみることにしたの」
やはり和子は勝手だ。
「そうですか」
「澤田君に背中を押してもらったからさ。ありがとう。君はさすがだよ。才能あるよ」
「忘れさせ屋のですか?」とおどけていう。
「そう。その調子で傷ついた、迷える子羊たちを救ってあげてくださいな」「最後にお願いがあります」
「なに?」
「抱きしめさせてください」
「いいわよ」
和子を思いっきり抱きしめ、耳元に囁いた。
「あなたのこと、ずっと忘れません」
これで俺の和子への淡い片思いはあっけなく終わった。
第4章『オッパイとの再会』
空港で和子を見送り帰ろうとしたら、見知らぬ女性に声をかけられた。
「あの失礼ですが、澤田哲也さんですか」
小柄のはつらつとした印象の女性は、航空会社の制服を着ている。前に合コンで一緒になったかな。
そう考えながら「はい。そうですけど、どこかでお会いしましたか?」
急に女性はくだけた調子になり「私よ。高校の部活の鬼マネの加藤真紀よ」とっさに女性の胸に視線を落とした。
小柄だがGカップいや、Hカップはありそうな巨乳だ。
俺の通っていた高校は都内有数の文武両道の男女共学の進学校だった。生徒たちはほとんどが、何かしらのスポーツクラブに属していて、俺は3年間バスケットボール部に所属していた。
そこでマネージャーをしていたのが、加藤真紀だ。
一年の頃から同じクラスで、部活も一緒で俺たちは結構仲が良かった。
真紀はおせっかいなで、何に対しても熱くなるタイプで、マネージャーとして部員の世話をよくしてくれたが練習や試合のことに口を出し過ぎて煙たがられていた。
真紀自身が鬼マネージャーを自認して、試合前などは部員たちに激を飛ばしていた。
あの頃からすでに巨乳で、男子たちの間では真紀は“オッパイ”と呼ばれていた。
おもわず“オッパイ”といいそうになるのをぐっと飲み込み。
「真紀か~懐かしいな。ずいぶんキレイになったから、わからなかったよ」
「哲也はあんまり変わんないね。だからすぐにわかった」
「ここで働いているんだ」
「うん。航空会社の搭乗受付をしているの。ねぇ、もう帰るんでしょ。私も今日は帰れるから、一緒に帰ろうよ。着替えてくるから待っていて」
私服に着替えた真紀は、高校生の時の面影は全くなく垢抜けた美人になっていた。真紀のオッパイは、見事な大きさと形のよいシルエットで、より一層魅力的に見せている。
空港から客席がボックス型の電車に向かい合わせに座り、昔話しで盛り上がった。
「空港で見送った女性って、哲也の彼女?」とさぐるように真紀がいう。「見ていたのか?」
「だってさあんなに堂々と抱き合ったら、目立つでしょ。外国人のカップルはよくやっているけど、日本人はまずやらないから」
「恋人じゃないな。友達でもないしな」と曖昧(あいまい)な言葉を発する。真紀は呆れ半分の声で「じゃあ、愛人?」
「バカいうな。何もしてません」と真顔でかえす。
「え~、そうなの?」とまだ疑いの目を向ける。
真紀なら全てをわかってくれそうな気がして、和子との関係を話した。
「へぇ~。じゃあその和子さんは、哲也のクライアントだったんだ」
「そう。任務終了で、バイバイだけどね」
「絶対、恋人かなって思った。ちょっと、嫉妬した」
「え~、なんでだよ」
「今だからいうけど、私哲也のこと好きだったもん」
真紀の気持ちは、気づいていた。
だけど真紀は俺にとっては、一緒にいて居心地のいい従妹のような存在だった。
その頃から俺は何人かの女の子とやっぱり適当に遊んでいたし、真紀を恋愛の対象と見ることができなかった。
「私も哲也にお願いしようかな」
「えっ?何を?」
「その、“忘れさせ屋さん”」
「真紀にもあるんだ。忘れたいこと」
真紀が急に真顔になり「あるよ」
「いつでも喜んで、お受けしますよ」
お互いの連絡先を交換して、これからデートなのという真紀と別れた。
ちゃんと彼氏がいるんだ。
高校の部活の時の、真紀の鬼マネぶりを懐かしく思い出した。
もう10年も経つんだもんな。随分と変わるよな。
真紀は俺のことをあまり変わってないっていってたな。
それって成長してないってことか。
和子からの報酬は、仕事をしていた時のボーナスを上回る金額だった。
和子らしいはからいだ。
でも嬉しかった。
和子が俺のことをこのように評価してくれたことが。
これでしばらく“忘れさせ屋”が続けられそうだ。
しかしこれからずっと、この状態を続けるわけにはいかない。
そう思ったら、劉の顔が浮かんだ。
劉と大学の近くの居酒屋で落ち合った。
その後節子とはどうなったのか知りたくて「節姉から何か返事があった」「いえ、まだです。彼女にとっては、大きな人生の選択です。時間をかけてゆっくり考えてもらいたいです。私は何年でも待ちます」
「カッコイイな~。俺だったら、1週間も待てないよ」
劉には俺が今までしてきたその時だけ楽しければいいって、恋愛はしないのだろう。
まどかの顔が浮かんだ。
こんな中途半端な俺なんかのために死ぬなんて。
劉にまどかのことを話した。
「そうでしたか。まどかさんは大変に残念なことです。哲也は深く反省し、心を入れかえるべきです。もう二度と同じ過ちを繰りかえさないことです」その通りだと何も返す言葉がなかった。
「女性は恋愛に対しては受身です。そして自分を守る権利があります。その気持ちがわからない男は、相手にすべきではありません」
「俺みたいな軽薄な男は、恋愛するなってことか」
「本当の恋愛をしたいのなら、本気で自分をつくることです」
劉の言葉は、頭を金づちで打たれような痛い衝撃だった。
恥ずかしかった。
恋愛なんて人生の中の遊びと考えていたし、本当に好きな人に出会えないと思っていた。
けど違うんだ。
こんな自分にはいつまでたっても、本当の恋愛ができないんだ。
恥を承知で劉に『忘れさせ屋』の話をした。
またバッサリ切られるかと思ったら、意外な言葉がかえってきた。
「ステキなお話ですね。中国の古い格言に抜苦与楽(ばっくよらく)といい、その人の心にある苦しみを抜いてあげて、喜びや楽しみ、希望を与えるという格言があります。
お話を聞いていて、この格言を思い出しました」
「ばっく、よらく」
「哲也がやっていることは、そういうことだと思います。真剣に誠実に相手の方の心の痛みに寄り添えば、必ず成功すると思います」
「少しは償いができるかな」
「できますよ」
やっぱり劉はゴイ。
本気で自分をつくる。
そうしたら俺も、本当の恋愛ができるのか。
「劉は中国に帰ったらどうするの」
「外交官になって、我が国と世界の国々の友好のために働きます」
「そりゃあ、スゴイな」
「哲也さんは、どうするのですか」
「決めてないよ。でも俺にしかできないことをしたいと思っているよ」
そういいながら俺にしかできないことって、何だろうと考えた。
真紀から連絡があり、久しぶりに部活の仲間たちと一緒に会うことになった。
真紀が予約してくれた店は大きなチェーン店の居酒屋だが、ゆったりとした個室もある。
その個室に真紀と他に懐かしい仲間が3人集まった。
俺意外はみんな仕事帰りだ。
それぞれが、近況を報告しあった。
俺と同じ文系の大学に進学した高田雄介は、保険会社の営業。
理系の大学に進学した佐藤保は、医療関係の仕事に。
高校を卒業して父親の経営する葬儀屋を手伝う藤田剛は、黒服で現れた。
真紀も仕事帰りとあってそれなりに決めている。
俺だけがGパンのカジュアルな服装で、しかも失業中。
ちょっとバツが悪かった。
真紀がマネージャーぶりを発揮して、飲み物や食べ物を注文してくれる。
俺たちは昔話に夢中になった。
話しが落ちついた所で真紀が「でもまだ、誰も結婚してないんだ」
お調子者の藤田が「おい真紀。まさか澤田と私たち結婚します~って、いうんじゃないよな」
「なんだよそれ」と俺は藤田に突っ込む。
「だってお前たち、付き合っていただろ」藤田が当然という顔でいう。
俺は思わず真紀を見て「俺と真紀が?」
藤田が他のふたりに同意を求めて「なあ、そうだよな」
高田も佐藤もあいまに返事をする。
真紀が少しムキになって「違うよ。付き合ってなんかないよ」
藤田も少しムキになって「俺はてっきりそう思ってさ。真紀を諦めたんだぞ」
何だ?藤田は真紀に惚れてたのか?
更に藤田が口を尖られて「他にも真紀のことを好きな奴がいたけど、相手が澤田なら叶わないって、諦めたんだ」
確かに真紀を好きだという奴は知っていたが、俺たちがそんな風に思われていたとは知らなかった。
真紀は残念そうに「やだ~。もっと早くいってよ」
藤田がまんざらでもなさそうに「真紀。じゃあ俺と付き合うか」
「ごめんね。私一応彼氏いるからさ」と笑顔で真紀が応える。
どっと、笑いがおきる。
高田が思い出したように「澤田のお母さんって、珠枝さんだよな。新宿の営業所にいるだろ」
「ああ、そうだよ」
「やっぱりな。俺は池袋の営業所なんだけど、凄い評判だぞ。営業成績は常にトップで、みんなの憧れのカリスマ営業ウーマンだよ」
高田が珠枝と同じ会社だとは、世間は狭いものだ。
しかも思いがけず、珠枝の評判が聞けるなんて。
真紀が新しく来た料理を取り分けながら「それって、どれくらい凄いの」「年収は今の俺たちより倍はあるだろうな」高田が真紀からお皿を受け取る。
佐藤が取り分けた料理を食べながら「すごくないか。女性でそれだけ稼ぐと、男の立場なくなるな」
以前珠枝がいったことを思い出した。
「でもこの仕事って個人でやっているような所あるから、金の持ち出しも多いし、クレームも多い。本当に神経使うよ。その中でそれだけの成績を出すってことは、その影には血のにじむような努力があるさ」
高田がいう通り珠枝は一人で家族を養うために、筆舌に尽くし難い苦労をしてきたのだろう。
佐藤も同調して「そうだろうな。まだまだ社会は男性中心のところあるから、女性がバリバリ働くって、見てて大変だって思うもんな」
「そうでしょ。だから私は子供ができたら、絶対に働かない。いいママになるんだ」
男たちがなんとなく真紀の巨乳を見た。
真紀がその視線に気がつき「ちょっと!今みんなでエッチなこと、想像したでしょ」
確かにした。
男は巨乳イコール、セックスを想像する生き物だ。
藤田がこんな話しをはじめた。
「俺さ葬儀屋じゃないか。もう何百人ていう葬式に立ちあってきてさ、つくづく思うよ。“人は生きたようにしか、死ねないって”さ」
佐藤がビールのグラスを持ちながら、
「それ医者からも聞いた。患者さんが亡くなる時、その人がどんな人生を歩んできたかがわかるって」
神妙な表情を作り藤田が「死に顔に出るんだよ。いい人生だったか。そうじゃない後悔の人生かがね」
死に顔に自分の人生の生きてきた結果が出るって。
俺はその通リだと思った。
更に藤田が自信たっぷりに「ああ。本当だ。俺も仕事始めて最初に親父にそういわれて、最初はよくわからなかったけどな。見事に全部でるさ」不安そうに真紀が「え~私、大丈夫かしら?」
「真紀は今のままいけば大丈夫だよ」藤田が追っかけているアイドルを見るような視線を真紀に向ける。
死はいつ訪れるかわからない。
もしかしたら、明日死ぬかもしれない。
“人は生きたようにしか死ねない”その通りだ。だから、今を悔いなく生きること。
そして人に恥じない、本当の自分をつくること。
まだまだ死にたくないと思った。
こんな中途半端なまま死にたくないと。
数日後、また真紀から連絡があった。
今度はふたりで会うことになった。
今日の真紀はタンガリーチェックのざっくりとしたコットンのシャツに、細身のデニムパンツでまるで大学生のような姿だ。
「哲也とこうしてデートできるなんて嬉しいわ」
「みんなのマドンナの真紀とデートできて嬉しいよ」
「行きたいところがあるの」
「喜んでどこにでもお供しますよ」
真紀のリクエストで、動物園にやってきた。
平日だから園内は空いている。
人気のパンダもすぐに見られた。
相変わらず真紀は、よく笑いよくしゃべる。
「ねぇここで哲也が、私にキスしたの覚えている」
高校生の時に一度だけ、真紀とここでデートした。
その時このチンパンジーのコーナーで、真紀にキスをした。
「あの時チンパンジーのカップルが、ブチュウ~ってチュウしてたんだよね。そしたら哲也が、俺たちもやってみるって?っていって、いきなりキスしてきたんだよね」
「よく覚えてんな」
「そうだよ。だって私ファーストキスだったもん」
「それは大変に失礼しました」
「いいの。哲也がファーストキスの相手で、良かったの。ねぇしてみる?」「何を?」
「キスを」
「え~ここで」
「そうここで」
今までの俺なら即効しているけど、劉にいわれたことが気になった。
「いや。また今度にするよ」と真紀から視線を外す。
「今度とおばけはでません~」真紀も冗談だといわんばかりに少し離れた。俺もわざと大袈裟に「なんだそれ~」
「やだ~。哲也がよくいっていたでしょう」
「そうだっけ。忘れたよ」
「私全部覚えてるよ。哲也とのこと」
「へぇ~、そうなんだ」
「だって哲也のこと、すごく好きだったもん」
真紀は俺を真直ぐに見つめて「今でも好きだよ。哲也のこと」
さすがに哲也も軽く流せず、真直ぐに真紀を見た。
「……ありがとう」
しかしすぐに真紀は、いつもの調子で笑い「な、わけないでしょう~、やだ本気にした~」
「だよな~」俺も務めて明るく返した。
売店でふたり分の生ビールを買って、ベンチで飲みながら「今の彼氏とは、結婚しないの」
「う~ん、多分すると思う。っていうか秋にね、するんだ」
真紀の告白に内心ほっとした半面、ちょっと残念な気持ちになったがすぐに「おめでとう」
「おめでとう、なのかな?」
「普通そうでしょう」
真紀が生ビールを飲み、恨めしそうに空を見上げて
「いいのかな~って、思うんだ」
真紀の横顔を伺い
「何が?」
「時々わからなくなるんだ。私本当にこの人のことが好きなのかなって。
彼も私のことが本当に好きなのかなって」
そういって真紀は、空を見上げたままため息をつく。
同じ様に空を見上げて「それって、マリッジブルー?」
「そうかも。哲也はいないの?そういう人」と真紀が見る。
「いない」
「ねぇ、してみる?」
真紀を見て「何を?」
「エッチ」
「はぁ~また、冗談かよ」
「今度は本気」
「これから結婚する人が、そんなことしていいのかよ」
「やっぱり巨乳はキライなんだ」
「え~?」
「哲也いったでしょ。オッパイが大きい女はキライだって」
巨乳は大好きなんだけど。
そんなこといったのかな。
真紀がムキになって「いったよ。オッパイの大きい女は、スケベでバカっぽく見えてキライだって」
そうだ思い出した。
3年生の最後の試合に俺のミスで負けて、それを真紀になじられて腹がたって、そういったんだ。
「ごめん。いった」
「子供の頃から、オッパイが大きいのがすごく嫌だったんだ。だから好きな哲也にスケベでバカぽく見えるっていわれて、すごく悲しかった。だからオッパイが小さくなりたいって思ってた」
「そうだったんだ。真紀ごめん」
真紀の目的が分かった。
俺がいった言葉を忘れたいんだ。
「真紀。もう、忘れていいよ」
真紀は、じっと俺を見つめている。
「本当はあの時、試合に負けたことを真紀になじられたことがすごく悔しくて、腹が立っていったんだ」
「えっ……」真紀は驚き
「だってさ俺は巨乳、大好きだもの。それにほとんどの男はみんな巨乳が好きだよ。真紀の彼氏が羨ましいよ」
「そうだったんだ」
「そうそれが真実」
「あ~、すっきりした!」と真紀が晴れやかな笑顔になり。
「ほんとに悪かった」と真紀向かって両手を合わせる。
「私も試合に負けたこと、ゴメンね」
「俺もとっくに忘れたよ」
「この間藤田くんがいったこと覚えてる。死に顔にすべてが表れるって」「ああ。覚えてるよ」
「私ねあの話聞いて思ったんだ。後悔するようなことはやめようって。スッキリ楽しく生きたいもんね」
「そうだな」
「だから哲也にもう一度、ちゃんと確かめたかった。私のこと本当はどう思っていたか」
「そうか」
「あ~もう本当にすっきりした。哲也も巨乳が好きなんだ」
「スキスキ、大スキ!」
「では『忘れさせ屋さん』に報酬として、焼肉をご馳走するはどうかしら」「いいのか、俺たちクサイ仲になっても?」
「何よ今更」
そしてしばらくあの頃のように大声で笑った。
創作大賞「もう、忘れていいよ」(3)へ続く
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