ショパンの愛弟子リケのレッスン報告 その4
第1回レッスン 曲目:
プレリュード 作品28 第17番 変イ長調 (Prelude op.28, No.17 As-Dur)
プレリュード 作品28 第21番 変ロ長調 (Prelude op.28, No.21 B-Dur)
(以後牽引用に、扱われた曲名を挙げることにします。)
さあ、初めてのレッスンです。
ショパンからレッスンを許され、課題として「12のエチュード・作品10( 12 Etudes op.10)」といくつか別の曲を与えられたことは、「報告その2」でお話したとおり。
結論からいうと今回は、ショパンは課題だったエチュード・作品10の第1番を弾かせたあと打ち切って、自分のプレリュード・作品28.第17番を弾いて見せ、自分が弾いたのと同じように、演奏することを求めたのです。
全く知らない新曲の楽譜を初見で、しかもショパンの演奏から聴き取った曲想を込めて弾く、ということが何を意味したのかは、想像するに難くありません。
1.ショパンの演奏に魅了される
ひとの手が為す業には、何らかの技術が備わっていること前提となりますが、楽器の演奏はその最たるものだと思います。でも、リケの語るところによると、ショパンの場合はそういう話ではないようですね。
リケくらいに上達すると、技術がもうそれほど演奏の邪魔をしなくなるのだと思われますが、それがそのまま、芸術の自由な展開につながるものかどうか。ショパンの演奏は、リケの目をそういう方面に開いたのかもしれません。本当の名人(失敬!)であるからこそ、できる業なのですから。
2.初見譜でショパンの本質を教わる
ここまでくると、ショパンが色々とお見抜きだったことが判りますね。人の出逢いは、第一印象が大切だと言いますが、ひょっとすると音楽的な出会いは、最初の数小節で決まってしまうのかもしれません。
ジョルジュ・サンドと過ごしたマヨルカ島で、プレリュード・作品28に収録されている多くを作曲したショパン。でも、リケが知っているはずもない自分の新作を、初見で弾かせたのは、気まぐれではなかったはずです。
冷たい水に飛び込ませるのにも似て少々残酷でしたが、本当に実力と才能を見極めるのには、最適の方法なのかもしれません。読譜力、聴覚的記憶力、楽想の理解と再現力、技術的なテクニックの有無など、全てが白日の下に晒されてしまうのですから。
自分の演奏してみせたとおりに弾くように、というのはつまり、「ショパンによるショパン」が分かるかどうか。
人が演奏するうちに、巷に好みとして定着する「ショパン風」。リケだって知らない間に影響を受けていて、知っている曲を弾くとどうしてもそれが演奏に出るはず。
新曲を自ら弾いてみせ、それと同じに再現させるという行為は、そういった影響から解放された地平で、自分の音楽的スピリットを伝授するという、ショパンのオファーだったのではないでしょうか。
教えるということも、ここまでくると愉しみかもしれません。とくに弟子が素質に満ちている場合は。もっともこれは、ニワトリとタマゴのような関係なのでしょうが。
3.ショパンから最初の実用的助言を得る
こう終わるのは、レッスンのあったのが土曜日で、手紙を書いたのが翌週の水~金曜日だったからです。つまりすぐに、次のレッスンの描写に移るのですが、それはまた次回ということで。
さてあと、報告に出てきたロ長調 (H-Dur) の音階に関して、著者の註がありますので、引用しておきます。
(註)「ショパンは、黒鍵に対して指が自然なかたちでのる調性というこ とで、弟子たちに最初は、ロ長調の音階のみを練習させた。出典:アイゲルディンガー P. 34)」
これに関して、ドイツ語のWikipediaに関連写真がありました。信憑性は不明ですが、少なくともロ長調の右手は、ハ長調と同じように普通の指使いで音階が弾けこと、これは確かだと思います。
4.プレリュード 作品28 第17番 変イ長調という曲
ちなみに、プレリュード 作品28 第17番 変イ長調という曲についてですが、リケが課題にもらったということで、YouTubeで聴き比べました。
「人それぞれ」という表現がありますが、本当にそうですね。
でも「正しい」演奏、というのはあるのでしょうか?
あるいは、先生は、何を目指して指導するのでしょうか?
そして、その筋の権威たるコンクールの審査員の基準とは?
この辺りのことに関して腑に落ちないことの多いのが、ショパンであるように思います。音楽としての前提を満たしていれば、十人十色で良いんじゃないでしょうか?
ショパンらしい演奏(それが何かは別)が、本当にいいんでしょうか?
ショパンがリケに弾いて見せた第17番の曲、昨年秋のショパン・コンクールで、日本の小林愛実さんが演奏されたのを聴いたのですが、なんだかホッとしました。
さきに十人十色といいましたが、この曲にそれが一番現れるのは、曲の最後に再現するテーマに加えられる低音のAsでした。それを鐘の音と理解しても間違いではないでしょうが、ではどうしてここで鐘が鳴るのか、これが問題になりますね。
ある大家といわれる人は最後まで、これでもか、というほどの強音を続けるのに対して、小林さんは音量をセーブ。それも打ち方が単調ではなく、あとに続くフレーズに応じて、異なった色味を帯びているように聞こえました。それが日本の美意識に通じるように感じられて、ホッとしたのです。
では次回、具体的なパッセージに関する演奏指導もあるようなので、お楽しみに!