クロチアゼパム日記⑪ テレビ・新聞について考える 2024/9/6
魚釣島に上陸したメキシコ人が書類送検された8月19日の翌日、NHKの国際放送ニュースでは、「尖閣諸島は中国の領土」「南京大虐殺を忘れるな。慰安婦を忘れるな。」という内容が放送された。NHKは26日に、「放送法の定めるNHKの国際番組基準に抵触するものであり、深くおわび申し上げます。」と陳謝した。この件、NHKはどう落とし前をつけるつもりなのだろうか。公共放送を謳う特殊法人が、政府の補助金事業である国際放送で起こした事件である。昨今の言説に副えば、「補助金返納」「国際放送委託業務非公認」という意見が出そうであるし、電波を出すに足る管理が不十分であるとして経営責任、編集責任が問われて然るべきだ。(工作員やそのバックアップ組織に対する仕事は、公安防諜当局の担当である。NHK内部に同様の者が存在しないかも含め捜査が必要だ。)
ずいぶんと昔だが、1989年「朝日新聞サンゴ事件」の時、この捏造記事は報道の信頼を揺るがすものだと騒がれたが、それはそれとして「日本人は、精神が貧しくて、心がすさんでいる。」と一面掲載されたことに、今回のNHKと同じ匂いがする。上手く表現できないが、日本国・日本民族を誹謗する、貶めるという底意を感じるのである。所謂「森・加計問題」に対する報道各社の執拗なキャンペーンも、不正追及、政権批判の域ではなく、倒閣を企図したものであったとしか思えない。現に、当時の朝日新聞の論説主幹は、「安部を叩くのは社是」「安倍の葬式はうちで出す(政治生命を絶つ)」と公言していたと言われている。「森・加計」キャンペーンは、報道あるいは権力の監視という活動ではなく、「報道という権力」を反政府活動、あるいは統治機構の混乱に用いた事例だと見做せる。椿事件もあったし、日頃のワイドショーや昨今の自民党総裁選報道でも、明らかな恣意性、偏向、誘導が見受けられる。「政治不信」は紙面や電波に乗るが、「報道・メディア不信」は発信されない。政権の支持率は調査されるが、メディアの信用度は調査されない。報道の自由以上に報道しない自由を行使する。所謂マスコミ(新聞・テレビ)は、民主主義の基盤となる「第四の権力」として、健全に機能していないのだ。
ジャーナリズムと言ったところで生業であり、人間のやっていることである。出世もしたいし金も欲しい、突かれたくない弱みもあるし、先行きが不安であれば心も荒む。服務宣誓を経て奉職する自衛隊員や公務員ではない民間人に、サラリーマン以上の気概を求めてもせんないことかもしれない。報道機関といえども、時間が経てば組織も腐る。老人が何十年も牛耳っている新聞社やテレビ局が、経験の乏しい政治家を持ち上げるさまなど、滑稽を超えて悲壮な様相だ。科学技術の進化・普及によって、従来のマスコミ(新聞・テレビ)の顧客ニーズや経営環境は大きく変わっており、淘汰再編が起こり業容自体も変わってゆくことは間違いない。その不可逆性は、当事者自身が良く分かっていることであろうが、殿様商売しかしてこなかった彼らには、どう自身を変えてゆくかを描き実現することは出来ないだろう。新聞・テレビ業界が富士フィルムのような変革力を発揮することなど、まったく想像できない。むしろ、紙面を中国に売るなどの悪あがきや自暴自棄によって、国民が被る害悪こそが心配である。今まで「自由」という概念に縛られ放任が過ぎていたが、民主主義国家にとって、報道・言論は極めて重要な機能を担っており、その近代化と健全化は国家国民にとっての重要課題である。些か手遅れの感は否めないが、国民の総意を背景として、マスコミの変革を促す国策が求められていると思う。
まず民間放送であるが、その問題は「電波使用権」という既得権益に依存した経営体質にある。報道を含めそのコンテンツ創作能力の停滞・劣化によって視聴者を獲得できず、スポンサーの期待に応えられていない。稼ぐ手立ては、「通販番組」という電波使用料の再販・転売というようでは、公共の電波を使わせる名分が立たない。電波オークションこそが、公共の電波の扱い方として、最も公明であり簡潔な方法だ。ついでに、「政治的に公平であること」という放送法の縛りは解く方が良い。コンテンツに主義主張が反映されることを防ぐことなどそもそも不可能であるし、公平を取り繕う反動からかえって悪質な操作・演出を招いてしまうからだ。「反対する市民3000人がデモしました。(主催者発表)」より、「デモは300人以下でしたが、当番組もこれには反対です。なぜならば~~」とする方が、公明であるし番組としてのエッジも立つ。局と局の間で論争が起こればより盛り上がる(客もつく)であろうし、言論が日本社会にとってより身近なものになるだろう。情報操作による誘導こそが悪質であり、旗幟鮮明の方が視聴者にとっては明らかに好ましい。
冒頭の事件のように、NHKには「公共放送」としての健全性に大きな懸念がある。いまや昭和ではないのであるから、公共放送に娯楽を提供してもらう必要などないし、受信料という税金のような徴収を国民は納得していない。NHK改革として、スクランブル放送や民営化を訴える論があるが、僕は国営化が良いと考える。災害や緊急時の報道、国会中継、教育テレビや国際放送が商業ベースで成り立ち難く、「公共」として必要があるとするならば、国の行政サービス、広報活動として国費で賄えば良いと思うからである。教育テレビ(有用であるのなら)は文教予算の一環として、国際放送は外交・観光振興の一環として企画・制作・監理される方が直接的であるし、災害や緊急時の情報提供は減災や治安維持の観点で国の責任で統合的になされるほうが、公共性に適うであろう。受信料徴収費用は、国営化されれば不要となる。かつて制作した番組(アーカイブ)再使用権は、国の資産としてこそ、みなさまの受信料の還元方法として最も妥当である。既得権益で鵺のようになった特殊法人より「国営放送」のほうが、よほどすっきりするし利権も抑制できる。
「国営化されるとジャーナリズムとしての独立性が失われ、権力の監視批判ができない。」という現状を守ろうとする意見があることは承知しているが、なにもNHKだけがジャーナリズムを担っている分けではない。僕は、マスコミ(新聞・テレビ)が全体として、画一化・独善化していることを問題視している。国民(読者・視聴者)は、マスコミによって切り取られ加工された情報だけでなく、政府当局からの一次情報や流布されるマスコミ報道に対する弁明や反論こそ知らねばならない。逆説的ではあるが、NHKが政府や自治体の広報機関と転換すれば、NHK単体としての権力を監視する機能は削られこそすれ、ジャーナリズム全体としての権力を監視・批判する力は、より洗練され高度化すると考えている。政権交代によって、NHKの報道姿勢が変わるようなことがあるとしても、それはそれで国民のリテラシー向上に繋がると思う。
全国新聞は印刷・配送を取りやめて通信社化するほか存続する手立てはないと思われる。死亡記事や地域広告に価値が残る地方紙は、多少長生きできると思われるが、それも時間の問題だと思う。定期購読を基盤とする新聞が消滅すると、ネット上の記事単体売り、執筆者指名買いなどが進むので、ジャーナリスト個人・チームの腕(取材、着眼、考察)が今まで以上に問われることになる。ジャーナリズムは全体として論説の多様化と深化、高品質化、健全化が進むだろう。
グダグダ感が漂ってきたので、今回はここまでとします。回を改めて、ネット配信やSNSについて考えたいと思っています。