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安倍総理遭難② 価値観の共有とビジョン 2022/7/24
今こそ、日本のあるべき姿を国民全体の総意として確認する必要がある。共通する規範・価値観やビジョンがあやふやなままで、施 策レベルの是非を議論してもそれは空転するだけだ。安倍元首相の国葬を例とするならば、「熱心に務めてくれた。海外からの評価も 高い。国葬であって何の問題があろうか。」というのが、大多数の国民に共通する思いであろう。このような言わずもがなな共通認識や 暗黙の了解があるにも関わらず、国費がどうとか、悼むことの強要とか、法的根拠などなどのいちゃもんのような批判が喧伝される。これ らの批判は国民の思いを汲んだものではなく、また国益のために発せられたものでもない。より深刻な問題は、これが傾聴すべき問題 提起として扱われること、そして、その意図のある情報発信に誘導されてしまう国民が相当数存在することである。日本を混乱させよう とする勢力や既得権を守るために世論を操作しようとする集団は確実に存在しており、「道路交通法は、国民の飲酒運転する権利 を侵害している。」に類した言説がもっともらしく流布されている。国民はこのような情報に誘導されない見識を持ち、賢明な主権者と して健全な民意を醸成し、政治の迷走を抑制しなくてはならない。
ここで言う民意とは、国民の大多数が共通して持つ規範・価値観 であり、国が目指す方向感である。「国や世界のために貢献した人は、国葬をもって弔うのが妥当。」、あるいは「いかなる人物にも、そ の葬儀に国費を使用しない。」というような粒度のものである。認定基準や決定プロセスなどは専門家に委ねるべきものであって、民意 とは、暮らしを通じて培った国民一人ひとりの見識の総和であり、専門家の検討の立脚点となるものである。政治が無作為であったり 判断を間違えそうなリスクがある今日、民意の力で政権を督促し国の命脈を保たねばならない。 「日本は領土的野心を持たず、武力を能動的に行使しない。天皇は国家国民の象徴としてある。主権は国民にあり権威主義国家にはならない。人権は守られ、飢えや抑圧で死ぬことはない(最低限の生活)。法の支配を原則とし、自由な競争が保証された市場経済で生活はより豊かに。他国に迷惑は掛けず、全ての国と友好的でありたい。環境破壊は良くない。」といったところが、国民意識の最大公約数であろうかと思う。しかし、もう一段細かいレベルや上記以外のテーマについては、考察や議論が国民全般に行き渡っておらず、民意として醸成されていない。 他国への侵略を日本国民が支持することなど絶対にない。しかし、逆に他国に領土を侵された時、政権をコントロールされようとした場合にどう対応するかについては、国民の総意として固まっていない。「徴兵やレジスタンスもあるべきものとして徹底抗戦するのか、 自衛隊が戦闘能力を失えば降伏するのか。スパイや工作員を捜査・逮捕するのか、すべきでないのか。必要であるなら国外から戦費を借金するのか、防衛行動は財政規律の範囲内とするのか。」など、少なくとも この程度の基本姿勢は、国民全体が共有しておくべ きである。「そんな事態に至らないように外交や安全保障政策を努力する。」のは当然のことである。ただ、その努力の前提となる国の独立に対する国民の意志を確認しておくことが重要なのである。(国民の覚悟が抑止力になるのか、その逆に働くのかは定かではないが、思考停止状態のままで良い筈がない。)
皇統の繋げ方を確定することにも、主権者である国民の理解と合意が必須である。万世一系こそを真価とするのか、新たな継承方法でも国家国民の象徴とすることが出来るとするのかは、丁寧なプロセスを経て収斂されるべきものである。 「同性同士で結婚したい、結婚しても氏(ファミリーネーム)を変えたくない。」と望む人を排斥することは出来ない。しかし、法制度として改めるには、同時に「父と母と子供による家族が、社会の細胞的構成要素であり戸籍の単位」という従来の暗黙的了解に替わる新たな認識を共有しておかないと、社会的軋轢を生じかねない。また、家族という概念が一新された時、家族によって個人や社会 にもたらされてきた様々な恩恵がどのように変化する可能性があるのかを、社会全体のこととして考えておくべきでもある。一部の集団が活動の手法として人権擁護を訴えることはあるものの、日本社会の人権意識は決して高くない。子供の貧困、自殺、外国人技能 実習生、非正規雇用など対策すべき問題が放置されているのは、国民の無関心や冷淡さが国の怠慢を促していると言える。不法滞在や移民、難民の受入れなども合わせ、国民の人権人道に対する姿勢を正した上で国としての方針を定めるべきである。それを欠くと、日本社会自体が加速度的に変容し、混乱と軋轢を招くことになる。 弱者の救済や福祉の充実には相応の財源が必要になる。高福祉高負担とするのか、自助を尊ぶのかなど相互扶助の仕組みは、 共同体の持つ規範や価値観をベースとして設計されるものであろう。
また、経済収縮を避けられないものとするのか、新たな経済成長を実現しようとするのかという前提をピン止めしないと、施策の方向感が定まらない。更には、財政規律(プライマリーバランス)思想の正当性を検証する必要がある。必要かつ有効と思われる財政出動を制限する以上、その理屈は国民が納得できるものでならないし、本当に財政赤字が許容できないものであるなら、国家公務員の削減や国有地などの売却も俎上に上がってきて然るべきである。 難しいテーマであるが、このような問題こそ国民に問いかけられ、民意に基づいて方向づけされなくてはいけない。環境とエネルギーに関わる課題も、声の大きい勢力によって大多数の国民が不利益を被りかねない状況にある。総排出量の3%しか占めない日本が、 CO2削減にパワーを投入することの合理性について、国民が冷静に理解していないと国益を損なう。原子力発電も、その便益を享受し且つリスクを背負う国民自身の理解を背景にしてこそ、適切な政策決定が可能となる。
信念とビジョン、実行力を備えた総理候補が登場するにはまだまだ時間が掛かる。ここ数年は、政局が動くことはあっても内政も外交も停滞するであろうし、憲法改正の議論が進むとも思えない。マスコミは、政策や政局をエンターテイメントコンテンツのように商品化・配信するだけに止まらず、偏った見方に読者・視聴者を誘導しようとしていることがあからさまである。誘導された意見は、拡大再生産され世論のようなものを形成する。地位の保持(支持率の維持)を命題とする政権担当者は、操作された世論と承知しつつも、これにおもねる挙動を取ろうとし、先々に備えた施策を準備しない。そして、このような政権では、大災害や破壊活動、紛争が起こった時、国家国民を守るために十分機能することはない。そして、国民がパニックやヒステリーを起こすと、混乱と崩壊は瞬時に進行する恐れがある。現在、わが国はこういう危機的状況にある。(意図された崩壊プログラムが既に起動している可能性も否定出来ない。)
しかし、国民自身がしっかりしていれば、なんとか凌げる。国民は、主権者としての機能(健全な見識と賢明な判断)を果たすべく、この国で共有すべき規範や価値観、目指すべき国家像について自ら考える努力をするべきである。祖父母や親の辛苦を受けて今を生き る私たちがある。その私たちの愚かさによって子や孫に辛苦を強いるなどとても罪深いことである。