帰省
この正月、和歌山に帰省しました。
高校卒業と同時に実家を離れ、それ以来、年に1、2回帰るくらいですし、特別に何かがあるわけではありませんが、それでもやはり落ち着く場所のように感じます。
実家に帰るとまず仏壇に手を合わせます。
これはお坊さんになったからではなくて、実は子供のころからの習慣のようなものです。
自分はおじいちゃん子・おばあちゃん子でしたが、子供のころ、外から帰ってくると、まず仏壇に手を合わせるように、おばあちゃんに躾けられました。
誰かが訪ねてきて、お菓子をお土産にいただいても、まず仏壇にお供えして、それを後から自分たちがいただくのが当たり前でした。
うちは浄土真宗ですが、今から思えば、おじいちゃんもおばあちゃんも、かなり信心深い方たちだったと思います。
そんなおじいちゃん、おばあちゃんに育ててもらって、自分も信心深くなったかというと、残念ながら?そうはなれませんでした。
お坊さんになった今でも、信心深いかというと、決して信心深くはないです。
「信心」
読んで字のごとく、「信じる心」です。
別に疑り深い性格だとは思いませんが、何か、もしくは誰かを信じることで、人間の本質的な苦しみを解決するなんていうのは、そんなに簡単なことではないと思っています。
そしてお坊さんになった今も、仏教を"信じている"という感覚はあまりありません。
たとえば、握り締めた手のひらを見せられて、
「この中には500円玉が入ってます」
と言われたとしたら。
これは、そう言っている人を「信じるか信じないか」の問題です。
その手のひらを何とかしてこじ開けて、中身を自分自身で確認してみると•••この瞬間、「信じるか信じないか」の問題ではなくなってしまいます。
今度は、自分の見たそれが何であるのかを「理解するか理解しないか」の問題になってしまいます。
同じ仏教でも、実家の浄土真宗は前者の立場、自分が選んだ禅宗というセクトは後者の立場だと思います。
ですので、お坊さんにはなりましたが、「信心は?」と聞かれると、「あんまりないです」としか答えられません。
そして、後者の立場を自覚するようになって、改めて、前者の立場っていうのは、スゴいことだと思うようにもなりました。
手のひらを中も見ずに信じる、しかも本気で信じるなんていうことは、とてもではないですが自分にはできません。
じゃあ、手のひらをこじ開けて中に何が入っているのかを理解するなんていうことも、今の自分には無理なお話です。
それでもどちらかというと、手のひらをこじ開けて中身を理解することの方が、自分にとってはまだしっくりくるような気がしています。
「生死事大」
いずれにしても人生の一大事ですので、そんな簡単に解決しないかもしれませんが、諦めずに修行を続けていこうと思います。
久しぶりに帰省をして、おじいちゃん、おばあちゃんを思い出しながら、そんなことを考えていました。
宗慧