気がつけばお寺の住職⑧
はじめて伊豆のお寺を訪ねた2007年。
たまたま仏教の教えと出会い、大きな希望を感じ、でも•••何ら救われることもなく、仏教への興味を失っていた頃、たまたま再会した老師に誘われての訪問でした。
坐禅(のようなもの)もしましたが、効果も魅力も、特に何かを感じることはなく、「もう二度と来ないだろう」と思いながら、東京への帰路につきました。
特急での移動中、ずっとパソコンを使って仕事をしていたように思います。
それが、当時の自分にとっての普段通りで、この日も、何事もなかったかのように普段通りに仕事をしていました。
なのに、東京に着いたときには、なぜか「また行きたい」という思いがめばえていました。
翌日、翌々日、それまでと変わらない日常を過ごす中で、「また行きたい」という思いが日に日に強くなっていくのを感じました。
結局、はじめての訪問から1ヶ月後、再び伊豆のお寺を訪ねました。
何か目的があったわけでも、何か考えがあったわけでもありません。
ただ、行きたい衝動を抑えられずに、というのが正直なところだと思います。
お寺では、坐禅(のようなもの)をしたり、禅堂の中を歩いたり、作務(庭の掃除です)を手伝ったり、前回と変わらない時間を過ごしましたし、同じように、何の効果も、何の魅力も感じることのない再訪でした。
帰路、電車に乗るときには、1ヶ月前と同じように「二度と来ないだろう」と思いました。
間違いなく、そう思いました。
そして、車中、パソコンを使って仕事をし、また普段通りの東京での日常に戻りました。
そして、なぜなのかはわかりませんが、同じように、「また行きたい」という思いがめばえ、日に日に強くなり、また行きました。
そんなことを繰り返して、結局、1〜2ヶ月に1回は伊豆を訪れるようになりました。
一年もすると、伊豆のお寺に通うのに、「なぜ」とか「不思議と」とか、そんなことも感じなくなってきました。
さらに、東京の自宅でも、ほぼ毎日のように坐禅(のようなもの)をするようになりました。
不思議です。
不思議ではありましたが、なんの無理もなく、自然とそうなっていったようにも感じます。
そんな伊豆通いが3年目に入ったある日、老師から言われました。
「どうせならもう坊主になったら」
「そんなことは絶対にあり得ないだろ」と思ったのをはっきりと憶えていますが•••そんな抵抗?もむなしく•••
2010年9月、得度してお坊さんになり、そして、その日から老師とは師匠と弟子の関係になりました。
なぜ伊豆に通って坐禅をし、なぜ得度してお坊さんになったのか、よくわかりませんでした。
でも•••
自分が、この間、「二度と来ない」とか「坊主になるなんてあり得ない」とか、どれだけ思ったとしても、実際の行動をみれば、単に、伊豆に行きたくて、座禅がしたくて、得度したくて、お坊さんになりたかった、それだけです。
行きたければ行けばいい。
したければすればいい。
なりたければなればいい。
ほんとはただそれだけなんです。
でも、そうできないのは、自分の中に先入観があったからなんだと、今ならわかります。
宗教、仏教、坐禅、お坊さん•••そういうものに対する先入観に縛られて、「行きたい」、「したい」、「なりたい」、そんな自分の気持ちに素直に従えず、「不思議だ」、「不思議だ」、と言っていただけなんだと思います。
今となっては、そんな自分が、なんとなく滑稽で、ある意味、かわいくも思えてきます。
ともかく、こうしてお坊さんとしての第一歩を踏み出すことになりました。
宗慧