見出し画像

写真嫌いの屁理屈

―――先日の飲み会での話である。———

友人H 「写真撮ろー」
主  (映らないようにそーっと移動)
友人Y 「そこ入んで」
主    「じゃあ、撮影係やるわ」
友人H 「ごめんこれBeReal」
主    「じゃあ、今のうちにトイレ行ってくる」
友人T    「待って、手だけ、手だけ」
    ―――― 撮影後 ————
友人H 「(LINEの)アルバム用に合成するわ
      誰か(主の)写真頂戴」
主  (まじかー)
友人Y 「中学時の卒アルの写真もってる
     多分一番最新やで」
主  (何でもってんねん)
友人H 「ありがとう、こんな感じ?」
友人T 「最高」
友人H 「やろ、センスのかたまり
      ほら」
主   「集合写真欠席した人やん」
友人  「wwwww」



写真嫌いならこういう経験をお持ちの方も少なくないのではないだろうか。

幸い、この飲み会は、付き合いの長いメンツとだったので、私の写真嫌いに皆ある程度理解があるし、扱いにも慣れている。ことあるごとに私を写真に入れようとするが、それはちゃんと断ることができる関係であることが前提で、全身映ることまでは強要しない。
いい友人をもった。理解のある友人でよかった。
それについては感謝しかない。

なぜ写真が苦手なのか。苦手になったのか、といった方が正しいだろう。
少なくとも中学生の途中までは普通に写真に写っているし、小学校の卒業式の写真は大量にある。

気づいてしまった、というのが一番近い気がする。
カメラを向けられたときに楽しくもないのに作り物の笑顔を振りまいている自分に。

その時の感情のままの表情で写真を撮ってもらっていたら、今でもなんてことなく写真に写っていたかもしれない。
突然、「なんかおかしくないか」という天の声が聞こえてくることもなかったのかもしれない。
写真を撮るからカメラをみること、に違和感を覚えることもなかったかもしれない。

写真を撮るときはいつも「笑って」と言われてきた。「ハイ、チーズ!」や「1+1は? 2!」といった掛け声はどれも笑顔を作るためのものだ。
その時の感情ではなく、楽しさ、うれしさなどプラスの感情を表わす笑顔だけを写真におさめようとすることについて、考えれば考えるほどわからなくなってきた。しだいに、写真に写った自分に気持ち悪ささえ感じるようになった。

勿論、それなら無理に笑うのをやめようという発想にも至った。
でも、「笑って」といわれる。
カメラの前ではいい表情をするものだという染みついた習慣もある。
中途半端な表情になり、「撮り直し」で余計に時間を使ってしまう。
なんかもういろいろ面倒になり、写真を避けようになった。

道端で吐瀉物がぶちまかれていたら、誰だって思わず目をそらしたり、またいで通れる汚れ具合でも大げさによけたりしてしまうものだろう。
自分にとっての写真もそうだ。
レンズから顔をそむけてしまうのも、いち早くカメラを察知し、その射程範囲から大げさに遠ざかろうとするのも、反射的行為なのだ。

友人や家族がなぜ急に写真を撮ってくれなくなったのかと戸惑っていたことも分かっている。
写真を避ける、小さなことに思えるがそれが場の空気に亀裂を与えていることも分かっている。
ノリが悪い、変に個性を出そうとしている、つまらない、おもしろくない、色んなマイナスの印象を与えうることも分かっている。
分かっていても、避けてしまう。嫌なものは嫌だ。

前述したように付き合いの長い友人は理解がある。
自分を気を使うことなく、それをネタに笑いあえる。

でも、新しく出会った相手、新たなコミュニティではそうもいかない。
さすがに、場の雰囲気を壊してまで写真嫌いを貫くつもりはないので、一応映る。
一切写真に入らなかった中学生時代後半に比べると、今ではかなり克服したはずだ。そういう空気だったら、意識的に写真に入るようにしている。
(それでも、他の人からみたらかなりの確率で写真を断っているらしく、写真NGな人と認識されていることも多いようだ。それならそれでありがたいが。)

そして、もらった写真を見返しては嫌悪感を抱く。
写真を見返すのが一番嫌だ。
違和感しかない。そこに写っている人物が自分だとは思えない。
今では、極力撮った写真をみないようにしている。実際自分はその場にいたのだから、記憶に残っているその時の映像を大切にすればいい。
ただ、こんなきれいな言葉で片づけても忘れてしまうのは否めない。写真が思い出の保存に役立つものであることは、十分理解しているつもりだ。


SNSで誰もが発信者になれるこの時代、別の問題も生じている。
自分の姿がいつ、どこで、誰にみられているか、わからない。
自分の知らないうちに、「なんか見たことある人」になっていたらと考えると、いやだなあと思う。自意識過剰だろうか。
また、見方を変えて、自分のことを知っている人間が、自分が別のコミュニティに存在する姿をみているというのも、嫌だなあと思う。見られたら困るようなことではなくても、やっぱり知られたくないなあと思う。

嫌な時代になったものだ。
SNSという新たな発信手段が出始めたばかりのころは、まだそれによって生じる未知の可能性に恐れて、「SNSには載せないで」が暗黙の了解になっている面があった。載せるとしても相手の了承を得るのが定石だった。
今は、SNSで姿がさらされることについて、一般に、耐性がついたというよりは無頓着になってきたのではないかと感じる。
SNSを気にしている方が異質だとみられかねない。
神経質すぎるという印象を与えてしまう。
今まで、言い訳として使えていた、SNSが気になるということも「空気を壊す」になってしまうのだ。


写真嫌いにとっては生きにくいこの時代、写真を避けない方が気楽だろうし、印象もいい。
でも、嫌なものは嫌。無理なものは無理。
それが「嫌い」ということなのだろう。
理屈ではなく、自分の感性が反応する。


どうか、こういう、写真嫌いの人間がいることを知ってほしい。
皆と同じことを楽しめない人間の存在は、確かに空気を壊す。その可能性を認識したうえで、そのリスクへの恐れよりも写真を撮られるという嫌悪感が勝つ。
楽しんでいる側の人は楽しもうとしない奴を疎ましく思っていることだろう。一方で、楽しめない側の人もその場の空気をやりにくいなあと感じているのだ。
でも、やはり罪悪感はあるからどうにかしようと、その場の立ち位置に人一倍気を使っているのだ。


「皆と同じ」に強いこだわりはない。その点は割り切っている。
でも、写真嫌いでいることは処世術としてはマイナスである。
自分自身、写真とうまく付き合っていけたらいいなと思う。


いいなと思ったら応援しよう!