ヒタカミのホツマ旅⑤~三内丸山遺跡(約5900年~4200年前の縄文の大規模集落遺跡)
この記事は2019年(令和元年)8月に青春18きっぷを使い、東京から仙台、秋田、青森を巡ったときの記録です。「ヒタカミ」とは古代東北地方の呼び名で、「ホツマ」とはホツマツタヱという古代文献の略です。
書物で繰り広げられる時代をリアルに体感する
ホツマに初めて触れたときに驚いたのは「古事記や日本書紀で語られる神様が実在した人だった」ということ。神話の時代は縄文という実在した時代だった。すなわち、ご先祖様の物語だった、ということでした。そんな視点は今までもったことがなかったので。
ヒタカミと呼ばれていた古代東北地方は、クニトコタチの八人の皇子であるタのミコトが開き、発展した地域。とすると、ここ青森にある三内丸山遺跡
、約5900年~4200年前の縄文の大規模集落跡は、ヒタカミをリアルに感じることができる場所ではないか、となる。
どんなに莫大な情報を書物やネットから得たとしても、アタマ(知識)だけでは限界がある。人には感覚という素晴らしい機能が備わっているのだ。
「書物で繰り広げられる時代をリアルに体感する」
この感覚は大切にしたいな、と思う。
「学問」の「問」は問いかけるを意味する漢字。これが「門」になって狭い場所に閉ざされたり、「悶」になって悶々とするのはもったいない。アタマでっかちにならず、ハート(感覚)をオープンにして、問い続けることが本来の「学問」ではないかと思う。
羽後境駅から大館駅へ
唐松神社を後にして、羽後境駅から大館駅までJR奥羽本線で約2時間。大館にいる従兄(いとこ)2人と合流。当初、青春18きっぷだけで全ての工程を回ろうと思っていました。でも、せっかくなのでたくさん回りたかったし、ちょうど従兄たちの予定も空いていたこともあり、車を出してもらえることになったのです。
さあ、いざ三内丸山遺跡へ
大館から三内丸山遺跡まで車で約1時間。三内丸山遺跡に到着。電車を使えばおそらく3時間くらいはかかったことを考えると、早いしホント有難いなと思います。
中に入ると、周辺地図や遺跡内の説明書きがたくさんあります。
「北海道・北東北地方の縄文遺跡群」と題されたパネル。
狩猟・採集・漁労により1万年以上前から定住が開始、発展、成熟し、長期間継続した先史文化(縄文文化)の生活や祭祀・儀礼のあり方を示す、東北アジアをはじめ世界の中で類例のない文化遺産です。
などと記されています。
こうして全体図を高い視点から見ると、縄文時代のフィールドが壮大に広がっている様子がありありとわかる。想像がリアルさを増す。当たり前だけど、本当にあったんだ、という実感が。
書物や情報は確かに便利。でもアタマの領域を出ないなあと今更ながら思った。まだこの時点では写真見てるだけだけど(笑)その場にきて臨場感上がってることを我ながら実感する。
三内丸山遺跡だけじゃなく、北海道・北東北にはたくさんの遺跡や貝塚があることがわかります。最も古いのは太平山元遺跡。なんとB.C.13000年~B.C.9000年。次は垣ノ島遺跡でB.C.9000年~B.C.7000年、で、ここ三内丸山遺跡はB.C.7000年~B.C.3000年となっていますね。三内丸山遺跡はB.C.7000年~B.C.3000年となっていますね。
「縄文のむら」といわれる遺跡エリアへ
さっそく中へ。この日は朝から快晴、というか日差しが剥き出しの肌を突き刺すように強い。遺跡があるエリアへと出ると、一気に視界が開け、澄み渡った青い空の下、点在する大小の遺跡と来場している人たちが目に入ってくる。日差しを手で遮りながら遠くを見るように全体像をざっと確認。
ちょうどお盆の時期。家族連れが多いこと、多いこと。夏休みの子どもたちにとってみたらさぞいい思い出となるだろうな。
遺跡エリアの右手は竪穴式住居跡。
復元だけど、こうして身近でじっくり見るのは初めてかも。ホツマに出会うまで縄文時代にほぼ興味なかったしなぁ。
アタマの中、それも学校の授業の中のささやかな記憶にしかなかったものが、いま目の前にリアルに再現されている不思議な感覚。
なるほど。茅葺き、樹皮葺き、土葺き。竪穴建物には3種類あるんだ、と初めて知った。まるで小学生の夏休み気分だ(笑)
茅葺き
土葺き
樹皮葺き
学校で習ったのかは記憶にないけど、やはり現物を見ながら得る知識や情報ってリアルな記憶として定着する。
中に入ってみる。焼けるような日差しが遮られ、チョット一息。
その少し奥の方には堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)があります。
縄文の人たちにとって栗は大切なものでした。食物としてだけでなく、栗の木は水に強くて丈夫、腐りづらいという特徴があったからです。
このように建物の土台となる柱として用い、重宝していました。
その左手前方にあるのが大型掘立柱建物(おおがたほったてばしらたてもの)。
大型というだけにとにかくでかい。離れないと全体像が写真に納まらないくらいに。さっきの堀立柱建物の6倍はあるんじゃなかろうか。
巨大な祭祀跡?三内丸山遺跡のシンボルともいえる六本柱建物へ
三内丸山遺跡の一番のお目当てだったのが六本柱建物。三内丸山遺跡で最も重要視されているものです。
その名の通り六本の柱からなる巨大な建物。
高さは推定20m。柱は3個ずつ等間隔で2列並び、間隔4.2m、幅2m、深さ2mと全て統一されている、とある。
現物を身近でまじまじと見上げてみる。「この巨大な建物は何のために建てられたのか?」想像するしかないが、やはり祭祀のための神殿のようなものだったのではないか、と。
復元なので実際に当時どんな姿かたちをしていたのかは正確には分からない。やはり印象的なのは6本の柱。大きさも間隔も均整がとれていて美しささえ覚える。角度を変え、近くで見たり、遠くで見たりしながら、太古にここで行われていたであろう祭祀の様子を想像する。
近江からヒタカミ(東北)へとやってきたタのミコトやその子孫たちが、天と地を結ぶ6本の御柱に支えられた建物の中で祈りを捧げていたのか。もしかしたら御柱だけがあり、6本の柱の中で祈りを捧げていたのか。
満天の星空のもと、静寂に包まれた雰囲気の中で、この6本の御柱を中心に人々が集まり、厳かに祈りを捧げている光景が目に浮かびます。
縄文時代は約13000年続いたと言われています。その後に続く弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治、大正、昭和、平成と合わせても、およそ2500年くらい。比べると縄文時代がどれだけ長く続いたのかよくわかりますね。
「縄文時代は平和だった」と言われていますが、時代が下るにつれ、世の中や人心の乱れがあったことがホツマには記されています。
この三内丸山遺跡で人々が暮らしていた頃は、まだ人々が平和に暮らしていた時代。神々と自然と人、あらゆるものが調和に満ちていた時代。
ホツマに最初に出会ったとき、「縄文時代」「縄文人」という既成概念がガラリと変わってしまった日のことを思い出します。
精神性が高く、叡智に溢れ、愛と調和に満ちていた縄文の人々が、時空を超え、この三内丸山遺跡が遺跡ではなかった頃に生きていた様子がありありと眼前に浮かんでくるかのようです。
「ありがとう」
いまこれを書いていて、7か月前、あの三内丸山遺跡にいたときのことを思い出しながら思わず出てきたのがこの言葉でした。
三内丸山遺跡のHPはこちらとなります。
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