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「無」を映す益子焼の抹茶茶碗

「世界をどう見るか」

世界をどう見るかーそれは、宗教・科学・芸術・文学…すべての分野に共通する本質的・根源的テーマといえるでしょう。ある者は文章で、ある者は数式で、ある者は絵画あるいは音楽により自身が追究して掴み得た世界を表現しようと試みます。こと陶芸においては抹茶茶碗ほど作者の世界観が反映されるものはないと言えましょう。

茶禅一味ちゃぜんいちみ〉という言葉があります。それは「茶道と禅道が本質的に同一である」ことを意味する言葉です。

抹茶茶碗で表現される世界に分け入ろうとするならば、仏教で説かれる世界観は外せません。まずは仏教で〈世界〉がどう説かれているかを見てみることに致しましょう。

仏教の世界観

仏教では、私たちが見ている現象世界の基盤に肉眼では捉えられない真実の世界があるとされています。目にみえる存在は現象として生じたり滅したりしているように「見えている」仮初の世界で、その現象を生じさせている目には見えない世界こそが「生滅のない真実の世界」であると捉えています。

スティーブ・ジョブズが愛読したことで知られる禅のバイブル的な書籍『禅マインド ビギナーズ・マインド』では、その目に見えない世界は「無」と表現され、次のように説かれています。

『無を信じるということが必要である、絶対に必要であると、私にはわかりました。つまり色や形をなにも持たないもの、すべての形や色が現われる前に存在しているものを信じなければなりません。』

『無を信じるということは、誰にとっても必要なことです。しかしそれは、虚無という意味ではありません。なにかがある。そのなにかは、いつも、特定の形を取ろうと待機しています。その働きには、規則、理論、あるいは真実があります。これを仏性と呼びます。』

鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』松永太郎訳、サンガ、2016年、p238 p239

ここにあるように「無」とは、「何もない状態」ではありません。
むしろ、その逆で「無」はすべてのものを生み出す力を秘めています。この意味で「無」は万物の根源といえます。

「仏性」という言葉には、本来「仏の性質」という意味がありますが、ここでは、法則に基づいて存在や現象を生み出す「無」の働きを指しています。「存在を生み出す働き」を「仏の働き」と捉えているのです。

このように、目に見えない「無」の世界が何らかの法則に基づいて動くことで目にみえる現象世界を形作っているとしているのが仏教の世界観です。

禅では、人間は自己中心的な「我」の働きを抑えることで、この「無」の世界との調和が敵うとされています。結果、眼・耳・鼻・舌・身・こころ の感覚を研ぎ澄まされ、そこに「仏の働き」が現れるといいます。修行の目的は、このような形で心を整えることで「無」の世界に調和することです。それが「あるがままに生きる境地」と表現されます。

「茶禅一味」であるならば、茶道の目指すところも同じはずです。では、茶道において「無」の世界に調和し、あるがままに生きる境地に至ることはどのように考えられているのでしょうか?この視点から、茶道で大切にされている精神を見てみたいと思います。

和敬清寂わけいせいじゃく

茶道の精神を表す言葉に「和敬清寂わけいせいじゃく」があります。これは、茶の湯を学ぶ者が大切にすべき四つの心得であり、千利休が理想とした茶道の本質を示しているといいます。

一般的には、「和」は調和を、「敬」は敬意を、「清」は清浄を、「寂」は静寂を意味しますが、ここでは、仏教の世界観に基づいて、これらの四要素を「仏の働きの現れ」として捉えてみたいと思います。

〈和〉
「和」は仏教が最も重んじる価値観です。
それは、仏の働きを象徴するもので、人の心には「和やかさ」として現れます。
柔和な心は仏の働きによりもたらされます。
心が和やかな人が集まると調和の取れた「場」が出来上がります

仏教を学んだ聖徳太子は、

「和をもって貴しとなす。」

と十七条の憲法の冒頭に記しました。
和やかな心を持つ人が集まれば調和の取れた平和な国ができると考えたからです。

人々の精神の和が完成した平和な場は「仏国」と呼ばれます。

〈南方録〉という書物には茶の湯に関する思想や教えが記録されており、その中には

茶の湯の目的は小規模ながらこの世に清浄無垢の仏土を実現し、一時的の集り、少数の人ながら、ここに理想社会を作ることだ(後略)

鈴木大拙『禅と日本文化』北川桃雄訳、岩波新書、2022年、p135

という内容が含まれているそうです。
茶道の目的は、集う人々の心が仏様のように柔和になること、場が仏国土のように和やかになることです。

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繰り返しになりますが、仏の働きを集約すれば「和をもたらす」ということになります。個々人の心の「和」を完成させることで世界の調和、世界の平和を目指すのが仏教の骨子です。この観点で捉えますと、〈和敬清寂〉という場合、それぞれの要素は独立した概念というよりは、「和」という総論をを「敬」「清」「寂」により多面的に説明する構造になっていると私には思えます。「和」とは、「敬」であり「清」であり「寂」である、という構造です。

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〈敬〉
「敬意」というのは、本来、人間を超越した存在を敬う心です。自分を超える存在を認める心境とは〈我〉が滅した状態、謙虚さが備わった状態です。和やかな心には謙虚さがあります。それ故、他者も敬うようになり、心が通い合い、関係が調和します。場が和やかになるのです。

〈清〉
「和」には清らかな心が欠かせません。清らかな心とは無私の心です。「己の利」だけを追求するような汚れた心では「和」は成り立ちません。視座が「我」から「無」になりますと、眼・耳・鼻・舌・身・こころが清浄になります。自分の損得といった欲によらず、あるがままに物事を捉えられるようになります。このような素直な心により清らかな人間関係が築かれます。

〈寂〉
仏教では仏の境地を「寂滅相じゃくめつそう」といいます。それは無常観の先にある涅槃の境地、無の世界です。現象世界は生滅という変化が続く無常の世界です。この無常の世界に執着することが人間の苦しみの原因と仏教は説きます。この変化する無常の世界から離れ、「無」の世界に至ることで心には静寂が訪れます。涅槃の境地は究極の安らぎの境地です。

空を見れば空と一体になり、鳥の鳴き声を聞けば鳥の鳴き声と一体になり、雨が降れば雨と一体になります。過去を悔やんでクヨクヨしたり、未来を思い悩んで不安になったりすることはなく、今、ここにある一瞬に生きるようになります。このような「自然の摂理との調和」も仏の働きによりもたらされる「和」ということです。

〈和敬清寂〉は茶の湯で目指すべき心の状態を言ったものですが、それは言うなれば、感性を研ぎ澄まして「無である仏」と「仏の働き」を感じ取り、「仏の心」と共鳴し一体となる境地でありましょう。

人間には自然の風景を見て心震わせる瞬間があります。沈みゆく真っ赤な夕日を見た時、高い山の上から雲を見下ろした時、さなぎが蝶になるのを見た時、花の蕾を見つけた時…心がジーンとすることがあるでしょう。深く静かな感動に涙が溢れることもあるでしょう。心は〈真実〉に触れた時に振動するものです。〈真実〉とは普遍的なもののことです。自然の営みは普遍的な自然の摂理をそのまま体現しています。だからこそ人間は自然の風景の中に仏と仏の働きを心で感じ取るのです。

大岡勝好の抹茶茶碗:「無」からう生まれる造形

仏教の世界観について一通り見たところで、今度は、抹茶茶碗について考えてみたいと思います。「よき抹茶茶碗」とはどのようなものなのでしょうか。その答えを大岡の作陶から探ってみましょう。

大岡に抹茶茶碗を作る時の心境を聞いてみました。

抹茶茶碗を作っている時は、「無」になり、体、手を粘土に任せて動かします。自分の考えを入れないでろくろを挽く感じです。抹茶茶碗以外では考え考えろくろを引くことが多いですが、それとはまったく別の作り方です。

大岡にとって抹茶茶碗を作ることは意識的な創造ではなく、自然に身を委ねる行為のようです。考えるのではなく、感じる。形を決めるのではなく、粘土の声を聞く。その瞬間、大岡は「無」と一体となり、手はただ自然に動いていくのでしょう。

と、言葉にはしてみたものの、とても神秘的に感じます。経験した人だけがわかる境地なのでしょう。

さて、「よき抹茶茶碗」についてですがー形態的な良さは個人の好みなどで評価が分かれるかもしれません。しかし、本質的には、「無」の世界から生まれたもの、「無」を映し取ったようなものが「よき抹茶茶碗」といえるのではないでしょうか。作り手の個人的な意思を超えた「仏の働き」による造形が宿っている、そのような茶碗に出会えたら、心が震えるに違いありません。

大岡の抹茶茶碗

それでは、ここで大岡の作品をご紹介させていただきたいと思います。

益子伝統釉 黒茶碗 晩秋|2017年 / Captured by Ooka

こちらは、「今年の漢字」で有名なお寺からのご依頼で作らせていただいた抹茶茶碗です。

「益子焼らしい抹茶茶碗」というご依頼だったため、益子焼伝統の色である、「黒釉こくゆう」と「柿釉かきゆう」を使うことにしました。

大岡談

印象的な色ですね。特にこの「赤茶色」というのでしょうか、名前通りの「完熟した柿の色」が印象的です。

どのように作られるのでしょうか?

この柿釉の原料になるのは「芦沼石あしぬまいし」という石です。以前は益子で採れました。成分としては大谷石に近いです。

芦沼石

僕の曾祖父である大岡徳三郎は石屋で、この芦沼石に模様を彫刻していました。家や蔵の壁に使うためのものです。その曾祖父の残した芦沼石をハンマーで砕いて、ふるいにかけて水を加えて柿釉を作りました。

Captured by Ooka

益子という土地に根ざした素材、しかも曾祖父様ひいおじいさまの残された石が使用されているのですね。新しく生まれた抹茶茶碗ではありますが、すでに長い歴史が刻み込まれているようです。

使われている素材のせいなのでしょうか。自然の風景の中にスッと溶け込みます。
茶道の心得のある方は、お使いになる時にこのような雰囲気も感じ取れるのかもしれませんね。

「和」をもたらす抹茶茶碗でありますように

先ほど、茶の湯の目指す精神として〈和敬清寂〉について書きました。この〈和敬清寂〉という精神性を踏まえますと、使われる抹茶茶碗も「和」をもたらすものであることが理想です。

ここでふと常日ごろ大岡が言っている言葉を思い出しました。

僕は人を笑わせることが好きなのです。

ー「人に微笑みをもたらし場を和ませる」…これは「和」をもたらすという「仏の働き」ではないだろうか…。

当然のことながら、大岡が抹茶茶碗を作る時に「使う人を笑顔にする」ことは特別意識してはいないでしょう。しかし、大岡の「あるがままの人柄」が自然に茶碗に投影されていることは間違いありません。

「抹茶茶碗は使われることで完成する」というお話を聞きました。ここには、作り手と使い手の感性が「調和」した時に、茶碗に込められた「働き」が開花するという意味も含まれているのではないかと思います。大岡の茶碗に宿った「和気」が茶室で花開くと良いな、と願います。

・・・

「人が世界をどう捉えるか」という世界観は、年を重ねる毎に変化してゆくものです。

抹茶ではなく煎茶に関する言葉ですが、

甘味 苦味 渋味(青春は甘く、中年は苦く、年を重ねて渋味がでる)

松原泰道『禅語百選』、祥伝社、p102

という言葉があります。

この先、大岡の作る抹茶茶碗はどのように育まれていくのでしょうか。その世界観の広がり、深まり、茶碗から醸し出される和敬清寂の趣の移ろいを楽しみに見ていきたいと思います。

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