敬意の経緯
敬意が足りない。
子どもたちから自分への敬意があまり感じられ無いのが悔しい日がありました。
「朝から晩まで働いて、さらに家事までする私には、もっと敬意を払ってくれよ」
こんなに頑張って尽くしているのに、なぜだ、と少し悲しくなりました。
そんなとき、ふと思いました。
若き日の自分は、両親に敬意を払っていただろうか、と。
答えは、ノー。
そんなことを微塵も考えたことがなかったことを思い出しました。
両親、特に私の母は、時に夜勤のある激務をこなし、家に帰れば私たちの家族の世話を、まさに献身的にしてくれました。
嫁姑問題もあったのに、それも子どもには感じさせないように、イヤな顔を見せたことはありませんでした。(物心ついてからは少しずつ打ち明けてくれるようになりましたが)
母は、「私を大切にしてほしい」などととひとことも言わずに、いつも私たちを優先してくれました。父を含め私たち家族は、母のその献身に甘えてきました。
あれから数十年、自分が親になってようやく、見返りを求めない献身がどれほど大変かを身に沁みて感じています。
それはもう、言葉にできないほどの大きな尊敬の念を抱かずにはいられません。
母が家族に注いでくれた、長年の愛情の深さへの敬意は、いまや揺らぐことがありません。
私は生涯、感謝し続けることでしょう。
翻って、現在の自分の人間の小ささ。
母は見返りを求めずに、献身という形で愛情を注いでくれました。
私はまた違う形で自分の家族に愛情を示していくと思いますが、同じ年代、同じ立場になって、母の偉大さ、親の思いを知ったのでした。
そして、目の前で家族が私に敬意を示してくれないことを嘆くのも、そもそも姿勢が間違ってるよな、と思いました。
自分が果たせる役割を、しっかりと話し合いながら果たしていく。疲れていようが、悩みを抱えていようが、今やるべきことは、今やらないと生活していけません。
そして、母を見習い、しっかり働き、家事については静かに下支えをすることが、私が出来る親の姿を見せるということだと考えています。
その姿勢を私の子どもたちも、自分が親になったとき、親の年代になったとき、きっと思い出してくれるんじゃないかと思いました。
決して先頭に立たず、母が紡いでくれた家族のつながり。その優しく強い、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)は、家族の絆として、今の私たちを支えてくれているのだと思います。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
#カツオnote vol.29