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「絵のうまさを比較する心」

・比較する心はどこから生まれてくるのか


自分は初期の頃、とくに「絵」に関して、人と“比較する”気持ちが強かった。
それは受験時代、学力の競争みたいなものがあって、その中でつねに順位をつけられる中で育ってきた感覚だったのかもしれない。表向き相手に向かって、けなしたりおとしめたりする言葉を言ったりはしないし、嫉妬心やルサンチマンで心が一杯になっているということもない。ただ、目がずっと“外”に向いていた。
今、すこしずつ枚数を重ねて安定して絵を発表できている中で、自分の“課題”みたいなものが少しずつ見えてきている感じがしています。そしてどうすれば上手くなるか。その方法論についても、先が見えてきた感じがします。絵は僕にとって、大きな「謎」のようなものでした。自己の内側にあり、自分の一部なのに、全然分からない。それが氷解するかもしれない、という感覚が芽生えてきたのです。
世の中にはいろんな絵がありますが、“自分の絵”、“自己の描き方”が定位してこないと、それが本当の意味で上手いのか下手なのかというのはわかりはしない。ただ、「ぱっと見上手だ」とか、「センスのよさ」とか、そういうものに意識が乱されて、それで「上手いとか下手だ」とか口だけで言っている。目があっちこっち移っていて、“自分”というものが何にもわかっていない。「なんでもいけるよ、私」とかいいながら、その“何でも”を見つめている自分のことが、何にも分かっていない。
今回言いたいのは、ここです。
つまり、上手い絵というのをどれだけ見つめていても、自分が上手くなるわけではない。美術館で鑑賞しているようなもの。心の滋養にはなるかもしれないが、それでスキルがはるかに向上するというわけではない。それをなんとなく「あいつは描けるな」という敵愾心ばかりを持っていて、比較している。そして「あのくらいなら、描ける」と思っている。
違う、そうじゃない。
絵描きには、その人なりの描き方があり、個性がある。そして必ず、その人固有の“課題”がある。私の作風はこう、みたいなものが定まったとき、はじめてその人の課題が浮き彫りになり、参考になる絵というのが見つかってくるのです。
視野ばかりが広くて、“自己の絵”というのが像を結んでいないと、そこからどれだけの枚数、絵をみていたって、どれだけ幅広く絵を見ていったって、「何が自分の“課題”なのか」、「上手くなるには、どういう方法論が効果的なのか」、絵を見つめている“主体”である自分が、何にも分からない。上達するには、何の本を読めばいいのか、どういう講座を見ればいいのか。そもそもいい絵・悪い絵の“基準”は何なのか。何をもって善いとか悪いとか言っているのか。全然分かっていない。
それなのに好きなマンガやアニメもたくさんあると思っている。何でも来い、大丈夫。そう思っている。知識がたくさんあっても、“自分”というもの、自己の絵柄・作風が定まってこない限り、どれだけ作品を見ていても、空(くう)を掴むような感覚に陥ってしまうのですね。

・やるべきこと


僕自身、文章と絵、両方やるタイプで、とくに最初期は文章の方にアドバンテージがありました。読者から評価されたのも、絵の方ではなく「何を考えているか」をしたためた“文章”の方だった。
ところが自分の中には「絵を描きたい、描かないといけない」。絵がおおきな謎めいたものならば、「この謎を何としても解き明かしてやる」。そういうような強固な“信”みたいなものがあった。内部から到来してくるのですよね、さまざまなモチベーションやミステリーが。外ではない。
だからいつまでも“他人”と比較とかやってる場合じゃない。
まずやるべきは、力を尽くして一枚、二枚、三枚と仕上げていくことなのです。それを年数をかけて繰り返していく。
そして勝負所、自分が精神力や体力、お金を使うべきところには、集中してリソースをかたむけてみるとよい。そう思います。多少値が張りますが、液タブやiPad(あるいはお絵かきタブレット)を導入してもよいでしょう。時間をかけて、一枚の絵を仕上げていく。一週間、100時間かける。機材も揃えていく。
全力でやると、自分がどこまでできて、何ができていないのか、ハッキリします。“他人”が上手いなあと言っている絵では無く、“自分にとって”上手い絵が何かハッキリします。自己の課題も分かってきます。「汝自身を知れ」(ソクラテス)ではないですが、すべて自己からはじまるのです。
ニヒリズムに陥り、他人のスキルを冷笑して、「あはは、こんなん誰でも描けるよ」などと言ってる場合ではない。真剣に自己と向き合えば、必ず得られるものがある。人がふざけているとか、「そんな真面目にやっているやつどこにもいないよ」という人がいても構わないじゃないですか。
まず「自分」です。
自分が汗を流して一生懸命やれば、それはブーメランのように自分に返ってきます。よいのも悪いのも。「人生はブーメランゲーム!相手に投げたものが返ってくる」。ナポレオン・ヒルも言っています。善い結果が欲しければ、よいことをやればいい。悪い結果がほしくなければ、悪いことをつつしめばいい。極めてシンプルです。
逆に、今なんらかの苦境におちいっているとすれば、それは過去、なにかよくないことをやったということ。逆に恵まれているということは、過去に、気づいていなくても善いことをやったということです。自分に展開している運命をみれば、自己がやってきたことが分かるのです。

・ニヒリズムから脱出するとき


「んな、一生懸命やるなんて馬鹿らしいだろ、なに本気になっているんだよ」というようなことを言う人、いつの時代でもいますよね。昔の僕は、そういう人を見るにつけ、腹立たしい気持ちになっていましたが、結局何も言えず、憤りを内側に飼い慣らしていました。
でも、自分です。自分がその瞬間、何をするか。それがすべてを決するんです。
唯識(大乗仏教の学派の一つ)ではそういうことを詳しく説いています。「唯(ただ)、識(しき=心)のみ」。すべてを心のあらわれと見ていくのですね。みんな「自分(主観)」という色メガネ(サングラス)をかけている。青色のサングラスをかけている人は、世界が青く見えます。茶色のサングラスをかけている人は、世界が茶色に見えます。人を軽く扱っている人は、自分も軽く扱われているように感じる。その人の心が見ているように、世界がそう見えるのです。
そういうことがわかってくると、“他人”なんてどうでもよくなります。それは人の心を思いやらなくてもいい、他人をぞんざいに扱ってもいいということではありません。幸や不幸は、自己が世界に向けて発信しているもので決まる。そういうことが深く腑に落ちてくる、ということです。
そうなると、「他人との比較」はどうでもよくなります。自分の運命は自分が決めている、自分が作っていくのだから。自己が世界に対して投げるもの、それがブーメランのようにはね返ってきているのですね。
人と比較するのをやめて、まず、自分が今描ける最高の絵を描いてみてください。細部にもこだわって、キャンバスいっぱいに描き込む。それをやっていくとき、枚数を重ねると、やがて“自己の絵柄”が確立されてきます。そして、自分にどこが足りてないのか、じわじわとわかってきます。
「自分の塗り」を確立させてください。“人と比較する心”から離れて。
そんなもので、人生何も決まらない。相手より劣っているとかいないとか、どちらでもよい。そういうのにとらわれているとき、軽く扱っているものがある。それは自分自身です。
もちろん環境要因や縁(間接原因)なども大事ですが、自分の心がどこを向いているか。一番はそれで決まります。人間ですから比較する心から完全に離れることはできませんし、自分を責めてしまうこともあります。そういうときは、比較している自分、自己否定している自分を許してあげてください。自分に優しく、できるかぎり愛してあげるのです。そういうことに気がつくとき、自分の課題・目標も、開けてくる。

人を傷つければ、自分の心が傷つく。人の痛みに無関心になっているとき、その人は、自分自身の心の痛みに無関心になっているのです。
「その行為は、果たして、他人を幸せにするものなのか?」。その問いを、自分自身に問うてみてください。世界は、あなたが投げかけたものと同じ性質のものを、そのまま投げ返してくるのです。

人が見ていようといまいと、すべては自分の心の現れだと思って生活していく。世界に対して、暖かいものを発信する。すると世界から暖かく、大切にされる感覚を感じることができると思います。自己肯定感、自分を大切にすることから、幸せに生きる流れがはじまっていくと思います。

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