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【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】『もう、忘れていいよ』(5)


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

「もう、忘れていいよ」
この言葉に
きっとあなたも救われる

第10章『童貞男の純情』

実家に戻って久しぶりの家族との団欒(だんらん)を楽しんだ。
何より驚いたのが、和雄のマメぶりだ。
子どもの頃は台所はおろか、家の中のことや自分のことすら珠枝任せの和雄しか知らないが、全くの別人のようだ。
和雄はホテルの清掃の仕事を辞めたので、仕事が決まるまでの間、主夫業をすることになった。
珠枝も仕事をしているから、喜んで任せることになった。
朝は誰よりも早く起き、朝食の支度をする。
人間米を食べないと力が出ない。
だから朝は絶対にご飯だといい、野菜たっぷりの味噌汁に納豆、焼き魚、卵焼きに野菜のおひたしと健康的なメニューだ。
ぬかどこをつくり、ぬかみそで漬けた野菜のおしんこが加わる。
これがつかり加減が絶妙にうまい。
このおしんこで、ごはんを軽く一膳は食べるようになった。
珠枝と美和子にも、昼食用にお弁当を作ってあげる。
俺は大学の学食で食べるのが、楽しみなので辞退した。

同じ部屋で17年ぶりに和雄と一緒に布団を並べて、寝るようになった。
ここでも、和雄の意外な一面を発見した。
和雄は意外と縁起を担ぐ。
まずもめたのが、寝る時に方角をどちらを頭にして寝るかという。
今まで窓を頭にして寝ていたので、当然そのようにして寝ようとしたら、西向きで良くない。寝るときは、北向きがいいのだという。
一般的に北向きは人が死んだ時だからイヤだというと、そうではないらしい。
よく眠れるというから、死んだ人を安らかに眠らせるということで北向きなんだと。
本当なのかよくわからないことをいい譲らない。
別にこだわってはいないが、そうするとタンスが邪魔でふたりが同じ方向に並んで寝れないので、和雄とは互い違いで寝ることにした。
これは結果、いい選択だった。
和雄のいびきが、ものすごくうるさいのだ。
もし一緒に頭を並べて寝ていたら、間違いなく不眠症になっていただろう。そして、和雄は布団を敷くのが面倒らしく、それくらいはやってやろうと思っていたら、毎日のことだからといって、和雄がある提案をしてきた。
腕相撲をして、負けた者が布団を敷こうという。
心の中で思った。そしたら毎日和雄が、布団を敷くことになると。
それで腕相撲をやったら、あっさり負けた。
何度やっても負ける。
和雄のどこにそんな力があるのか不思議でならないが、今のところ毎晩布団を敷いている。
こんな調子で、毎日新しい発見があり楽しい。

ある日美和子が家では話せないからといい、自分が通うヨガスクールに付き合わされた。
広い体育館に100人位の女性が、インストラクターの動きに合わせてヨガのポーズを取る。
場内には静かなヒーリングソングとインドのお香の香りが漂う。
男は俺だけで、しかもはじめてなのでまったく動きについていけない。
おまけに俺はとても体が硬い。
みんな骨が外れるんじゃないかと思うくらい、不思議なポーズを取る。
美和子がいうには、ポーズの間瞑想するのだが、この時間がたまらなく退屈だという。
一番後ろなら、少し位話しても大丈夫だからといい
「だからさ、童貞だったのよ」
インストラクターの理解不能な動きに見とれて、美和子の話を聞いていなかった。
「ごめん。ちゃんと聞いていなかった」
美和子は膨れて「もう大事な話なんだから、ちゃんと聞いてよ」
大体大事な話をこんなところでするか、と突っ込みたかったが。
「童貞って誰が」
「今付き合っている彼が」
「へぇ~。童貞って、まさか未成年じゃないよな」
「27歳」
「ってことは、俺の1つ下か」
「ありえる!?27にもなって童貞なんて」
ありえるさ。劉の顔を思い浮かべる。
すぐ近くの女性が、ジロッとこちらを見る。
「やっぱり場所を変えようぜ」

まだ運動をしたいという美和子の希望で、そのあともスポーツクラブのランニングマシーンで、ゆっくり歩きなら美和子が
「哲也のその自殺したまどかさん?じゃないけど、普通にエッチしたらさ、彼童貞だっていうのよね。それで、当然のように『結婚しよう』ですって。引かない?」
「まどかの時そうだったけど引くな」
「でしょ。もうせっかく、生まれ変わって、新しい恋をしようって思ったのに」
「嫌なのか、その童貞男」
「好きだよ。じゃないとエッチしないし。でもさ童貞って、重くない?生涯君だけだって、すっごく縛られている感じがしてさ」
「そうだな」
節子を生涯の女性として決めて、初夜まで我慢しきっと、その後も節子だけを愛し続ける劉は、最高にカッコいいと思うが。
「会ってみたいな」
「えっ?彼に」
「ああ。歳も近いしさ」
「そうね。哲也に会ってもらって、恋愛の手ほどきをしてもらおうかな」
「そんな、偉くないし」
「そうかな『忘れさせ屋』として、ちゃんと傷ついた女達を救っているじゃない」
「そう……だな」

節子の大学で、研究員達のデータを収集し、ファイリングして新しい情報収集のネットワークを構築したりと、新しいアルバイトはやりがいのある内容だ。
改めてこうして色んな人たちに助けられて、自分が目指す方向に向かっていけることに、感謝する。
もうひとつ嬉しいことに、予定が合えばすぐに劉と会えることだ。
来年の春に中国に帰るまでの間、劉とはできるだけ会っておきたかった。
劉はだいたい決まった時間に学食に現れるから、その時間に学食に行くようにしている。

学食のいつもの席に劉を見つけ、缶コーヒーを持って前の席に座る。
食事を先に済ませたという劉に、缶コーヒーを勧めて
「節姉が一緒に中国に行くと聞いたけど、その前に日本で結婚式を挙げたらどうかな」
おせっかいといわれようが変態といわれようが、一日も早く劉と節子が結ばれて欲しいと思い、初夜を強引に設定する作戦を考えた。
劉は案外と素直に「そうですね。そうしましょう」
「そうなったら、劉はするよね」
「するって、何を」
「だからさ、その、男と女の儀式だよ」
「セックスですか」
劉のよく通る声が、学食に響く。
一瞬皆が俺たちの方を見る。
恥ずかしくなり「おい。そんなに大きな声で、いうなよ」
「心配しなくて、大丈夫です。お互い生涯の原点になるようにしますから」「いや、原点てさ。そんな堅く考えなくても、こう自然にさ」
「これからの人生、順風な時ばかりでなく、むしろ困難な課題に直面することが多いのです。その時にふたりで乗り越えて行くための、誓いの儀式ですから」
「セックスをそんな風に、考えたことなかったよ」
「本物の恋とは、快楽に溺れる自分を律することから始まります。心から自分を大切に、また相手を大切に思う気持ちがあれば、自然とそうなるものです」
やっぱり劉は、人間が深い。
何があっても、ブレないし動じない。

美和子の新しい彼氏の情報を聞いて、偶然にも先日再会した高校の同級生の佐藤と、同じ会社だとわかった。
佐藤は会社に来てくれるなら、少し時間が取れるといってくれ、佐藤の勤める会社に向かった。
官庁など大手企業が集まる街に、佐藤の会社はある。
受付を済ませると、商談室の個室に通され、佐藤を待った。
しばらくして、佐藤が入ってきた。
「待たせて、悪かったな」
「いや、忙しいところごめん」
ちょっとした世間話をして佐藤に尋ねた。
「南原和真って知ってるか。俺らより、ひとつ下だ」
佐藤は少し考えて「あ~いるよ。ちょっと彼は、有名人だもんな」
「有名人って」
「地方の確か北陸かな。その地域では、有名な薬メーカーの二代目だからさ。うちの会社には、これからの人脈作りで入社したようなもんだしな」
「御曹司か。どんな奴かな」
「どんなって。俺も歓迎会とか、大勢の飲み会で数回一緒になったくらいだけどな。とにかく真面目かな。っていうか、堅いって感じかな」
「真面目で、堅いね」
「合コンに一緒に行った奴がいっていたけど。やっぱり御曹司ってだけで、女子が群がるじゃないか。そういう中でも、軽くないっていうか。適当にかわいい子みつけて、お持ち帰りするじゃないか。そういうのもないそうだよ。携帯の番号も聞かないし、教えないってさ」
そんな真面目で堅い男が、なぜ美和子と。
ますます、その南原に会ってみたくなった。

佐藤にまた皆で飲もうと約束して、大学に戻った。
大学の図書館で勉強した。
大学院の試験まで、あと2ヶ月だ。
またふと空港で出会った、女の横顔が浮かんだ。
名前も知らない女。
何で泣いていたのだろうか。
恋人はいるのだろうか。
会いたい。
でもどうやって、会うっていうんだ。
『会いたい』って願いつづければ、必ずどこかで会えるって。
そんな気持ちでいっぱいになった。

実家に帰ったら、和雄が夕飯の支度を終えたところだった。
珠枝も美和子も、今日は遅くなるそうだからと、和雄と先に食事をすることにした。
今日の晩ご飯のメニューは、豚の角煮、中華野菜ときのこの炒めもの、わかめと干しえびのスープ。それに漬物だ。
和雄はどこでこんなに料理を覚えたんだろうか。
豚の角煮を食べるとトロッとしていて、肉汁が口の中に一杯に広がる。
「うまいよ。これ売れるよ」
「そうだろう。豚が臭いがするから、まず下処理が大事なんだ。なんども脂をおとして」
和雄の話が延々と続きそうだから、話題を変えた。
「ずっと黙っていたんだけど、親父の別れた女に美和子と会いに行ったんだ」
和雄は別に驚きもせず「そうか」
「あの女と別れて良かったよ」
和雄は神妙な顔で
「俺もこの先何年生きられるかわからない。今まで好き放題やってきて、これからの人生は、恩返しのつもりで生きて行こうって思ってな」
「恩返し?」
「ああ死ぬ時に懺悔(ざんげ)ばかりじゃ、いやだしな」
藤田から聞いた話をした。
和雄はしみじみと
「その通りだと思うよ。どんな人生だったか、死ぬ時に全て清算だしな」
「親父だってさ、まだまだこれからじゃないか。何かしたいこととかないのか。行きたい所とかさ」
「したいことは、お母さんの夢を叶えてあげたかったな。お母さん、コーヒー淹れるのうまいだろ。だから店を出したいっていわれた時、そうしてあげれば良かった。違う女に店を出させてな。本当にバカだったな」
「そうか。お母さんの夢か」
「行きたい所はな、北海道に桜を見に行きたいな」
「北海道に?」
「前にテレビで見たんだけどな、北海道のはずれにある、厚田っていう小さな村があってさ、ここは桜が絶対に咲かないといわれている極寒の地でな。そこにひとりの桜守りの男が、何年もかかってやっと桜を咲かせることができたんだ」
「さくらね」
「お母さんにプロポーズしたのは、きれいな満開のさくらの下でな。だから咲かないといわれた、いろいろと耐えて見事に咲いたさくらの下で、もう一度お母さんにプロポーズしたいんだ」
和雄がこんなにロマンティストだとは、これも大きな発見だ。
珠枝にもう一度、プロポーズしたいか。
それは今まで和雄が、珠枝にしてきたことへの、償いなのだろうと思った。

食事を終えた和雄が、一緒に風呂に入ろうという。
男ふたりで入るには小さすぎる風呂に、和雄と入った。
まだ俺が小さい時に住んでいた、アパートの風呂がよく壊れた。
その時、珠枝に銭湯に連れて行かれた。
美和子と一緒に女湯に入るのがイヤで、よくふくれていた。
たった一度だけ和雄が家に早く帰った時に、和雄に銭湯に連れて行けとせがんだ。
一度男湯に入ってみたかったのだ。
初めて和雄と一緒に入った男湯は、別世界だった。
こんなに沢山の、裸の男を見たことがなかったし、何よりペニスの大きさや形にこんなに違いがあることも衝撃だった。
まだ小さい自分が妙に恥ずかしく、手で自分のペニスを隠して和雄に隠れるように風呂に入った。
そんな気持ちを全くわかっていない和雄は、俺に激を飛ばし、自分の背中を流させ、両隣にいた男たちの背中も流させた。
その時和雄が憎らしく、もう二度と和雄と風呂に行かないと固く決意した。
その話しを和雄にしたら、大笑いをし
「そんなことがあったんだな。今ではお前も立派になったじゃないか」と俺のそれを見た。
「親父に似てな」
和雄はご機嫌で、背中を流してくれた。
俺も和雄の背中を流しながら、あの時あんなに大きく思った和雄の背中が2回りも小さく感じた。

美和子が約束通り、南原を紹介してくれることになった。
個室風の座敷がある、海鮮料理の専門店を美和子が予約した。
南原が魚が好きだという。
美和子もちゃんと相手の好みに合わせているのだ。
店に到着したら、先に南原と美和子が席についていた。
南原は丸刈りで、純朴そうな風貌だ。
今年大学を卒業したといってもいいくらい
、歳より更に若く見える。
だから美和子と並ぶと、すごく歳が離れていて、美和子がとても年上に見える。
恋人というよりは、会社のお局様と新入社員という間柄だろう。
美和子がお互いを紹介してくれる。
南原はとても緊張し、正座の足も崩さずにいる。
「そんな緊張しないでさ。俺は美和子の弟だし、歳も1つだけ上だし」
それでも南原は、姿勢を崩さない。
ビールが運ばれてきて、美和子が南原に注ごうとしたら制して
「お弟さんに先に、注いであげてください」
こんな所まで堅いというか、律儀というか。
食事が運ばれてきて食べ進むうちに、少しづつ南原も和んできて冗談をいうようようになった。
南原は堅いんじゃない。
凄く誠実で真摯なんだ。
人の話をしっかりと目を見て真剣に聞く。
投げかけた問いには、言葉を選びながら話しをする。
そして言葉遣いが丁寧だ。
これは俺が、美和子の弟だからじゃない。
南原自身が、そういう人間なのだ。
劉を思い出した。
そして南原にとても好感を抱いた。
南原がトイレに立った時に美和子が
「ねぇ。彼どう」
「いいよ。俺は大賛成。美和子にはもったいないくらいだと思うよ」
「そこまでいう」
南原が戻ってきて聞いた
「将来は、どうするの」
南原はゆっくり考えてから
「はい。父が商売をしていまして、父が築き上げた城を守り、地域の皆様、お世話になった方々、何よりも自分の家族が幸せになれるよう努力して行きます」
南原が家族といった時に、美和子に優しく、愛情に満ちた視線を投げかけた。
俺よりも若くて、ここまで男として懐が大きい男を知らない。
童貞であったことは、南原の人間としてのブレない信念の表れなのだ。
“本物の恋は、快楽に溺れる自分を律することから始まります”といった劉の言葉が蘇る。
南原と駅で別れて、帰りの電車の中で美和子に南原との馴初めを聞いた。
南原は美和子の勤める病院に出入りする、薬や医療器具を取り扱う営業マンだ。
顔はお互い知り合わせていたが、南原との距離を縮ませるある事件が起きた。
美和子の病院から発注した薬が、美和子の後輩にあたる女性社員のミスで違う物が搬入される。その薬は特殊なもので、すぐには手に入らない物だった。
しかも、その日の午後からの手術に使う物だった。南原はすぐに他の業者や病院に連絡をとり、薬を探し、ある病院から譲ってもらえることになった。
その病院までの往復5時間を南原の運転で、美和子は病院の代表としていくことになった。
南原には全く非がなく、病院側だけで対応するべき問題だが、南原は嫌な顔一つせず、ミスをしてしまった女性社員を誠実に励まし、自分が取りに行くことを申し出た。
本来ならそのミスをした女性社員が南原と同行するのだが、この時美和子はとっさに自分が行くと申し出た。
美和子は今思えば、南原に何か運命的なものを感じていたのかも知れないという。
その車の往復5時間で、美和子は南原に恋してしまったという。
俺も美和子の立場だったら、そうなるだろうと思う。
人はピンチになった時に、最もその人の本当の姿が明らかになる。
ここに本物とニセモノの違いが出ると思う。
美和子はその時のことをうっとりとしながら
「彼と車に乗っていてさ。このままずっと、こうしていたいな~って思ったの。なんともいえない心地よさっていうのかな。言葉で表現できないけどさ」
「わかるよ」
「自分でもびっくりしたんだけどさ。彼の子どもが産みたいって思ったのよね。だってまだ付き合ってもいないし、エッチもしてないのによ」
「女は子宮でものを考えるって、聞いたことがあるけど。そうなんじゃないの。この人とずっと一緒に人生を送りたいって思ったんでしょう」
「そうなんだよね。だからその後は美和子マジックで見事、ゲッチュー」
「いいじゃない。結婚したら」
「え~、いいのかな~」
「何だよ。あんなにいい人じゃないか。しつこいけど、美和子にはもったいないね」
「そんな~。でもさ結婚となるとさ、やっぱり慎重になるのよ。うちは両親がああだったじゃない。よく遺伝するっていうじゃない」
「遺伝ね。じゃあ南原君が浮気して、他に女作って出て行って、捨てられたらって思うのかよ。絶対ありえないし」
「そうだと思うよ。彼なら一生私を、大事に愛し続けてくれるって思うよ。でもさそれも、重いっていうかさ」
「何だよどっちなんだよ」
「だからさ。彼、真面目すぎるじゃない」
このまま美和子と話していても、らちがあかないと思い
「母さんに相談しろよ。母親のいうことに間違いないよ」
「もう~、哲也はマザコンだから」
「そうじゃなくてさ。とにかく母さんに、まずは紹介する。っていうか家に連れて来たら」
「え~、じゃあ、お父さんにも会わせるの」
「いいんじゃない。早かれ遅かれ結婚するなら、会わせるんだもんな」

家に帰ったらリビングでパジャマに着替えた、和雄が珠枝の肩を揉んでいた。
邪魔しちゃ悪い気がしたが、美和子がリビングに入っていく。
「お帰り。お父さんがね、肩揉んでくれるっていうから、甘えてるの」
和雄も照れながら
「これくらいしないと、罰が当るしな」
「お父さんとお母さんに、会ってもらいたい人がいるの」
そう美和子が切り出すと
「いつでもいいわよ」と珠枝が和雄にもういいわと制して。
和雄が、からかうように
「なんだ、これか」といって、親指を立てる。
「そう。結婚するかもしれないから」
「おめでとう」
「まだ決まったわけじゃ、ないからさ。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
シャワーを浴びて部屋に戻ったら、珍しく和雄が布団を敷いてくれていた。横になっていたから眠っているかと思ったら、和雄が話しかけてきた。
「なあ。美和子の結婚相手どんな奴だ」
「劉さんみたいに、誠実な人だよ」
「そうか。それは、良かった」
「やっぱり、気になるよな」
「まあな。俺がこんなだからな」
「親父は母さんが、最初の女だったの」
「初体験ってことか」
「ああ」
「どうだと思う」
「親父のことだから、違うのかな」
「そうだよ」
「えっ、マジで」
「お母さんが初めてだった」
「そうなんだ」
「なんでそんなこと聞くんだ」
「いや、実はさ」
南原のことを話して聞かせる。
「まだその彼に会ってないから、想像だけどな。その彼はきっと、一生美和子だけを愛し続けるさ」
「俺もそう思うよ」
和雄が天井を見つめながら
「俺は人間としても、中途半端。男としても、中途半端。結局自分に自信が無かったんだな。何かイヤなことがあれば、すぐに回りや人のせいにして、逃げてきた。そのつけが今回ってきているさ。この歳まで気がつかないのも、バカだが。バカはバカなりに、一生懸命やり直すさ」
「俺もそうだよ。今やり直しだよ」
「もう寝るぞ」
「ああ」
こうして和雄と話しができる。
本当はもっと色々と和雄と話がしたい。
そう思いながら、深い眠りに落ちた。

大学にアルバイトに行く時は、仕事に出勤する珠枝と一緒に駅まで歩いた。
「節姉から聞いたけど、大学での仕事、頼んでくれてありがとう」
「私はただお願いしただけよ。後は優秀な娘と息子がしっかり決めて」
「母さんの夢って何」
「そうねぇ。夢ね~。子ども達が、幸せな家庭を築いてくれることかな」
「俺たちのことは関係なく。もしも親父と母さんだけでさ、好きなことやってもいいよってなったら」
「そうね。そんなこと考えたことなかったしね」
「じゃあ、考えてよ」
「喫茶店、やりたいかな」
「やっぱり」
「え~」
「親父もそういってた」
「お父さんが?」
「母さんの夢を叶えてあげるのが、自分の夢だってさ」
「そう」
「そう。あと、……どうしようかな」
「何よ」
「北海道にさくらを見に行って、もう一度母さんにプロポーズしたいって」
「北海道のさくらね……見に行きたいわね」
「良かったね。親父が帰ってきて」
「そうね」
とても幸せそうな珠枝の横顔を盗見して、嬉しい気持ちになった。

大学に着いて、仕事をしているところに節子が来て、ランチを劉と三人で取ろうということになった。
学食ではなく、近所のレストランで待ち合わせることになった。

節子から指定されたレストランは昼時で混雑していたが、予め予約していたらしく窓際の一番良いい席に案内された。
すでに劉と節子が並んで座っている。
食事を注文してから、劉が切り出した。
「来月、結婚式をすることにしました」
節子も嬉しそうに微笑む。
「良かった!イヤ~この日を待っていたよ。なぁ、劉さん」
劉は少し照れながら
「正式にご両親にお話しに行きますが、一番最初に哲也に報告したくて」
節子も恥ずかしそうに
「私達の縁結びの神様ですから」
「俺が?そうか縁結びか~。なんか最近人の縁結びばっかりなんだけどな」
「大丈夫です。人にしたことは、いいことも、悪いことも全部自分にかえってきます。哲也が人を幸せにした分、いやそれ以上になって、自分も幸せになります」
「もう、劉さんにいわれると、その通りって思うよな」
節子が、弾んだ声で
「美和子も、決まりそうなんだって」
「誰から聞いたの」
「美和子からよ。うちに遊びに来て、さんざんのろけて帰って行ったわよ」
「美和子、みんなにいってんだ」
「すごくいい人そうじゃない」
「そうなんだよ。劉さんみたいに、誠実な人だよ。残るは俺か。澤田家、最後の大トリ、ビシッと決めさせてもらいますよ」
「勉強の方は、どうですか」と劉がワインを注いでくれる。
「なんとかぼちぼちやってますよ」
節子が優しく「いつでも応援するからね。哲也なら大丈夫よ」
哲也もワインを飲み干して
「ここで外したら、カッコ悪いもんな。こちらもビシッと決めますよ」
本当にまわりは、みんなそれぞれの道に進んでいる。
俺も自分の道を切り拓いて行かなくては。
でもここまで人のために何かをしてきたことって、今まで無かったしな。
いつも自分のことばかり考えていたし。
人の幸せを考えられるようになった俺も、少しは成長したのかな。

実家に南原が挨拶に来る日がきた。
この日は朝から、和雄が大変なテンションの高さで、早朝から叩き起こされた。
和雄が食事を作ることに専念するから、部屋の掃除を命じられる
珠枝は少し体調が悪いので、横になっているという。
休みの日に横になることが多い珠枝のことが気になり、和雄にそのことを伝えると、更年期だろうといわれた。
女性はそういうやっかいなことがあるのだ。
当の美和子はのんきなもんで、普段どうりに起きて美容院を予約しているといって、出かけてしまう。
結局和雄とふたりで準備することになった。
和雄にいわれた通りにひと通り掃除を済ませて、少し休憩をしてたら、美和子が南原を連れて帰ってきた。
南原は大きな花束と、大きなかごに入った果物の盛り合わせを手土産に持ってきた。
出迎えた和雄と珠枝に南原は丁寧に挨拶をして、全員でリビングで食事を囲んだ。
南原の好きな魚料理を中心に、和雄が今日が正月かと思うほどの豪華な懐石料理を振舞った。
南原も和雄の料理のうまさに、これ以上ないというほどの賛辞を送った。
料理もひと通り食べ終わったところで、珠枝が自慢のコーヒーを淹れた。
「このようなご両親に育てられた、美和子さんもお料理がお得意なんですよね」と南原が美和子を愛おしそうに見る。
俺は思わず美和子を見た。
和雄も珠枝さえも、何もいわずにいる。
場の空気が一瞬凍りつく。
美和子は作り笑いを浮かべたまま、何もいえないでいる。
美和子はあの部屋の片付けの一件からもわかるように、家事は全くできない。
美和子の作った料理なんぞは、食べたことはない。
珠枝が助け船を出した。
「申し訳ございません。私の至らないところで、この子には母親として、あまり教えてきませんでした。これから一生懸命努力してまいります」
美和子も開き直り
「大丈夫。私その気になったら、ちゃんとやるから」
調子良く和雄が「女は愛嬌。男は度胸っていいますしね」
皆がトンチンカンな返事をする。
ここはビシといわなくてはと
「南原さん。正直にいいますけど、美和子は料理や家事はあまり得意ではありません。ですが、あなたと結婚したら、必ずいい妻として最善を尽くす。美和子は、そういう女です」
南原は気にするでもなく
「私は今の美和子さんの全てが好きです。僕も至らないことが沢山あります。様々課題があっても、それはこれからお互いに協力し努力していきます」
こんなによくできた南原は、一体美和子のどこに惹かれたのか、率直に聞いてみた。
「南原さんは、美和子のどんなところに惹かれたのかな」
南原は穏やかに愛おしそうに美和子を見つめて「美和子さんとは仕事柄、頻繁に書類のやりとりをします。その書類にいつも、心温まる文面が添えてあるんです。それはほんの数行なんですが、季節を感じさせることもあれば、世事に関することもあります。ちょっと笑える話もあれば、心が奮い立つような励ましまでありました。実は僕コピーを取って、全て保存しています」
美和子が驚き「え~ヤダ~そうなの」
「はい。実際に仕事でお会いしても、誰に対しても平等に、回りの人達に細かい気遣いをし場を和ませる。人をここまで思いやり、励ませる美和子さんに、僕は強く惹かれました」
珠枝が南原を真っすぐに見つめて
「ありがとうございます。先程も申しましたが、美和子は気持ちは優しい子ですが、少々我がままで至らないことが沢山あります。ご苦労をおかけしますが、末永くよろしくお願いします」と珠枝と一緒に和雄も深く頭を下げる。
美和子もペコリと頭を下げる。
南原も姿勢を更に正し
「お父様、お母様、南原和真、生涯をかけて美和子さんを守り、幸せにしてまいります。お嬢さんと結婚させてください」と深く頭を下げる。
「南原さんどうぞ頭をあげてくだい。美和子から聞いているかと思いますが、私がダメな父親で美和子や家族に沢山の寂しい思いをさせてしまいました。その分人の気持ちがわかる娘です。どうぞお互いを大切にして、幸せな家庭を築いてください」
「はい。ありがとうございます」
美和子も、すっかり決心をしたように、晴れやかな表情で
「お父さん。バージンロード、約束だからね」
「ああ、任せとけ」と皆が笑顔になる。

南原が帰ると和雄はすっかり疲れ果て、片づけをしたら部屋に戻って寝てしまった。
珠枝は、リビングでゆっくりしている。
俺はシャワーを浴びて、南原を駅まで送って行き、帰ってきた美和子に缶ビールを渡し、一緒に飲む。
「今日は、ありがとう」と美和子が笑顔でいう。
「あの料理の話しの時、なんてフォローしようって焦ったよ」
「私もよ。これからお料理教室に通わなくちゃ」
珠枝が疲れた表情で
「美和子もステキな人と巡り会えて、本当に良かったわね」
美和子が珠枝の横に座り
「お母さん、ホントにそう思う」
「ええ。美和子にしてみたら、ちょっと物足りないって、思うかも知れないけどね。でもね長い人生だもの、刺激ばっかり求めても、ダメなのよね。南原さんは若いのに、あれだけ誠実で真剣に生きているわ。何があっても動じない、平らな人が女は安心して暮らせるのよ。それに女は自分が愛し過ぎてはダメなのよ。愛してもらった方がうまいくいくの」
「それって、お母さんの経験談」
「そう。お母さんがお父さんを愛しすぎちゃったのよね。やっぱり女は愛してもらって、丁度いいんじゃない」
珠枝の話に心から賛同して
「そうかもしれないな。いつまでも男が妻を愛し続ければ、浮気しないもんな。当り前のことだけどな」
珠枝は少し寂しそうに
「そうなのよね。でもね妻として愛され続けてもらえるよう、いつも努力していかなければね。家事は勿論だけど、女として自分を磨くことを忘れないでね」
「さすがお母さんね。妙に納得できるわ」
「でも私の場合、失敗しちゃったけどね」
珠枝は何も悪くはない。
こんなに一人の女性としても、母親としても素敵な珠枝を悲しませた和雄に無性に腹が立つ。
「でもまたこうして元に戻った。これはスゴイじゃないか」と俺は珠枝にいう。
珠枝が俺と美和子を交互に見て「それはあなた達のおかげよ」
おれはおどけて「子は鎹(かすがい)ですか」
「そうね。うちはその通りね。あなた達がいなかったら、きっとお母さん達はダメだったと思うわ」
珠枝に聞いてみた「でもさ、子どもがいなくって、セックスが無くなって。男と女がそれでも、一緒にいられる絆って何だろう」
珠枝は、すこし考えて「そうね。お母さんもよく分からないけど、同じ志を持つことかしら」
美和子が珠枝を見て「同じ志って?」「同じ夢を持つっていったらいいかしらね。なんでもいいから、お互いが実現したいことに一緒に向かえば、いいんじゃないかしら。子育てもこの子ども達を立派にしようって、お互い思うじゃない。それとお同じ、じゃないかしらね」
「じゃあ、母さんたちもこれから、親父と喫茶店を出すって夢に向かって行ってよ」
美和子が驚き「え?何それ」
珠枝が恥ずかしそうに「お母さんの、結婚前の夢だったの」
「お母さんたちは、俺達を一生懸命に育ててくれた。そして今もこうして俺達のために、何でもしてくれてる。だから今度は俺達が、その恩返しをする番だよ」
「そうだね」美和子も少し神妙な顔をする。
「ありがとう。お母さんはもう充分幸せよ」
「いや。もっと、もっとさ、もういいよってくらい、幸せになってよ」
必ず珠枝の夢を実現させてみせると誓った。

節子と劉の結婚式が、ふたりの希望で大学の講堂で、学長が立会いの人前式で行われた。
俺と和雄はスーツで、珠枝は着物姿で、美和子は明るめのワンピースで式に参加した。
学生をはじめ、教職員、そして、劉の人脈で広い講堂が人で一杯になった。節子はあでやかな振袖姿、劉は中国の民族衣装で現れ、場内は割れんばかりの拍手に包まれた。
学長の挨拶の後、まず節子が挨拶をし、続いて劉が挨拶をした。
「今日はこうして皆様の前で人生の晴れやかな出発をすることができ、衷心より御礼申し上げると共に、感謝申し上げます。ここで皆様に誓ったことを我が同志である、妻の節子と共に生涯、精進してまいります。ここで中国の有名な物語の三国志の中から、誓願の誓いをこめた歌を皆様に披露し、私達の誓いとさせて頂きます」
劉の力強くてよく澄んだ声が響きわたる。
さすが劉だ。
完璧だよ。どこまでも劉と節子らしい、すがすがしい結婚式だ。

その日の夕方から都内有数のホテルで、劉と節子の結婚披露パーティが行われた。
和雄はモーニング姿で、珠枝は黒の留袖、美和子は成人式の時に仕立てた振袖を着た。
俺も新調したスーツに着替えた。
会場はホテルの一番大きなホールを借り切って、会費制の立食スタイルで行われる。
これには劉の人脈の凄さを見せつけられた。
中国の大使、政治家、財界人と来賓の受付だけでもすごいVIPだ。
その他の人たちも合わせて招待客は500人だ。
美和子が親族代表で受付に居るが、とても緊張している。
美和子に「ちょっと、たばこ吸ってくるわ」といい、正面玄関まで出た。

外は日が暮れかかっているが、真っ黒な雨雲が出てきて今にも雨が降りそうな気配だ。
たばこを吸い終わり会場に戻ろうと思った瞬間、大きな雷の音と同時に、激しい雨が降ってきた。
その雨の中を走って来る1人の女性。
やっとの思いでホテルの玄関に到着した女性は、濡れた髪や洋服をハンカチで拭っている。
また雷が響いた。
俺はまるで雷に打たれたように、そのままそこから動けなくなった。
目の前にいるのは、空港で出会った女性だ。
ずっと会いたいと願った女性が、今俺の目の前にいる。


第11一章『運命の人』

まるで雷に打たれたように、その場に立ち尽くした。
女性はそんな俺にちらっと視線を向け、少し恥ずかしそうに微笑んで、急いでホテルに入って行った。
思考は完全にとまって、ただ女性を呆然と見送った。
しばらくして、激しい雨の音で我に返った。
そうだ結婚式に戻らなくてはならない。
あんなに会いたかった女性が、今こんなにも近くにいる。
今すぐに探したい衝動を必死で抑えて、披露宴会場に戻った。
美和子が受付で待っていた。
「ちょっと、遅いよ。もうはじまるよ」
もう女性のことで頭が一杯だった。
美和子に連れられ会場に入った。
会場の中は、正装した男女で賑わっている。
司会者の案内で、ウエディングドレス姿の節子とタキシード姿の劉が入場してきた。
場内は割れんばかりの拍手に包まれた。
節子はまるでヨーロッパの絵画から飛び出してきたような気品に満ち溢れ、姉ながら本当に美しい。
劉も映画スターのように堂々として、皆に笑顔で応えている。間違いなく今日は、このふたりが世界一のカップルだろう。
場内からも賛辞の声が、聞こえてくる。
ふたりを見ながらも、頭はあの女性のことばかり考えている。
式はどんどん進み、ひと通りの来賓の挨拶が終わり、乾杯の準備となった。少し場内がざわついた時に、後ろの扉が静かに開いた。
ほとんどの人は気がつかなかっただろうし、別に気にもとめなかったと思う。
だが俺は、開いた扉の方を見た。
心臓の鼓動が急に早くなった。
扉をゆっくりと開けて、そっとあの女性が入ってきたのだ。
どこかで着替えたのだろう、黒の控えめなフォーマルなワンピース姿で、長い黒髪をきちんとキレイにアップにしている。
乾杯の準備がそれぞれに整い、会場の皆がグラスを持ち上げる。
来賓の音頭で、一斉にグラスが持ち上がる。
その間もあの女性を、ずっと目で追っていた。
控えめなその仕草だか、芯の強そうな意思を感じた。
今すぐにでも女性のそばに行って話したい。
しかし女性との間には、あまりにも距離があった。
乾杯が終わって、また来賓の話が始まった。何しろこれだけのVIPが集まっているのだ、話させない訳にはいかない。
話なんか全く聞こえてこない。
だたひたすら、あの女性を見ていた。
そんな俺の様子に気づいた美和子が「さっきから別の方ばかり見てるけど、誰かいい女でもいた」
思わず美和子の顔を見た。
美和子も冗談のつもりでいったのに、俺の顔にビンゴ!と書いてあったのか「後で教えてね」といい来賓の方を向く。
今この場にいるということは、節子か劉の知り合いってことだ。
節子の教え子か。その可能性は高い。
まず節子に聞いてみようと思い、心を落ち着かせた。
式はやっと宴席になった。
立食スタイルなので、皆が思い思いに食べたり飲んだりしている。
節子と劉の所には、ひっきりなしに人が挨拶に来て、とても話しかけられる状態じゃない。
もう我慢できない。
あの女性のところに1人で行った。
女性も知り合いがいないのか、1人でジュースを飲んでいる。
近づくと一瞬警戒したが、節子の弟だと自己紹介をしたら、柔和な笑顔になった。
立花葵という女性は、意外にも劉の知り合いだった。
近くで見ると、切れ長ではっきりした二重瞼。形のいい鼻。小さくふっくらとした唇。
どれをとっても俺好みだ。
そしてもっとも、強く惹かれたのは声だ。
葵の声は完璧に美しかった。
言葉のイントネーションや話すテンポ。
もうどれをとっても最高に俺好み。
この瞬間に立花葵に完璧に恋をした。
一体葵が劉とどんなつながりか知りたかったが、初対面でしかもこのような席で、さすがに聞けず「先ほど玄関でお会いしましたよね。雨すごかったですね」
「ええ。遅刻しそうだったので、慌ててしまいました。でも結局遅れてしまいましたけど」
「実は前に一度、あなたをお見かけしているいるんですよ」
葵はとても驚いて「えっ、どこで」
「空港で。出発の飛行機を見送っていたのかな」
葵が凍りついたような険しい表情になった。
しまった。地雷を踏んでしまったようだ。
葵はそれっきり、黙ってしまった。
あの葵の涙を思い出した。
ずっと葵のそばに居るのもと思い、美和子のところに戻った。
美和子が待ってましたとばかりに「あのキレイな彼女、知り合い?」
簡単に葵との出会いを話した。
美和子が興奮して「ちょっとそれって、すごくない。ここで再会するなんて。哲也の運命の人なんじゃないの」
運命の人。
そうだ。あんなに会いたいと心の底から願った人だ。
葵は間違いなく俺の運命の人だ。
劉の所に行き、葵のことを話した。運命の人とはいわずにだが。
「そうですか。彼女来てくれましたか」といって一緒に葵のところに行ってくれた。
劉に会い葵はほっとしたように笑顔になった。
劉も葵の肩を抱きしめ「よく来てくれましたね。お元気でしたか」
「劉さんもステキな奥様を見つけられて。おめでとうございます」
そして劉は信じられないことをいった。
「彼女は葵さんは、僕の親友の婚約者です」
その時自分の耳を疑った。
劉は親友の婚約者といったよな。
その場に倒れそうになった。
まさに天国と地獄だ。
一瞬にして恋に落ちて、一瞬にして失恋した。
よりによって劉の親友の婚約者じゃ、俺の出番はない。
もうどうにでもなれって思い、酒をがぶ飲みした。
美和子が異変に気付き「ちょっと、飲みすぎよ」
「ほっといてくれよ」
「どうしたの。何かあったの」
劉から聞いた話しをした。
「そう、それはショックというか、立ち直れないわね。荒れる気持ちはわかるわ」
もう節子の結婚パーティどころじゃない。この場から、一刻も早く立ち去りたかった。
式次第はケーキカットに続き、劉たち中国からの留学生たちのパフォーマンスになった。
中国のドラの太鼓のけたたまし音が響き渡り、民族衣装を着た数人が勢いよく飛び出してきた。
劉も民族衣装を羽織り仲間に加わる。
軽快な中国音楽のリズムに合わせて、武術の技を入れながら決めていく。
劉は本当に芸能人だ。歌もうまいいし、武術もできる。
続いて節子が、女性20人ほどのコーラス隊と一緒に登場した。
合唱をするようだ。
歌う前に節子が「今日このような晴れやかな日を迎えられ、皆様に御礼と感謝を申し上げます。また大切に育ててくれた両親に感謝の思いをこめて、私の大好きな“母”の曲を歌います」
バックコーラスのアカペラの伴奏の後、静かに節子が歌いはじめる。
はじめて節子の歌を聞いたが、驚くほどうまいい。
節子の歌を聞いて、和雄、珠枝、美和子、俺も泣いた。
会場内の沢山の人々が泣いた。
葵も泣いていた。
続いて劉と節子が、会場中央に出てきた。
会場内がシーンと静まりかえる。
劉と節子が向かい合い手を取り合う。
静かにワルツの曲が流れ出し、劉のリードで節子も踊りだす。
節子のウエディングドレスが、フワッと宙に舞う。
場内から、ため息が聞こえてくる。
劉と節子は、いつの間にダンスを練習したのか。
完璧に呼吸が合った踊りだ。
ふたりの踊りが終り、場内から割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
司会者が『どうぞ会場の皆様もご一緒に踊ってください』と促す。
劉と節子が知り合いの友人たちを誘って、数組のカップルが音楽に合わせて踊り出す。
少しずつ参加者が増えていく。
俺は葵の元に行き
「一緒に踊ってもらえませんか」
葵は俺の目を真直ぐに見つめて「はい」
これで葵とはお別れだ。
俺の運命の女性と、最初で最後のデートだ。
しっかりと心に刻もう。
葵の手を取り腰に手を回し、細いが柔らかい体をぐっと支える。
和子に教わった通りに、ゆっくりとステップを踏み出す。
驚いたことに、葵は踊りがうまい。
完全に葵にリードされている。
動く度に葵から漂う柑橘系の香りと、耳元で揺れるパールのピアス。
晴れやかに輝く葵の笑顔。
どれもみんな好きだ。
心の中で大声で叫んだ。
お願いだ。このまま時間よ、とまってくれ!
葵を見つめて、声にならない声でつぶやいた。
“生涯君を忘れないよ”
感動的な劉と節子の結婚披露パーティが終わった。
劉と節子は同じホテルの最上階にあるスイートルームを予約している。どこまでも劉はカッコイイのだろう。
頭の中は葵のことが気になって仕方がなかったが、どうあがいたって仕方がない。

劉と節子を見送り、飲みに行く?との、美和子の誘いを断り、一人で街を歩いた。
大学時代に遊び歩いたなじみの街は、週末とあって賑わっている。
やっぱり葵のことが頭から離れない。
会いたいと願った通りに、今日出会えた。
それだけでも奇跡だ。
葵と踊った時の体の感触が蘇る。
もう二度と会えない葵を、運命の人として生涯忘れないだろう。
そう一人でぼんやりと考えながら、昔よく通ったショットバーに入った。
店内は異国人ばかりで賑わっている。
馴染みの黒人のバーテンが懐かしい笑顔で迎えてくれた。
ズブロッカのショットを頼んで、一気に飲み干した。
喉の奥がヒリヒリと痛んだ。
黒人のバーテンにもう一杯頼む。
今夜は酔いそうにないな。
昨晩は全く酔えずに何軒かバーーをはしごして朝を迎えた。
葵にもう一度会えた嬉しさと、一転して叶わぬ切ない思い。
何度考えても、どうすることもできないやるせなさに、やり場のない怒りに似た気持ちのまま実家に戻った。
実家ではいつものように、和雄が迎えてくれた。
美和子、珠枝は、仕事が休みで、まだ寝ているらしい。
シャワーを浴びて、和雄に寝るといい深い眠りに落ちた。
携帯の着信音で目が覚めた。
劉からだ。
何度か連絡を入れてくれていたらしい。
劉は話があるから、自分の家に来て欲しいという。
昨日の疲れもあるだろうからと断ったが、劉は譲らない。
大学から近い劉の住む、ワンルームマンションに来た。
劉の部屋は、ほとんど物がない。
いつでも、すぐにどこへでも行けるように準備しているのか、大きなトランクが3つもあった。
劉は昨日の疲れも全く見せずいつもの穏やかな笑みを浮かべて、香りのいい中国茶を淹れてくれた。
酒を飲みすぎた胃袋を優しく癒してくれる。
劉は昨日の一連の行事への感謝をいい「昨夜は私と節子さんにとって、生涯忘れない、原点の日となりました。哲也には本当に感謝します」
「全てうまいくいったんだね」
「はい。すべてです」
もうそれ以上突っ込むのは野暮だと思い、劉の言葉を待った。
「哲也に話しておきたいことは、昨日ご紹介した立花葵さんのことです」
劉をこれから戦う敵のように、真っすぐに見つめた。
劉は懐かしそうに、昔を思い出すように話しはじめた。
「葵さんと出会ったのは、今から7年前でした。私はアメリカの大学院に留学していて、そこで一人の日本人留学生と出会いました。彼、松本鉄也(まつもと てつや)とはすぐに意気投合し、私達は毎日一緒に勉強する親友になりました」
劉の親友という“まつもと てつや”という名前を頭の中で変換し「まつもと てつやさん?」
「そうです。哲也と漢字は違いますが、同じてつやです。私は彼のことを『まつ』と呼んでいたので、下の名前がてつやだとは、すぐに気がつきませんでした」
「てつやね」
「葵さんはまつとは幼馴染で、ずっとお付き合いしていたようです。年に何度かまつの所に、遊びに来ていました。私も紹介されました。まつは葵さんが来ていても、私と普段通りに付き合ってくれるので、葵さんに悪いと思い、何度もふたりでデートするようにといいました」
「そうだよな」
「しかしまつも葵さんも、そんな必要はない。夜はふたりっきりだから、昼間は楽しく一緒に過ごそうといって聞きません。私も最初は遠慮しましたが、まつや葵さんが心からそうしたいと望んでくれているとわかり一緒に過ごしました」
「それで」
「葵さんはまつにふさわしいステキな女性です。ふたりを見ていると、こんなにお互いを信頼し、尊敬しあい深く愛し合っているカップルは、見たことがないと思いました。本当に理想的なカップルでした」
劉の最後の言葉が気になった。
「まつは死んだのです」
自分でもビックリするくらい大声で「死んだ!?死んだって、どうして?」「まつが日本に帰るのに乗った飛行機が、事故にあってしまい。まつは帰らぬ人となりました」
謎が解けた。
空港で初めて会った時、葵が泣いていたのを。
ここまで話しを聞いて、今度は俺が劉に葵のことを全部話した。
俺の今の気持ちも全部。
「昨日哲也が葵さんと踊っている姿を見て、私は哲也に依頼をしたいと思いました」
「依頼って」
「『忘れさせ屋』」です。
自分がそんなことを、やっていたことをすっかり忘れていた。
「私が日本に来てから、何度か葵さんから相談を受けました。葵さんはまつが死んだのは、自分のせいだと」
「だって事故だったんじゃ」
「はい、事故です。でもまつが日本に帰ろうとさせたのは、葵さんがついた“ウソが原因だったのです」
「ウソって?」
「クリスマスには、日本で一緒に過ごすと約束していたマツは、大学の単位取得のためどうしても、日本に帰れなくなったのです。その頃葵さんのお母さまが病気で入院中で、自分もアメリカに行けない。そこで葵さんは、まつにウソをついたのです」
劉はじっと俺を見てゆっくりと「『他に好きな人ができたから、別れましょう』って」
葵の凍りついた顔が浮かんだ。
「まつは葵さんの、そんなありえないウソによって、帰国する予定ではない飛行機に乗ったのです」
空港で見た葵の泣いてる姿が蘇る。
「そうだったのか」
「まつが死んで5年になりますが、葵さんはずっと自分を責め続けています。だいぶ回復しましたが、一時は入院するほど心を病んでしまいました。今は仕事もはじめたようなので、少し安心しました」
葵の気持ちを考えると、胸が張り裂けそうになった。
「それキツイよな。俺なんかが、彼女のその苦しみを“忘れさせる”なんてできないよ」
劉はきっぱりと「できます。哲也ならできます。だからこうして、お願いしているのです」
頭の中がぐちゃぐちゃになった。
俺が葵を救う。
そうしてやりたい。
今すぐに行って、全部キレイに忘れさせたい。
でも何の特別の技術も、能力もないただの普通の人間の俺に、一体何ができるっていうんだよ。
劉の話を聞いて途方に暮れた。
いくら劉にいわれたからって、簡単に引き受けられない。
劉が意外なことをいった。
「哲也が今のまま、全力で葵さんを愛してあげてください」
「えっ」
「何があっても哲也は揺るがずに、ただ葵さんを受け入れてください。そうすればきっと葵さんは立直ります」
劉にいわれた言葉を、何度も頭の中で繰り返した。
何があっても、葵を愛し続ける。
葵は俺の運命の人だ。
そうだ決めたぞ。
生涯を通して葵を愛し続ける。
俺はそう決めた。
「わかったよ。結果はわからないけど、俺は葵さんを全力で愛すよ。チャンスをくれてありがとう」
実家に帰ったら、和雄、珠枝、美和子と揃ってリビングでくつろいでいた。和雄が今食事が終わった所だという。
葵との出会いの全てや劉から聞いたことを話した。
これから全力で葵を愛する。
そのことを家族のみんなにも、理解して欲しかった。
葵とのすべての成り行きを知っている、美和子が嬉しそうに
「葵さん。魅力的な人だもんね。哲也が惚れるのわかるよ」
「でも気の毒ね。恋人がそんな死にかたをしたなんて」と珠枝がやんわりという。
調子よく和雄が「哲也なら、彼女を立ち直らせることができるさ。だって俺の息子だもんな」
美和子が、とがめるように「お父さんたら、そういう時ばっかり。ホント調子いいんだから」
「お母さんも何かできることが、あれば協力するわよ」
美和子も手を挙げて「は~い。私も」
和雄が真顔で「とにかく会わせろ」
みんなの励ましが嬉しかった。「ああ。是非、みんなに会ってもらうよ。っていうかまだ彼女と何も、はじまっていないけどさ」とできるだけ明るい調子で返した。

劉に教えてもらった、葵の職場に行った。
若者が集まる街に最近オープンしたレジャー施設の中にある、プラネタリウムの解説員が葵の仕事らしい。
受付で次回の解説員は葵であることを確認して、チケットを買って中に入った。
葵にもう一度会えると思っただけで、胸が高鳴った。
プラネタリウムに来たのは、何年ぶりだろう。
仕事をはじめてからは、ほとんど来ていないが俺は天文好きの子どもだった。
お小遣いを貯めて初めて買ったのも、小さな望遠鏡だ。
将来は宇宙飛行士になりたいなんて、思ったこともあった。
夏休みの自由研究には、必ず星の観察をした。
中学2年の夏休みに好きな女の子と、初めてプラネタリウムでデートした。室内が真っ暗になった時から、ずっとドキドキして、そっと彼女の手を握った。
解説や星の動きなんか、全く頭に入らなかった。
ただ隣に座っている、女の子がどんな顔をしているかが気になって仕方がなかった。
そっと女の子の顔をみたら、その子も俺を見た。
暗い中見つめあって、当然というキスをした。
その後、その女の子とはすぐに別れた。
その女の子の顔も、あまりよく覚えていない。
ただあの柔らかい唇の感触だけは、今でもはっきりと覚えている。
プラネタリウムの部屋に入り、席に着くと室内が暗くなった。
場内に聞き覚えのある、葵のよく澄んだ声が響きわたる。
好きなアーティストのコンサートが始まる前のような高揚感を覚えた。
静かで耳障りのいい、高すぎず低すぎない葵の声が
「本日はようこそおいでくださいました。これから約一時間、私と共に時空を越えた、遥かなる宇宙への旅をご一緒に楽しみましょう。今日のテーマは月です。さてみなさん。お月様って、どんな味だと思いますか。食べたことがある方いらっしゃいますか。実は私はあるんです。以前アメリカの宇宙ステーションNASAに見学に行きました。その時人類が、初めて月面着陸に成功したアポロ11号が、持ち帰った石が展示してありました。勿論ガラスケースに入っているので、触ることもできません。そこで私は、スタッフの方にお願いしました。はじめは取り合ってくれませんでしたが、毎日通いとうとうケースから石を出して見せてくれました。この石をなめてもいいかと尋ねました。そこはアメリカです。なんとオッケーがでたのです。そっと石を舐めました。正直すっごく、まずかったです」
場内にどっと笑いが起きた。
俺も思わず笑った。
葵の声がまた響く。
「お月様の味は、高貴で穏やかな月光と同じように、私を遥かなる宇宙の神秘に連れて行ってくれました。そんな月の神秘を様々ご紹介します」
ぐっと引き込まれた。
多分この導入の原稿は、葵自身が考えたのだろう。
ますます葵に惹かれた。
約1時間の上映が終わった。
導入通り葵の解説は、解りやすいのは勿論だが、まるで本当に宇宙を自由に飛び回るような錯覚を覚えた。
ロビーに出て、葵の出てくるのを待った。
職員の制服姿の葵が出てきた。
長い髪をキレイに編みこみにして、清楚な印象だ。
先程の饒舌(じょうぜつ)な解説が、この葵であることにとても違和感を覚えた。
「すごいギャップだな」と思わず声に出して葵に話しかけた。
「こんにちは」
葵は一瞬わからなかったようだが、思い出したようで、すぐに笑顔になり「どうしてこちらに」
正直に劉に教えてもらったと答えた。
「どうしても、もう一度あなたに会いたくて」自分でもごく自然にいった。葵は一瞬困ったような顔をしたが、すぐに笑顔で「先程の、上映をご覧になったんですか」
「はい。お月様の話し、最高でした」
葵は恥ずかしそうに笑って「そうですか。楽しんで頂いて嬉しいです」
「あの良かったら、お茶でも飲みませんか」
葵は時計を見て「これから明日の原稿の打ち合わせをして、ごめんさい。あと3時間は帰れません」
ずっと葵に会いたかったんだ、3時間なんてどうってことはない。
「待ちます。御迷惑でなかったら」
葵は少し考えて「じゃあ、2階にあるカフェで、待って頂いてもいいですか」
「はい。いつまででも、待ちます」
葵を待つ3時間、同じビルにある映画館で映画を見た。
外国のコメディ映画で、腹をかかえて笑った。
デートの時に選ぶのがいいのが、コメディ映画だと聞いたことがある。
女性の好みに合わせて、ラブストーリーを選んでしまうと、映画と実際の自分のパートナーとのギャップで、白けてしまい見終わった後喧嘩になっり、別れるはめになったりするそうだ。
昔デートにホラー映画を選んだら、途中で女の子が気分が悪くなり、何もしないで帰ったこともあったな。デートのプログラムも男の腕の見せ所だなと思う。
映画を見終わって、少し本屋で心理学の本を立ち読みした。
精神科医の話しで『いい知れぬ悲しみや苦しみを体験した人が生きていくためには語りなおすという心の作業が必要だ』とあった。
葵が過去をすべて語りきるまで、じっと耳をかたむけよう。
そう思って、待ち合わせのカフェへと急いだ。
待ち合わせのカフェにまだ、葵は来ていなかった。
眺めのいい窓際の席に座って、夕暮れ時の窓の外をぼんやりと眺めた。
どこからこんなに人がやって来るのかと思うほど、街は人で溢れかえっている。
みんなそれぞれが、恋して別れを繰り返していくんだな。
この中で生涯一人の人と、添い遂げる人が何人いるのか。
別れて『もう、恋なんかしない』と思っても、また恋が始まる。
恋愛中毒なんて言葉が流行ったけどその通りだ。
本物の恋。
運命の人。
俺にとって葵は、生涯添い遂げる人になるのだろか。
でもそれは俺次第なのかもしれない。
天国と地獄。
まさに葵と運命の再会をしてから、ジェットコースターに乗っているみたいに上がったり下がったりだ。
こんなにも人の気持ちを瞬間に天国に連れて行ったり、地獄に落としたり。恋ってやつは、やっかいなものだ。
本物の恋をしたいなら、本物の自分をつくる。
劉にいわれた、言葉が理解できる。
恋という時には相手を死まで導いてしまう魔力に、自分が振り回されてはいけない。これから俺と葵が通るであろう恋の試練に、必ず打ち勝ってみせると誓った。

創作大賞「もう、忘れていいよ」(6)へ続く


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