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「ソクラテス」から経営と社会を思う

 先日、大学院大学至善館で指導いただいた宗教社会学者の橋爪大三郎先生、哲学者の西研先生を囲んでのリベラルアーツ勉強会が開催されました。私自身は経営学が専門ですが、その経営学や経営リーダー教育にリベラルアーツが不可欠だと確信しており、今回も全力で参加させていただきました。

今回のテーマはソクラテスと哲学。課題図書は西研先生の書かれた本書。

この本、とってもわかりやすく書かれてコンパクトでおすすめです。西研先生によるとこの「ソクラテスの弁明」はヨーロッパにおける「哲学することのイメージの原型」となり、「哲学とは何か」を広く伝える貢献を果たしたとのこと。紀元前399年にアテネの法廷で訴えられ、裁判によって処刑された哲学の祖と呼ばれるソクラテスの生前最後の弁明をその弟子プラトンが法廷弁論の再現という形で著しています。


書籍の内容

 恥ずかしながら私自身も、ソクラテスという人についてきわめて表層的な知識や印象しか持っていませんでした。しかし本書を読み、彼が人生最後に命を賭けて訴え問いかけたことは、2400年の時を超えて私たち現代人にとっても重要な問いを投げかけていることに気づきました。

その中核的な問いとは「どうすれば物事の本当の価値を知ることができるのか?」「どうすれば、自分の魂(プシュケー、心や人格)をより良くしていけるのか」という根幹的な問いかけです。

前者の「物事の本当の価値」とは、例えば「良い人間関係とは」「良い会社とは」「良いマネジメントとは」「良い教育とは」といった形で、普段我々が何気なく使っている考え方や言葉を深く掘り下げて「そのものの本当の価値とは」を掘り下げることです。私の経営学の師であるピーター・ドラッカーも「そもそも優れた〜とは何か」といった大上段の問いを発する人でした。自分もその影響を受けており、経営学やリーダーシップに関するテーマを教える時にこの「そもそも良い〜とは何か」という問いをよく発してその場にいる全員で考えていくスタイルをとります。なので、このソクラテスの考えにはすごく共感しますし、この方法で良いのだなという自信ももらうことができました。

もう一つ、「魂をよりよくしていく」ことについて、ソクラテスは「魂の配慮」と表現しています。お金を稼ぐこと、有名な会社に入ること、贅沢な暮らしをすること、SNSで注目されること、外見を良くすること、数多くの情報を手に入れ発信すること、周りから高い評価やコメントを得ることなどを意識して生きる私たちは、本当に自分自身の魂(心、人格)を磨くことにどれくらい注意を向けられているでしょうか。情報が溢れる今だからこそ、ソクラテスが当時のギリシャで伝えたことに立ち返るべきかもしれません。特にAIをはじめとしたテクノロジーがほぼ全てのものを効率化・自動化・高速化する中で、ソクラテスの言葉は「では、一体人間が磨くべきものとは何なのか」を考えさせてくれます。

 その「ソクラテスの弁明」を足がかりに西研先生は上記の書籍の中で「哲学」「生き方」「対話」「社会」についてわかりやすく解説してくれています。

「ソクラテスの言う『不知(自分が知らないということ)を自覚する』とはどういうことか」
「物事の本当の価値を知るとはどういうことか」
「自分の魂をより良く、優れたものにするとはどういうことか」
「対話を通じて自己の軸を確認し他者を理解する方法とは」
「物事の『価値』について原理性と一般性を兼ね備えた合理的な共通理解を探るには」


などなど、仕事・ビジネス・教育をする上でも「明日からすぐにでも使える」知恵がたくさん。

勉強会当日、内容の要約や感想を発表させていただきました。当日発表用に簡単にまとめた本書の内容メモはこちらです。ラフメモなのでお恥ずかしいですが、参考までに掲載します。要点と自分が考えたことをまとめただけなので、もちろん網羅しきれていません。ご自身で読まれることをお勧めします。

ソクラテスが教える「人として最も大切なこと」

 ソクラテスの弁明の中のキーワードを2つ挙げるとすれば「不知の自覚」と上記の「魂の配慮」です。「不知の自覚」について、余談ですが「無知の知」という一般的によく知られる言葉とは微妙に意味が異なるそう。「無知の知」は本来十分知っていない人があたかも知っているかのように錯覚している状態を指すようですが、「不知の自覚」は自分が知らないことを知っているということです。

 そしてもう一つの「魂の配慮」。これは私自身もソクラテスの考えとしてあまり認識できていませんでした。西研先生の書籍内の言葉をそのまま引用させてください。

ソクラテスはこう考えました。人のアレテー、つまり優秀性は、金儲けができる技術ではなく、体を鍛えていることでもない。さらに巧みな弁論術をもっていることでもない。それよりも、『魂の優れたありかた』こそが人のアレテーなのだと。」(「別冊NHK100分de名著 読書の学校 西研 特別授業『ソクラテスの弁明』」より)

魂とはギリシャ語でプシュケー。心や人格のことだと言います。ソクラテスが自分の有罪判決が発表された法廷で民衆に向かって訴えかけたことは、「自分と自分を裁こうとしている民衆は、どのような心や人格を価値あるものと考え、人生を賭けてどうそれを追求していくべきなのか」ということでした。

哲学とは、何が良いのか、なぜ良いのか、を問うことによって、憧れる力を呼び覚ますもの」だと西研先生は言います。憧れるとはもちろんミーハーな意味ではなく「ああ、こういう姿がやはり素晴らしいのだな」という感覚を持つことです。「魂の配慮」と「哲学」の本来の意味を考えれば、自分自身の魂のあり方についても哲学的なアプローチで「何が本来良いものなのか」を考えていくことが重要なのがわかります。

私たちは「自分の魂というものを配慮して生きる」ことにどれくらい真剣に向き合えているでしょうか。自分も含めて反省しなければいけないと思いました。

2400年たった現代でも

 この本を深く読み、私が感じたのはまず、ソクラテスの時代から2400年を経ても、現代社会で私たち人間は同じ問題に直面しているということです。豊かになり、情報が溢れる現代。むしろ状況は悪化していかもしれません。人は多くを持ち、多くを知れば知るほど、「不知の自覚」「魂の配慮」ができなくなっていると感じます。やたらと忙しく、たくさんの情報を詰め込むことが良いことだと錯覚し、「忙」の文字通り「心をなくして」いるのかもしれません。

 もう一つ。それは哲学の学びではよく出てくる言葉ですが過度な「相対主義」の危うさです。相対主義とは、「真理、価値、規範などが個人や社会、文化、時代などによって相対的に成り立ち、状況に応じて異ならざるを得ない」とする立場です。ここから、哲学においてこの相対主義は、人間の認識や評価はすべて「相対的」であるとして、真理の絶対的な妥当性を認めない立場を指します。簡単にいえば、「教育」「社会」「職場」「マナー」「ビジネス」など、どんなことでも、「状況に応じて色々なやり方があるよね」と考えるスタンスと言えるかもしれません。会社や職場でもよくありますね。

この相対主義的な考えは「耳障りも良い」ですし、何より自由な感じがして悪くはないような気がします。しかし、(ここは考え方にもよりますが)それでも「人として、社会として、組織として共通してこだわるべきところ」「共通規範や価値観にのっとってこれを全員が意識して守るから全体の自由も守られる」、そういうことってあるんだと思います。ここでいう規範や価値観は「ルール」で厳密に縛るものとはまた別です。例えば、ネット上での誹謗中傷や、表現の自由と称しての他者への感情的な攻撃、公共の場での騒音などのマナー違反などは、普遍的な価値観が共有されていないがために起きることかもしれません。そう考えると私たちは、ソクラテスに学びながら、「良いコミュニケーションとは」「良い意見発信とは」「良い社会コミュニティとは」という問いからスタートすべきだと改めて思います。

普遍的な価値に対する共通理解

 真理や本質的な価値などというものは絶対的で人が知ることなどできないというこの「相対主義」とつながる考えを「懐疑主義」と言います。社会も、政治も、経営も、ともすれば「相対主義」「懐疑主義」に陥りがちな気がします。AIをはじめとしたテクノロジーの進化によってますます「自由」の範囲が広がる現在、多くの企業人が「哲学」を学び直そうとしている理由もそこにあると思います。

 自分の専門である経営の文脈で言えば、今ほど「経営の哲学」が必要な時代はありません。「良い経営」がなければ「良い社会」は成り立ちません。日本がここまで平和で豊かな(今、色々な課題には直面してはいますが)国になった原動力は、大小様々な事業を率いた「哲学のある経営者」が多く存在したからだと私は思います。その結果、日本には400万社近い企業が存在し、それぞれが個性を発揮しながら地域社会や国のインフラ、人々の暮らしを支えています。多様な企業が共通の価値や規範を守りながら社会の中で成長してきた日本という国において、経営者と「価値観、規範」「哲学」そしてソクラテスの言う「魂の配慮」は一体であったと思います。

先人の努力のおかげで世界有数の豊かで安全な国になった日本。そこに「経営」「経営者」が果たしてきた力は計り知れません。実際、どれだけ天然資源や軍事力を持つ国でも日本のように「良い企業」「良い企業家(経営者)」に恵まれない国は極めて危ういです。他国の情勢を見ていれば、それは自明です。

「対話」の方法

 さて、「本当に良いとはどういうことか」という普遍的な共通価値を探ることを諦めないのがソクラテスの哲学だということを上記に書きました。「ソクラテスの弁明」から発展させて、西研先生の上記の書籍の後半から終盤はその「対話」の方法を詳しく教えてくれています。
 長くなってしまうのでここでは端的に書きます。西研先生が示す対話の方法は、大きくは以下の順序にならいます。

まず、命題、問い(「良い----とは何か」など)を最初に明らかにした上で、
1. 実例を出す 
2. 意味を確かめ、共通する要素を考える
3. 価値があるとされる理由を考える


の3つです。ポイントは最初に「実例」を提示することです。西研先生は、実例から始めることで「個々が持っている常識(思い込みや考え方とも言えるかもしれません)に縛られずに話し合える」と言います。19世紀のドイツの哲学者フッサールの「現象学」につながる考え方です。

 さらに西研先生は、他者理解から自己理解へ進む大切さを伝えています。「1. 自分の体験世界を言葉で見つめ直す  2. 他者の言葉から他者の体験世界を感じ取る 3.他者の体験世界に触発されて、自分の体験世界を新たに見つめ直す 4.互いの感じ方の違いと共通するものが見えてくる」という順序を経て、対話を通じた他者理解が自己理解につながるというのは私もとっても腹落ちしました。

確かに、私たちは人と議論をするときについつい「自分はこう思う」と言う自分の常識や意見を全面に出してしまいやすいです。そこを、しっかりと「命題、問い」を立てて、「自分の体験から言うと、良い----とはこんな状態、こんな気持ちになること」と伝える。さらに相手からも同様に「体験」を話してもらう。そこから共通点を見出すことができる。結果的に(完全に理解し合えないとしても)どこまでなら共通理解とできるかが見えてきそうです。

 西研先生は上記の著書でこう書かれています。

まとめてみると、哲学では『どの範囲までなら共通理解が作れるのか』『どの範囲からはそれぞれの価値観を認め合う領域になるのか』という区分が重要になってくるのです」(「別冊NHK100分de名著 読書の学校 西研 特別授業『ソクラテスの弁明』」より)

もちろん、全体主義思想とは全く違います。社会や組織の全体が「同じ」考え方に染まる必要は全くありません。ただ、人と一緒に生き、同じ目的に向かう上で、西研先生のいう「どの範囲までなら共通理解が作れ、どこからはそれぞれの価値観を認め合えるのか」の探索にトライすることは本当に大事だと思いました。

これらの考え方は、会社で、部門で、または小さいチームの中においても大切だし、すぐに活用できると思います。もちろん、教育の現場でも、クラスの中での対話でもすぐに使いたいです。

 最後に、橋爪大三郎先生は、「哲学とは、我々人間が言葉を使ってどう生きていくべきかということ」だという趣旨のコメントをされました。AIがなんでも考えてくれて、なんでも話してくれて、書いてくれて、管理してくれる時代。その行き着く先に「一部のトップの人間だけが考えている」などという状況を橋爪先生は「悲惨な社会」だと言われます。本当にその通りで、まさに様々な小説やSFでも描かれている全体主義、格差社会につながる危険性に満ちています。まさに橋爪先生が言われたように、私たちは哲学とその言葉によって、この流れに対抗しなければいけないと思いました。

 今回の勉強会では「誰にでも、すぐにでも取り組める哲学的な対話、関わり方」を学べました。このような「人間だからできる」「人間だから考える必要がある」ことから組織や社会全体を良くすることができるはずです。

リベラルアーツの分野は、ハウツー本には書かれていない「本当に重要な人間の知恵」を教えてくれますね。今回も学ばせていただいたことに感謝して。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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