![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/154629527/rectangle_large_type_2_e8c1b793cd04b965f256aa40549fca88.jpeg?width=1200)
クロチアゼパム日記⑫ 子育てと教育制度 2024/9/17
この夏は、ネット配信でNHK朝ドラ『ちりとてちん(2007年度後期)』を通して見直しした。(組織としてNHKは腐敗しているが、過去の名作コンテンツは無数にある。) 福井のネガティブ思考の少女(貫地谷しほり)が、落語家として成長してゆくあらすじであるが、母親役の和久井映見が素晴らしく頻繁に泣かされてしまう。落語や塗り箸という伝統の継承がテーマと言えるのだろうが、通底にあるのは家族愛であり、親の子に対する無条件の愛や母娘の絆が僕の心を打つ。
我が家のとなり近所には 小学生の子を持つ家族が4軒あるが、その子らと日常の挨拶を交わすとき、その健やかさが良く分かり幸せな気持ちになる。「親はなくとも子は育つ」は、ひとつの真理だとは思うが、「親に育てられる、見守られる」ことは、人生にとってとても大きなことだ。この4軒を分厚い中間層と見做すのが正しいかどうかは分からないが、父母と子供らが一緒に生活することが標準的というか日本社会のあり様として、「まず想定される姿」とするのが自然だと信じる。これは 「家父長制」とか「家制度」というようなものの後継ではなく、人間の本能や日本の慣習・文化から、文字通り「自然」に現代日本の通念となっているものだと信じる。子にとって無条件の愛に基づく養育ほど貴重なものは無いし、親にとって子育ては難事業ではあるけども、自身の成長や充実の源であり、絶対的な幸福の源と言えるものであろう。ノンケの男女の大多数が、この様な人生を歩める社会でなければならない。善良であるにも関わらず、稼ぎが乏しいから結婚出来ない、子をもうけられない、というような状況は貧困した社会であると判定すべきだ。国は、成人ふたりの所得で複数の子を養育できるだけの経済環境を構築・維持せねばならない。また、子育てに投入する時間は、権利として保護・保障されるべきであり、それが処遇や評価に悪影響を及ぼしてはならない。これらこそが、少子化対策・子育て支援の根本である。国がそのような豊かさを提供できない時期であれば、社会全体から未婚世代、子育て世代に富を分配する施策が必要であろう。しかし、それは高校無償化とか給食無償化といった場当たり的つまみ食い的なものではなく、子の成長過程に応じた現金給付が公明であるし効率的である。「親ガチャ」は格差の固着であり、社会全体で排すべき現象だ。もちろん、様々な不幸や事情によって「まず想定される姿」での養育を受けられない子供らが発生することは防げない。そして、その状況(死別や離婚、非嫡出、不適格な親)はその子らの責任によって生じたものではない。「まず想定される姿」にある子らと同等、更には親からの愛情を損ずる分だけを補填された支援を社会全体から供されなくては、人道的社会とは言えない。
善良な社会人としての根本は親の養育を基礎とするが、賢い有権者また稼げる生産者としての育成は、国の教育制度に依るものだ。そして、それは「国家ビジョン>人材育成計画>教育制度・システム」というような位置づけであるはずだが、現状の学制は時代に即したものとは思えず、抜本的に見直されるべきだ。6・3・3・4は絶対的なものではない。現在時点で国民共有の国家ビジョンが存在しないことは大きな問題であるが、それはさておき、豊かな生活を求めることは普遍であろうから、少なくとも「稼げる生産者」を育成する教育が供されるべきだ。つまり、生産者としての知識や技能などの付加価値を高めることに資する教育システムが設計されるべきである。また、付加価値に紐づかない教育期間は、社会にとっても当人にとっても無駄なことであるし、勉強もしない高校生を「公」が援助するのは道理がたたない。ついでながら、能力・生産性において、文系の大卒と高卒との間に大きな違いがあるとは思えないので、初任給に差をつけることは合理的でない。企業は高卒の採用枠を拡大するのが人材確保の点で得策だし、生産者人口も4年分前倒しされる。「就職・採用活動に関する要請(かつての就職協定)」は、学生が学業に専念できる環境の確保に役立ってはいない。意味のない制約や談合は取りやめるべきであり、むしろ青田買いの方が双方にとって良い。学生の資質など時期に関係なく見極めできるので、高校時代に内定をだしておけば、4年間まるまる学業に専念させることができる。学費も援助すれば更に優秀な人材を囲える。
一人当たりのGDPが、世界屈指となれれば「稼げる生産者」の教育が成功したと言えるだろう。多く稼げる生産者の数、稼ぎ高、全体における割合などが高まるような高等教育・技能教育、大学教育、専門教育の再設計が望まれる。例えば、経営学ならMBAレベルの内容を学士課程に織り込むとか、技術系であるなら教養課程レベルのカリキュラムを高等教育課程に前倒しして専門分野の研究を重くするなどを検討するべきだ。高度な内容をより早期に教育することも、稼げる生産者をより早く労働市場に送り出すことに繋がる。アカデミアが聖域化しているならば、科学系の研究者を分厚く育成する機関や文系エリート養成機関の設置も有効だと思われる。大学のゾンビ化は有害であり、助成の厳格化は避けられない。
「九九が出来ない中学生、三権分立を理解しない高校生」などは、初等中等教育として公教育が機能していないことを示している。基礎教育・義務教育は、社会人そして有権者としての最低限の知識や方法論を、国の責任によって国民の子弟に供されるものであり、その修了は国家試験で認定するのが良い。他方、カリキュラムや指導要領を画一化することは些か冒険的であるので、県レベルに委ねたらどうだろうか。知事の責任で公文式を導入するとか「飛び級」を認めるなどすれば、「基礎教育が素晴らしいので鳥取に引っ越す」というようなことが起こるかもしれないし、鳥取方式の採用が島根県知議選の争点になったりするかもしれない。ある種の競争原理によって、国全体の基礎教育が底上げされるのではなかろうか。 ともかくも、教育制度の見直しを検討しないことは、怠慢であり愚かなことである。