スピードと完璧性のトレードオフ ビジネスサイエンス VS アカデミックサイエンス
僕はアメリカの製薬会社で働く日本人研究者です。新薬を開発して世に出すのには通常10年以上のとても長い時間がかかります。
大学など研究成果のクオリティの完璧性が求められるアカデミックサイエンスに対し、製薬会社の研究開発はスピードが求められるビジネスサイエンスです。どのようにスピードと完璧性をトレードオフして新薬プロジェクトを加速させたかの経験のお話です。
印象に残るキックオフ
ある画期的新薬のプロジェクトを担当することとなり、そのキックオフミーティングに部署代表として参加しました。ミーティング参加者は最初にF1レースのピットストップでのタイヤ交換のビデオを見させれられました。50年前と現代の比較です。50年前は、1人の整備士が固定されたネジをトントンカンカン外しながら、一つずつ交換していきます。40秒くらいかかってようやく最初のタイヤの交換が終わりました。2つ目のタイヤはかなり要領よく交換できましたが、それでも20秒かかりました。1分以上かかかって、4本のタイヤのうち2本だけを替えて、車はピットを出ていきました。
そして次は50年を経て現在のタイヤ交換。車が入る前から十数名のチームメンバーがスタンバイしています。車が入ると同時に全メンバーがそれぞれの仕事を一瞬でこなし、4つのタイヤすべてがあっという間に交換され、たった2秒で車はピットを出ていきました。50年前はタイヤ2本替えるのに60秒以上かかっていたのが、現在では4本を2秒間で替えてしまう。単純計算でタイヤ1本当たりの交換時間を60分の1に短縮してしまったのです。
https://www.youtube.com/watch?v=RRy_73ivcms
スピードだけにフォーカス
その後、ブレーンストーミングが始まります。
課題は、とにかくスピードだけにフォーカスしたら、画期的新薬研究・開発のプロジェクトがどれだけ短縮できるか?
・コストは気にするな。金は無限にあると思え。
・人員は気にするな。何人でもチームメンバーとして働いてくれると思え。
・他部署のことは気にするな。全面的に協力してくれると思え。
・社長となったつもりで誰もが何でも言うことを聞いてくれると思え。
さらには
・前例や標準は気にするな。非常識も何でも受け入れられると思え。
・失敗・リスクは気にするな。どんな失敗・失態も許されると思え。
まずは、スピードだけにフォーカスして、その他の一切の要素を排除して、各自究極の超最短計画を作るのです。
そしてバトル
各自究極の超最短計画を作るとそれを発表し合ってバトルが始まります。
トキシコロジストの僕の仕事は、ヒトの臨床試験で新薬を試す前に、細胞組織や動物で十分な安全性を確認する非臨床安全性評価というものです。僕の場合も、究極の最短計画で通常1年半~2年かかるヒトの臨床試験を開始できるまでの評価期間を、3ヶ月にまで短縮できる案を作り上げました。
もちろん、そんな究極の最短計画を作れば、さまざまな歪みを生みます。
・情報不足なまま同時進行させるので、研究開発に必要な新薬の見積もり量が大雑把な概算となり、通常の10倍の量を合成部に依頼することになる
・他のプロジェクトの3倍の数のチームメンバーを専属でつけてもらう
・委託機関に土日も休まず働いてもらうように、他社の倍の金額で委託する
などなど
発表しあっている間はブレーンストーミングなので、聞く側は我慢して発表を中断しないように黙っています。しかし、聞く側の誰もがすでに発表者の言いたい放題の超最短計画にアドレナリン出まくり状態となっています。
各部の発表が終わると、バトルの開始です。「そんな計画できるわけないだろ!」「お前の部署がそんな事したら、俺たちの部署はどうなるんだ?10倍のコストと人員が必要になるぞ!」などなど
雨降って地固まらず
バトルによりたくさんの問題点が提起され、各自が出した究極の最短計画はズタズタになります。もちろんプロジェクト全体を網羅するタイムラインなど立てられる状況には全然至りません。
短時間ブレーンストーミングしただけで、緻密な案が立てられるわけないし、問題提起だってその場限りで思いついたもので、すべての問題が網羅されているかはかなり怪しいものです。
しかし、この乱暴なブレーンストーミングとバトルで、リスクをとってスピードを楽しんでいいというスピリッツが各個人だけでなくチーム全体まるごとに潜在意識として刷り込まれた気がしました。
そしてその後、本プロジェクトは、通常10年以上かかると言われる新薬の研究開発を、たった3年で達成できたのでした。思い込みの力、調子に乗ること威力は本当にすごい!
スピードと完璧性のトレードオフ
僕の仕事はビジネスサイエンスなので、プロジェクトで問題が生じた時、スピードとクオリティのバランスを意識してデシジョンをするようにしています。チームの仲間にはさまざまな研究者がいます。プロジェクトを早く進めて新薬を世に出したい、必要とする患者さんにいち早く届けたいと思っているスピード重視のビジネスサイエンス寄りの人。一方、サイエンスをとことん追求したいと考えているクオリティ・完璧性重視のアカデミックサイエンス寄りの人。だれもが両方の要素を持ちながら、各自さまざまなスペクトラムの中にいます。問題が起こるとビジネスサイエンス寄りの仲間、アカデミックサイエンス寄りの仲間がさまざまなアイディアを出してくれます。
このプロジェクトのラットでの安全性試験で腎臓に毒性を示すことがわかりました。アカデミックサイエンス的発想でこの問題を解決する場合、さまざまな実験や最新テクノロジーを駆使して、薬がどのように腎臓に作用して毒性を起こしているかを検討することになります。すなわち、メカニズム解明です。一方、ビジネスサイエンス的発想でこの問題を解決する場合は、これは新薬を必要とする患者さんで本当に問題になるものかどうかを検討することです。すなわちリスクマネージメントです。
僕はこの時、ビジネスサイエンス的発想でデシジョンを行いました。ラットの毒性がどのようなメカニズムで起こるかは解明できていません。しかし、必要とする患者さんにとって深刻なものにはならないというリスクマネージメントは十分にできていることを重視しました。もちろん、安全性の問題なので、スピードだけを重視して、クオリティを全く無視したら大きな問題になります。こんな時、最も妥当で後悔しないデシジョンを行うためにすべきことは、大局的に俯瞰して最も大切なステークホルダーを意識することです。本件では、他に治療法がない、この新薬を最後の希望として待っている患者さんが最も大切なステークホルダーです。少々乱暴な言い方ですが、患者さんにとっては、ラットで起こっている毒性のメカニズム解明なんてどうでもいいのです。ただ、それが患者さん本人には問題を起こさないこと、万が一起こっても軽度の段階で見つけられて対処ができるかどうかのリスクマネージメントが大切なのです。実際にこの問題の場合、ラットの毒性は、ヒトの患者さんが治療に用いる曝露量を遥かに超えたところでしか起こらないものでした。ラットよりヒトに近いイヌの腎臓では毒性を起こしません。臨床試験に参加した患者さんでこれまで腎臓の毒性が問題になったこともありませんでした。万が一腎臓の毒性が起こった際にすぐ見つけられる検査体制もできていました。メカニズム解明はできていないけど、リスクマネージメントはしっかりできているのです。
メカニズム解明のための素晴らしいアイディアを出してくれた仲間も、そのアイディアは却下されてしまいましたが、最も大切なステークホルダーの立場に立って考えた末のデシジョンであれば、納得してくれます。
上記は本プロジェクトで起こったたくさんの問題の中のたった1例です。当然、さまざまな部署で予期せぬ問題は同様にたくさん起こりました。しかし、プロジェクトチーム全体にリスクを取ってスピードを楽しもうというスピリッツが潜在意識として刷り込まれたため、どの部署も遅れを取ることなく、これまでにない短期間で画期的新薬を世に出し、必要とする患者さんに届けることができたのでした。
矛盾しているようですが、ビジネスサイエンスにとって、アカデミックサイエンス寄りの研究者は超大事です。ビジネスを度外視し、誰もがブッ飛ぶ非常識な発想から生まれるクリエイティビティが重要なバイオテックジャパンの世界において、次の画期的新薬の種を撒いてくれるのは、極端にアカデミックサイエンスに寄った研究者だからです。まさに多様性が求められる時代ですね。
最近、kuuie | 質問力マニアさんの記事でショッキングに感じたことが、日本の会社で求められる能力の第一位が2015年の時点で「注意深さ・ミスがないこと」だと知ったことです。おそらく、現在のビジネスでは、リスクを取って常識を疑いクリエイティビティを発揮する人材が重要とは、わかっているのでしょうが、いざ自分の会社での雇用を考えるとなると、無難に「注意深さ・ミスがないこと」に注目してしまう、ちょっと寂しい結果になったのかなと思ってしまいました。今後、失敗を恐れずクリエイティビティを発揮するクセ者を果敢に求める会社が多くなっていくことを期待してます。
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