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クロチアゼパム日記⑨        政治家の選び方  2024/8/24

 10年ほど前、再建直後のJAL幹部と会食する機会があった。僕は再建を担った稲盛和夫さんの実像に関心があり、あれやこれや訊ねたことを思い出す。当時 僕はそこそこの稲盛信奉者であり、特に「人生と仕事の結果」=「考え方」×「熱意」×「能力」とういう方程式に強い影響を受けていた。これの要点は、能力や熱意と共に考え方が成果を得るためには重要であり、いささか能力不足であっても熱意があり考え方が正しければ、優れた成果を得られる、だから真面目に頑張れということにある。ただ、「考え方」にはマイナス採点もあり、その「考え方」に僕は自信が無かったのであった。(稲盛さんが小沢一郎や前原誠司に近いところにも違和感があった。) なぜ、そんなことを思い出したかというと、自民党の総裁選が始まったからだ。
 昨今の自民党の総裁選挙には特徴がある。まず、よほどなことが無い限り、当選者は首班指名され組閣し次の総選挙を闘うことになる。そして、公職選挙法が適用されず、議員票は記名投票に等しい。ネットも含めて各媒体での取り上げられ方が盛んで流布される情報量が大量であるが、恣意性も凄まじい。どこかでも書いたが、オーディションの舞台として良く出来ており、投票権の有無に関わらず政治家を品定めするための良い訓練材料になる、そして不適格者を浮かびあがらせる装置としても機能する。偏向報道とポピュリズムに染まってしまった今の日本で首相公選制などは採用できない。国民の代表者である衆参議員が、日頃の議論や作業を通じてこそ知りえる「考え方」や「熱意」、「能力」(ね、出てきたでしょ)の実相を元に、首班を指名する方が精度は良いに決まっている。自民党の総裁選挙も、一般党員票を汲みつつも議員票を重く見る仕組みであり良く出来ている。党員票は無視出来ないけれども、その党員票が危ういものであれば 議員の良識でひっくり返せるようになっている。同僚議員から20人の推薦がないと立候補できないというのも秀逸である。20人程度の同志やシンパを持たない者が、国政をハンドルできようはずがない。
 そこで、議員の良識についてだが、「自分の選挙に有利になる顔を推す」というようなことを聞くが、本当だろうか? 先々に首相や閣僚を目指すにしても、党の政策決定や国会における質問や議決が国民を代表する議員としての責務であり、中でも代表選出こそが、政党政治家の一番の大仕事である。自己の損得を起点に総裁選をやるなど、「考え方」が間違っている。自分の選挙民がそのさまを見ていることに気付くべきである。(親分を男にするため金を配る、というほうが政治家の在り方としては許容できる。) 加えて、推薦人になるということは、立候補者と同様に自分の政治姿勢を示していることに等しく、時局に最適と思う人物を自ら進んで担ぎ上げてこそ政党政治家である。(菅義偉前首相の最大の功績は、安倍元首相の再起を促したことだと僕は思っている。)
 まあしかし、この時代の総理大臣は前例が無いほどの重責である。打ち手を講じてこの10年を乗り切れたなら、憲政の神様や国会の立像以上の「国の恩人」となるに違いない。人材は時代の要請に応じて登場してくるものであるが、議会制民主主義である今の日本では、衆参選挙で真っ当な政治家が選ばれ、その議員らが見識を持って政党の代表を選び首班指名に臨むというプロセスが要る。国民・党員と選ばれた議員のそれぞれの過半が賢明でなくては、適格者は舞台に上がれず、必要な手も打てない。 「国民はみずからの程度に応じた政治しかもちえない。」この一言だけでも松下幸之助の偉さが分かる。翁の政治や政治家に関わる著述はたくさんあるが(もちろんPHP)、それはさておき、要は国民の賢さこそが根本だということだ。
 今回の総裁選は、政治家を品定めするよい訓練になると書いたが、このひと月の間、丁寧に観劇されることをお勧めしたい。先述の通り、人物の実相(本当の実力)は分かりえないが、ダメさ加減はしっかり見て取ることが可能である。不適格者や未熟者を判定でき、またその候補者を推す政治家の見識も類推できる。これは、すなわち「国民みずからの程度」を押し上げることになる。観劇のガイドとして、稲盛イズムを援用した政治家評価軸をまとめてみた。(MECEさは欠けるが、観点の一覧化とご理解頂きたく。)  政治家も「考え方」が正しくないと害悪になるし、当節では危機管理能力が極めて重要だと思っている。聖職者を選ぶ分けではないので、好色だとかギャンブル好きとかは考慮しないし、若いとか見栄えが良いとかはルッキズムであるので排除した。ハニートラップや金品誘惑への強さは、個人の資質に頼るのではなく、国の防衛・防諜の領域とすべきなので、これも除外している。

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