滅びの呪文
幼稚園のころ。泣いているぼくの前に現れたその男は、ぼくに「滅びの呪文」を授けた。世界を滅ぼすというその呪文、それは発音することの難しい呪文だった。ぼくは、再現できないその呪文を支えに生きてきたが、クリスマスが近いある日、悲惨なニュースを目にして——。
小説家になろうサイトの、しいなここみ様の「冬のホラー企画2」参加作品です。
ぼくは、滅びの呪文を知っている。
もう何度も唱えようとした。
でも、うまくはいかなかった。
あれは、幼稚園の頃だったと思う。
仲間はずれにされ、ウサギ小屋の後ろで泣いていたぼくの前に、そいつは現れた。
黒い男。
そうとしか言いようがない。
暗闇がそのまま人の形をとったような、そのものは、いつの間にか、ぼくの前に立っていた。
「滅びの呪文を授けよう」
と、そいつは厳かに言った。
「この呪文を唱えれば、世界は滅ぶ」
世界が滅ぶと言うことばの意味は、その時の自分には難しかったが、つまり、何もかもがなくなるということだと、ぼくは理解した。
「呪文は、こうだ——」
黒い男が、ぼくの頭の中に、呪文を押しこんだ。ぼくの頭の中に、その呪文が鳴り響き、そして脳には呪文が深く刻みこまれたのだ。けして忘れてしまうことなく、永久に。
いつでもぼくは、脳内にその呪文を再現できる。
その時、ぼくは、頭の中で再生される呪文を、思わず口に出していた。そっくりそのまま。
そして、戦慄した。
今、滅びの呪文を唱えてしまった! と。
——何も起きなかった。
砂場では、ぼくを除け者にした連中が、笑い声を立てて遊んでいた。
ウサギ小屋の隅では、ウサギたちがおびえたように、かたまって、こちらを見ている。その耳が、ぴくりと動いた。
「なあんだ」
ぼくは、半分はほっとしながら、つぶやいた。
「何も起きないじゃん」
ぼくは、それから滅びの呪文を抱えながら、生きてきた。
ぼくは何度も、滅びの呪文を唱えてしまった。
とんでもないやつだと思われるかもしれない。
ただ、実のところ、いくら唱えても滅びの呪文が発動しないだろうという確信が、ぼくにはあったのだ。
滅びの呪文の一部に、どうやっても人間には発音できそうにない音があって、それが再現できない限り、呪文は完成しないのだ。なんて形容したらいいのだろう、舌が痙攣するような巻き舌音と、喉の奥で血が溢れるようなゴボゴボ言う音を組み合わせた、その音。ぼくは一度だって、それに近い音でさえ、出せた覚えがなかった。
だからぼくは、滅びの呪文がその力をふるわないことを分かっていて、呪文をとなえていたのだ。
でも、それが、弱いぼくを支えてくれていたのかもしれない。
ぼくは(発動しないけれど)滅びの呪文を知っている。
その気持ちが、ぼくを生き延びさせてきた。
ぼくは、なにかあるたびに、呪文を唱えた。
自分が味わう理不尽。
ぼくの周りの人が味わう理不尽。
ニュースで目にする、他国の人びとの苦難。
そんなものを目にするたび、もういっそのこと、こんな世界など、もろともに滅びてしまえ、そんな気持ちで(しかし、それがけして実現しないことに安心しつつ)滅びの呪文を唱えるのが、ぼくの日常だった。
今日も、ニュースで、戦火のもと、家族を、家を奪われて、逃げまどう人びとを見た。
クリスマスが近いというのに、その土地に安心はなかった。
真冬の極寒の中、瓦礫と化した街。
灰に塗れ、服もぼろぼろで泣き叫ぶ少女が映る。
ぼくは、滅びの呪文を唱える。
それは、もう、ほとんど無意識のうちにぼくの口から滑り出してくる。
呪文を唱えているうちに、ニュースのシーンが切り替わる。
そこに映っているのは、先ほどの少女だ。
少女になんとか救援の手が伸び、毛布をかけられた少女は、その懐に犬を抱いていた。
少女は、自分の悲惨にもかかわらず、おそらくこれも戦火を逃れたのだろうその犬を、慈愛の目でみつめ、やさしく撫でている。その気高さ。
ああ、そうなのか。
今、呪文は必要ない。
と、そのとき。
るらっ。
呪文を唱え続けたぼくの舌が、するっと滑り、
ごぶっ。
喉が鳴って。
およそ考えられないような低い確率が成就し、人間にはできないはずの発音がぼくの口からこぼれた。
滅びの呪文が完成してしまう!
やめて!
そんなつもりでは!
頭の中でぼくは叫んだ。
しかし、ぼくの口は、滅びの呪文を唱え続けることを、けっしてやめてはくれなかった。
何かが砕ける甲高い音が、世界のあらゆる場所で鳴りひびいた。
あなたは、その音を聞く。
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