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岐路
男は死の床についている。命の炎が消える瞬間が近づく。混濁した意識の中、男は自分の人生の岐路に立ち戻る……。
老いた男は死の床に就いていた。
生の終わりがすぐそこまで近づき、脳の機能は低下して、意識も混濁している。
その全てがバラバラになり、ほぐれて消えていく混沌の中で、時折、男の思考が筋の通った流れを形成する。
男は思った。
あれが、私の人生の分岐点だったな、と。
それは大学4年の終わりだった。
下宿に電報が来た。
「チチタオレルシキユウレンラクコウ」
彼の家は、地方の小さな町で、工務店を自営していた。彼が小学生の頃、父が興した会社だ。彼は、父が高度経済成長の中、独立して、ひたすら働き続けるのをずっとみてきた。
一人っ子である彼は、いつかは家を継がなければならないのだろうな、と漠然とは思っていたが、それまでの父は病気一つしたこともなく、社長として精力的に働き続けており、彼にはまだ時間があると思っていたのだ。
だから、父には、今は好きなことをやらせてくれと頼んで、大学の仲間と音楽にうちこんでいた。フォークソングが世の中を席巻しはじめる頃だった。
そして、彼にはいくばくかの才能があったのだ。
「大学を卒業したら、君たちは上京してもらうよ」
彼の音楽はあるプロデューサーの目に留まり、メジャーデビューの話が決まりつつあった。
父が倒れたのはまさにそんなタイミングであった。
彼は選ばなければならなかった。
家に戻り、父の仕事を引き継ぐのか。
それとも、このまま音楽の道を進むのか。
父は、病院のベッドで、お前の好きなようにすればよいと、よく回らない口で彼に言った。
あれが、私の人生の分岐点だったな…。
彼は思った。
思いながら、また、おぼろな闇が彼の意識を覆っていく。
そして、暗闇から浮かび上がるように記憶の断片が明滅する。
「あれ、社長、何見てんすか」
「ん……まぁな」
「ああ、そのバンド、最近またTVでよく見ますね。ずっと売れなくてもう解散するって話だったけど、起死回生のヒットが出たんですよね…わからんもんですね」
「確かにわからんもんだな」
彼は、自社ビルの窓から、目を遠くに向ける。
青空。
何十年ぶりだろうか。
新幹線を乗り継ぎ、帰ってきたその場所は、大きなマンションになっていた。
かつてはそこに、「鈴木工務店」と看板のかかった父の店があったのだ。
家を継いでいれば、そこにはまだあの建物は残っていて、いやあるいはもっと立派なビルか何かになっていたのかもしれない……だが、もはや。
彼は目の前のマンションを見上げ、そしてマンションのベランダのそれぞれに、大勢の人びとの生活のさまをみた。
デパートの屋上の即席ステージ。
無造作に並べられた、パイプ椅子の客席はまばらだ。
親子連れで買い物に来たのだろう、小さな子供が奇声を上げて通路を走り回る。
もちろん楽屋などあるはずもなく、彼は仲間とステージ脇でずっと出番を待っている。
照りつける日射しに、汗が滴る。
彼は手の汗を、ジーンズの腿で拭った。
カンカンカンと、ものを打ちつける音が現場に響く。
「安川、そこはスレートが違うだろう! ちゃんと確認しろよ」
「すみません、社長」
社員を叱責する彼の声。
「やれやれ」
彼は額の汗を、作業衣の袖で拭った。
あがったばかりの、父の新曲アルバムのLPジャケットを渡され、両手で抱えて嬉しそうに笑う、まだ幼い娘を、笑みを浮かべてながめる彼。
新しく建つ自社ビルの地鎮祭、更地となっている建築予定地に妻と子と従業員とともに並び、神主のお祓いをうける彼。
これが、俺の息子か。
彼は、妻淑子に抱かれた、生まれたばかりの赤ん坊を見る。
この子はどんなふうに生きるのだろう。やがて、俺の仕事を継ぐのだろうか? それともなにかやりたいことを見つけるのだろうか。
気が早い自分の思いに気付き、彼は苦笑した。
これが俺の娘か。
彼は、妻美千代に抱かれた生まれたばかりの赤ん坊を見る。
この子には、どんな未来があるのだろうか。どんな才能があるのだろうか。音楽がやりたいと言いだしたらどうしようか?
そろそろ社長も身を固めるのはどうですか。私の友人の娘さんなんですが、気立のいい子がいるんですよ……。
あ、あの、わたし、ファンなんです!
父の仕事を継ぐことになりました。ご指導ご鞭撻のほどを……
ぼくたちのデビュー曲、聞いてください……
明滅する切れ切れの記憶の中、
彼の命は、刻一刻と尽きていく。
呼吸も、もはや死戦期の下顎呼吸となる。
ああ、もう目が見えない……。
だが、自分の周りには家のものたちがいて、喋っているらしいことだけはわかる。
……おやじ!……(ああ、息子が)
……おとうさん!……(娘が泣いている)
あんしんしてくれあんしんして店は歌はおれがわたしとむすめがちゃんとちゃんとやるからおやじはおとうさんはなんにもなにもしんぱいしないでいいから……
意識がついに消えるその最後に、彼が思ったのは、自分が選んだのはいったいどちらだったのか、それとも両方を生きたののか、もはや区別はつかず、しかし彼にとってはどちらも本当だったという満足感とともに、彼は。
(了)