中澤勝之(k.nakazawa)

元印刷会社。元広告代理店。現在はフリーランスとして、広告や広報などのアドバイザーとして活動中。自分史活用アドバイザーとしても。

中澤勝之(k.nakazawa)

元印刷会社。元広告代理店。現在はフリーランスとして、広告や広報などのアドバイザーとして活動中。自分史活用アドバイザーとしても。

最近の記事

野村克也さんを偲ぶ

本日楽天生命パーク宮城に伺い、 献花してまいりました。 私がプロ野球を初めて生で観戦したのが、 今の楽天生命パークである宮城野原球場の南海ロッテ戦だった。 当時野村克也さんは選手兼監督であり、 試合前のノックでライトに打ったらフェンスを越えてしまい、その時に野村監督が 「いやぁ、今日は一発出そうだな」と大声で叫んだ。ファンは大笑いだったが、実際の試合で本当にホームランを放ったのだった。 その衝撃はまだ幼稚園に入る前の私だったが、身震いがあり、とても感動をしたものだった。

    • 自分史〜私には初恋がありません

      転校して半年近く経ちながら、 クラスではなかなか話しもまともに出来ず、 特に女子は席のまわりぐらい。 相変わらずのイジメ言葉もありながら、 なんとなく過ごす日々だった。 家が近所で、転校初日から面倒をみてくれた 同級生の男子から、 「ある女の子が交換日記をやりたいと 言っていて、それだけでもやってくれない?」 という話しが。 正直、クラスメートの女の子なんか まだ全員の顔と名前が一致しないぐらい 付き合いのない環境だったので、 ちょっと不思議だったが、 日記ぐらいならと安易

      • 自分史〜陰湿な。。

        転校初日からアクセントがオカシイ、 皆と違う制服や体操服等で 指を指して笑われる。 外見からも、 「デコが割れてる」等から始まり、 (赤ん坊の頃に頭蓋骨が安定せずに、 その影響で線が入ったらしい) まぁ、よく色々な事を見つけるものだと思うほど、様々なイジメワードのオンパレードの日々が続いた。 自宅に帰れば、 親がいない時を見計らうように 無言電話やイタズラ電話。 幸い身体が大きかったので、 暴力という行為はなかったが、 毎日が疲れる。。。 クラスでも、 ほとんど話し相

        • 自分史〜息苦しい転校

          学年主任の先生の言葉が 頭の中でぐるぐる回っている状況で 初の登校。 前の学校と違って、 皆が制服を着て登校している。 なんとなくだが、 やっと普通の通学風景だと 感じながら歩いていると 「そこの! なんで学帽をかぶっていない! また、通学用のリュックを しょっていないんだ‼️」と 大きな声で怒鳴られる。 えっ、 私は転校初日で全く知らないのですが。。 一応事情を説明するが、 まわりにも聞こえるぐらい大声で怒鳴った手前、引きかえす事も出来なかったらしく、 「ちゃんと説明がな

          自分史〜仙台へ

          6月頭。仙台に引っ越し。 現在の仙台市泉区(泉市)に住む事となった。 すぐに役所に行き転校の手続き。 「明日にでも学校に行って下さい」 という話から、母と学校へ。 入学以来着用した学生服で向かうと、 すごく静か。。 あれ?開いていない。 ぐるりと校舎を回ってはみたが、 どこも施錠されている。 家に帰って役所に電話すると、 「今日は中体連の振替休日ですよ。 何故行ったのですか?」と。 気持ちの中で、 しょっぱなから不安しかなかった。 翌日、母と再度訪問。 すぐに校長室に入り

          闘(糖!)病生活〜食事

          入院中に そもそもの食事の量を減らしなさい という指導があり、 それはそれで努力するが、 そこには大きな落とし穴があった。 量を減らしなさい▶︎これは以外に簡単 間食は避ける▶︎元々あまり ここまではOK。 しかし、 バランス良く食べる= 一回の食事で、様々なものを食べる これが難しい‼️ 例えば、今まで朝ごはんは ◯食パン1枚 ◯牛乳コップ1杯 ◯目玉焼き ◯ヨーグルト だったが、、 ◯牛乳とヨーグルトが一緒はNG ◯朝からサラダ ◯もちろん肉や魚も ◯果物も いやい

          闘(糖!)病生活〜食事

          自分史〜異性への思い

          中学に入学する頃になると やはり異性への関心は出てくるもの。 後術で仙台の生活を始めてすぐに、 人生に関わる出来事があったので、 ここまで自分はどうだったのか 考えてみたい。 一番はじめに異性と仲良く、 いや想いを持ったのは、 やはりエレクトーンをはじめたきっかけとなった勝利君のお姉ちゃんだったのだろうか。 もし、そのお姉ちゃんに興味が無かったら、 エレクトーンはやっていないだろうし。 幼稚園では、毎日遊んでいた女の子がいた。 あまり綺麗や可愛いという子ではなかったとは思う

          自分史〜異性への思い

          自分史〜たった2ヵ月

          中学に入学し、部活も入り、 毎日片道50分かけて(せっかく買った制服は入学式しか着ていない)、朝練もあるから5時前には家を出て通う生活が始まり、ようやく新しい生活リズムが心地よくなってきたGW頃。父から引っ越しの話しがあった。 父の会社が地域分社化する事となり、 管理職以外は出身地の勤務となったのだ。 父が母が、私以上に落ち込んでいた記憶がある。初めて購入した家を手放さなくてはいけない事もあったかもしれない。祖父母との生活が落ち着いたからかもしれない。あとから気づいた事だが

          自分史〜たった2ヵ月

          自分史〜部活動選び

          入学した中学校は 校舎の造りが面白く、 廊下はもちろんだが、ベランダもワンフロアが全て繋がっている校舎で、授業による教室移動はほとんどベランダで。廊下を使うのはフロアを変える=階段を使う時だけという建物だった。 休み時間になると、 先輩達が皆ベランダから部活の勧誘。 廊下と違って全てが窓なので、 誰がどのクラスかは、すぐわかってしまう為に、隠れる事は絶対無理。 小学校時代の情報は全て知られている事もあり、沢山の部活動から勧誘があった。たぶん、勧誘されなかったのは卓球部と科学

          自分史〜部活動選び

          自分史〜中学生

          色々悩んだ末に公立の中学校に入学。 自分の中で成島先生への思いもあり、 小学校の先生になる夢を追いかける事もあり、 私立の寮に入るよりも、 沢山の様々な人達と出会える公立が、、 なんていう浅はかな考えもあった。 入学式。 体育館の後ろから、 上級生の間を歩いて前の席へ。 気のせいか、中学の剣道部の先輩ばかりが 通路にいる。間を歩くと、先輩達が足を出して、私を転ばそうと。。。 まぁ、小学時代の剣道の大会は 必ず中学生の大会ともセットだったので、 皆知った顔ではあったので。。

          自分史〜卒業/小学校

          いよいよ卒業。 学校が入学から3校も変わり、 正直言えば友達なんて出来ないと思っていた。 今(50歳)になって、 自分自身の問題でもあるが、 誰も連絡が取れない事になっているが、 でも考え方によっては、 まわりの人以上に沢山の人達と 出会え、楽しめたのかもしれない。 小学校の卒業式は、 今とは違い中学の制服を着て参加だった。 式そのものの記憶はあまりないが、 当時は「金八先生」のドラマの影響で 彼方此方で「贈る言葉」や「人として」を 合唱するという話があったが、 それはなか

          自分史〜卒業/小学校

          自分史〜最初で最後。バレンタイン。

          1年間一生懸命に生きたご褒美(?)の バレンタインデー。 1カ月間ぐらいからクラスの女子は、 なんとなくソワソワ。 中には、私はあなたにプレゼントするから!なんて宣言する女の子や、あからさまに編み物まで始まるような女の子も。。 正直バレンタインにはほとんど縁がなかった私だったが、今回は予感があり、通学用のショルダーバッグに紙袋を(4年からランドセルはやめていた)。 私は学校で一番の登校する児童だった。 学校に着いたらグランド5周走って職員室。 その後は担当の先生と学校の鍵開け

          自分史〜最初で最後。バレンタイン。

          自分史〜中学受験

          毎日バタバタの6年生。 そんな中でも、中学進学では日々悩んでいた。 地元にラグビーの強豪で有名な 中高一貫校の私立の学校があった。 毎年学校では、2〜3人ほどは進学しており、 私も進学(受験)をするのだろうと 思われていた。 実際、秋からは毎週のように職員室に呼ばれ、 先生達からは受験すべきではと、 言われていた。 当時の公立に進学すると 校則で坊主頭、そして自転車通常。 自転車はギア変速無しの通学用と決まっており、片道50分もかかる。私立なら長髪OK(スポーツ刈りだったけ

          自分史〜コンサート

          夏休み。 午前、午後と両方とも水泳大会の為の練習があったが、腰に出来たコブシ大の腫れ物の為に、午前は休み、午後から学校のプールへ。 あれ、静か?? 普段ならプールサイドで皆が弁当を食べているから大騒ぎ。でも何も聞こえない。 プールサイドに行ってみると、水が無い! 慌てて職員室に行くと、 成島先生から、 「午後はプールの清掃の為に休み。 いいところに来た。プールの清掃を手伝え!」と。 若い先生数人と私、そして成島先生、 合わせて5人ぐらいだっただろうか。 皆で水を抜いたプールを

          自分史〜コンサート

          仙台とプロ野球と私

          金田正一さんの訃報を聞き、 また今日、東北楽天ゴールデンイーグルスの今シーズンが終わった。 そこに、嶋選手退団濃厚報道が。 私が初めて野球を生で観戦したのは 仙台の宮城野原球場でのロッテ南海戦だった。 まさに金田正一さんが監督であり、 その年にロッテは優勝をした。 その後仙台からロッテは離れて、 長年の間、プロスポーツ不毛の地となる。 私も社会人になった時に、 当時の仙台市の職員の方から相談があり、 数年にわたって、仙台市にプロ野球を招致する為の基礎調査を実施していた。

          仙台とプロ野球と私

          自分史〜超多忙な6年生

          様々な体験をさせてもらった1年だった。 まず委員会活動。 その名も「集会委員会」。 学校行事である毎週の全校集会、学年集会、 季節毎に開催される、 こいのぼり集会や七夕集会、クリスマス集会等の運営や進行を行う委員会。 児童会が普通の学校なら行うのだろうが、 児童会は別に様々な仕事がある(確か副会長だった)ので、集会の運営を担当する委員会だった。司会はもちろんのこと、校歌斉唱の伴奏、退場の際のマーチング演奏等も全てこなす。 これが毎週開催されるのだから、 朝も人よりも早く登校し

          自分史〜超多忙な6年生