無一物中無尽蔵
先日、老師からこの言葉をいただきました。
無一物中、無尽蔵
何も持たないからこそ、何でもある。
直接的に訳せばそんな感じでしょうか。
「所有する」ということは、自分のものと他人のものを区別するところから生まれます。
これは自分のもの、これは誰かのもの
「これは自分のもの」だと区別することは、同時に「これは自分のものでないもの」を生み出します。
自分のもの、他人のものという区別さえしなければ、「自分のもの」は何もありませんが、「自分のものでないもの」も何もありません。
まさに、「無一物中、無尽蔵」です。
おそらく「自分のもの」を区別する始まりは、自分自身の心身に対する所有感だと思います。
無一物を徹底し、究極、自分自身に対してさえ、自他の区別をなくすことができれば、
自分が宇宙、宇宙が自分
そんな万物一体の境地を体験できるんだと思いますが•••今の自分にはなかなか難しいです。
たまたま、今週、落語会に行きました。
昔から落語に興味があったわけではありませんが、最近は年に数回、行くようになりました。
今回、最後の演目は「百年目」。
いわゆる古典の人情噺です。
古典ですので、ストーリーは決まっています。
ストーリーは知っているのに、それでも、笑ったり、泣いたりできるのが落語のスゴさだと思います。
人情噺は佳境に入ると、落語家さんが何も喋らない無言の時間が増えてきます。
この無言の間、舞台はもちろん、客席も含めて、ホール全体が一気に静まりかえります。
何もしゃべらない、音をたてないというようなものとは次元の違う静かさのように感じます。
それは、普段感じている自分の外側の静かさというより、自分の内側からの静かさのような感じです。
表現は難しいのですが、自分も含めて、そこにいる人やもの、空間全体が一つになる、外側と内側の区別が無くなることで感じる静かさ•••でしょうか。
おそらく、ホール全体が、同じ一つのことに集中するからこそ生まれてくる感覚なんだと思います。
そして、そのときに思いました。
これも「無一物中、無尽蔵」なんじゃないの?
落語に夢中になること、今、この場に没入することで、無心になり、無心になることでホール全体が自他の区別のない空間になっているような気がします。
自分がホール、ホールが自分
宇宙と比べればかなり小さいですが•••
何となく、そんな世界にいるのを感じました。
歩歩是道場
坐っているときも、落語を聞いているときも、日常のすべてが修行なんだなあと改めて実感しながら、帰路につきました。
宗慧