太平洋戦争で日本が望んだ決戦と戦争終結
太平洋戦争開戦後、日本が優位の戦局で何処まで戦おうとしていたのか
主導権を持っていた日本が戦争終結へ向けての決戦をどこに求めていたのでしょうか?
開戦時の戦略
1941年(昭和16年)12月8日に開戦した太平洋戦争、日本軍は真珠湾攻撃でン米太平洋艦隊に打撃を与え、東南アジアの米英蘭の領土を次々に攻略した。
太平洋戦争最初の戦略目標である、東南アジアの資源地帯攻略と米太平洋艦隊への打撃は成功した。
アメリカの石油禁輸をはじめ天然資源の輸入が出来なくなっていた日本はインドネシアやボルネオなどの資源が採掘できる地域を確保できた事で当面の目標は果たせた。
問題はここからどうするか?
太平洋戦争を開戦する前の11月15日に、大本営政府連絡会議で「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」が国策として認められた。
この「戦争終末促進案」は「東南アジアの資源地帯を確保して、米艦隊を撃滅する」がまず書かれ開戦から半年で一応は達成されている。
次に書かれたのはオーストラリアやインドと米英の連絡を絶ち、インドとビルマの独立を刺激するとある。
このオーストラリアやインドとの連絡を絶つと言うのは、オーストラリアを孤立化させて戦争からの脱落を狙う。
イギリス最大の植民地であるインドを失うと、イギリスに圧力をかける狙いがあった。
「戦争終末促進案」はこれ以外ではヨーロッパ戦線でのドイツとイタリアの攻勢による優位が続き、情勢の好機を捉えてローマ法王や南米諸国・スウェーデンなどを介して戦争終結に向かうとしている。
日本はこのように、太平洋戦争についての計画を作っていました。
開戦後の戦略構想
攻略すべき地域である南方の資源地帯は確保できた。
ここからオーストラリアとインドの交通遮断を行う段階に入る。実際に海軍はソロモン諸島やニューカレドニアを攻略するFS作戦を実行に移す。
陸軍はビルマ攻略も南方攻略作戦と同時期に実行し、インドの間近へ迫った。
これら実際の陸海軍の動きが戦争終結への大きな影響力を米英に与えているとは言い難かった。
連合艦隊司令長官である山本五十六大将は、真珠湾攻撃の直後にインド洋のイギリスの拠点であるセイロン島と米太平洋艦隊の拠点ハワイの攻略の研究を連合艦隊司令部で始めている。
陸軍参謀本部の第一部長である田中新一中将はシベリア攻勢・重慶作戦・インド攻略などを考えていた。
ここで言うシベリア攻勢は対ソ戦を意味する。
連合艦隊参謀長宇垣纏少将は自身の日記である「戦藻録」の1942年(昭和17年)1月5日に書かれた中でも「ソ連の出様に備えて好機之を打倒するか」とある。
日本の陸海軍では、開戦から1カ月はチャンスがあればソ連との戦いにも手を出す欲があったようだ。
未発の決戦と時間切れ
陸軍としては決着をつけたい存在があった。
それが蒋介石の中国国民党政府だった。
陸軍兵力の多くをこの中国戦線に引っ張られている陸軍としては、蒋介石政権が日本に降伏又は休戦を申し込むなどしてから、中国戦線を整理したいとは考えていた。
「戦争終末促進案」で定めた戦争終結の機会として、蒋介石政権の屈服を挙げている事もあり、太平洋戦争においても中国戦線の重要さはあったのだ。
陸軍は重慶攻略作戦もとい、四川作戦を準備する。
四川作戦は蒋介石との最終決戦とあって、30個師団以上も投入する大作戦になった。
作戦決行は1942年(昭和17年)9月と決まる。
だが、8月に米軍がガダルカナル島に上陸する反攻に出始めた。
陸軍はソロモン諸島とニューギニアへ兵力を振り向けなければならなくなり、四川作戦は実行されずに終わった。
海軍はミッドウェー海戦で空母4隻を失い、ガダルカナル攻防戦に引きずり込まれ、日本海軍が打って出る主導権は無くなった。
日本が頼みとしたドイツとイタリアの優位も、独ソ戦でドイツ軍がモスクワ攻略に失敗した事と北アフリカ戦線での敗退から崩れた。
1942年(昭和17年)8月で米軍が反撃に転じた事で、日本が望む形の戦争終結はできなくなっていたのです。
<参考文献>
・歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争②開戦と快進撃 Gakken
・歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争⑤消耗戦 Gakken
・「太平洋の巨鷲」山本五十六 大木毅著 角川新書