デリリウム
末期の癌を患う僕は、緩和病棟に入院する。精神科医が、緩和ケアスタッフとして、僕のところにやってくる。日に日に僕の病状は悪化し、譫妄が生じて——。
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delirium(譫妄)
——脳代謝の全般的な機能不全であり、軽度から中程度の意識の混濁に、
興奮・錯覚や、幻覚・妄想などの認知・知覚障害を伴う、特殊な意識障
害の病態である。脳機能の低下を引き起こす身体状態の悪化により惹起
される。癌による終末期の患者の9割以上は、なんらかの形で譫妄状態に
至るという統計がある。
R総合病院南7病棟8号室。
それが僕の終の棲家となる。
介護タクシーに乗せられて、僕はここに転院してきた。
窓は大きく、五月の晴れた空が見えていた。
カーテンをひるがえし、風が入ってくる。
明るくて、気持ちの良い部屋だ。
電動ベッドにおちついた僕と、付き添ってきた母に、ここでの主治医となる、目の細い人の良さそうな医師が言った。
「ダイゴさん、私たちはあなたが、ここで少しでも快適に過ごせるように努めます」
その言葉の意味が、僕にはよくわかっている。
病気が分かった10代終わりからここまでの長い闘病生活で、僕はすっかり自分の病気には詳しくなってしまった。
そして、今の僕がどんな段階にいるのかも。
南7病棟は、いわゆる緩和ケアの病棟だ。
緩和ケアというのは、煎じ詰めて言えば、治癒がもはや見込めなくなった末期の患者が、その命の尽きるまでの時間を、できるだけ苦痛少なく、そして自分らしく過ごすための、医療によるサポートである。
つまり、今の僕のような。
わかっている。
僕は、ここで最期の時間を過ごすことを、自分自身で選択したのだ。
もはや、僕は、あのやかましい蝉の声を聞くことはないだろう。それどころか、月が変わるのを超えられるかどうか、それさえも怪しいのだった。
それは、嫌というほどわかっているのだ。
ひょっとしたら、これからなにか奇跡のようなことが起こって、僕の命が長らえることがあるかもしれない——そのような期待は、心のどこかにないわけではないが、それはあくまで奇跡でしかなく。
今、僕の身体には、持続皮下注射の装置がつながれ、強力なオピオイドが絶え間なく流れ込んでいる。
癌の浸潤による、身体の痛みを少しでも和らげるために。
装置のLEDが、僕の身体に投与される、時間当たりの薬の量をデジタルで表示している。
鈍く重く、うずくような体の痛み。
増殖した癌細胞が、神経を損傷して生じるびりびりとした痛みも、頑固でしぶとい。
そして言いようのない、全身の倦怠感。
それはもはや、痛みとも区別がつかない。
途切れない吐き気。
全てが僕の身体を蝕んでいる。
ずん、と痛みの強さが増した。
僕は、ボタンに手を伸ばし、レスキューのオピオイドを早送りする。
「ダイゴさん、初めまして」
入院した次の日に、深見という精神科医がやってきた。彼は、病棟の非常勤医師だった。
初対面の挨拶をした後、深見医師は、ためらうように言葉を探していた。僕に何をいうべきか、思案しているようだ。
彼の目が、きっかけを求めるように部屋をさまよい、そしてある場所でぴたりと留まった。
視線の先には、病室に持ち込んだ僕の本棚があった。
そこに並ぶ僕の蔵書を見つめていた彼は、聞いてきた。
「ダイゴさん、あのシリーズお好きなんですね」
それは、とても歴史の長い、特撮もののTVシリーズだ。
どのクールも基本のコンセプトは同じで、異星から着た超人が、人間のために、次々と現れる怪獣と戦うというものだ。僕が生まれる前から始まったそのシリーズが、主人公を変えながら、今も続いているのだった。
そう、僕はそのシリーズが好きだった。
主人公は、地球を守る防衛隊の一員ではあるが実は異星から来た超人であることを、仲間に隠しつつ戦うのだ。それがこのシリーズのお約束である。もし彼の正体がわかってしまったら……でも、彼が超人であることが皆に判明するのは、常に最終回である。
そのシリーズの解説本が、僕の本棚にはずらりと並んでいる。これだけは、転院を続け、僕の居場所が転々と代わっても、必ず運んできている。
深見医師はめざとく、それを見つけたわけだ。
あれをみて、この精神科医はどんなことを言うだろうかと思っていたら、
「わたしも、好きなんですよ!」
と、彼は、嬉しそうにいった。そして、
「ダイゴさんは、シリーズのうちの、どれがいちばん好きですか?」
と、いきなり聞いてきた。
なんだか、彼の仕事とは関係のない話のような気もするが。
「ああ……『光の巨人』シリーズです」
僕は答えた。
「おっ、そうですか!」
深見医師は、目を輝かせた。
「わたしも、あれがいちばん好きです!」
たいへん嬉しそうだ。
ひとりうなずく深見医師に、僕は、自分がなぜそのシリーズが好きなのかを話した。
この、なんとなくオタクっぽい医者に、思わず説明したくなったのだ。
「あの……先生もご存知のように、あの『光の巨人』だけは、ヒロインが途中から主人公の正体に、明らかに気がつきますよね」
トリビア的な僕の言葉に、もちろん、
「そうそう、あれは分かっているんですよね。そうとしか思えないセリフがいくつも」
と、深見医師は深くうなずく。
その様子に意を強くして、僕は続けた。
「そして、彼女はその事実を受け入れる。受け入れて、ストーリイが続いていく……」
そうなのだ。
それが、ぼくの『光の巨人』を好きな理由なのだ。
「……僕は、発病してからずっと、病とともに暮らしてきて、病の自分をそのままで周りの人が受け入れてくれるかどうか、というのを、いつも考えていたので。そこが、この『光の巨人』は、何か繋がるところがあって」
「ああ、そうなんですね……」
深見医師には、僕の言わんとしたことが伝わったようだ。
僕が感銘を受けた、あるシーンについて話すと、
「うんうん、あの、ヒロインと主人公の対話のシーンは素晴らしかったですね! あれは何度見返しても……うぅ」
そういうと、言葉を詰まらせた。
深見医師の顔を見たら、目じりに涙が光っていた。
この人、そんなに好きなのか。
あっけにとられる。
もちろんこの人が『光の巨人』を好きな理由は、僕のものとは違うのだろう。
それは僕にはわからない。
しばらく二人とも黙っていた。
「それでは、ダイゴさんがお嫌でなかったら、これから、顔を出しますから」
そう言って、深見医師は病室を出て行った。
へんな医者だと思ったのだ。
まあ、精神科の医者なんて、そんなものかもしれないけれど。
僕は、母に頼んで、本棚から一冊本を取ってもらい、そして『光の巨人』の項を、また最初から読み直す。
僕の体調は、日に日に悪くなっていった。
熱も一向に下がらない。
腫瘍熱という。癌細胞が崩壊するときに身体に放出される物質が、発熱をもたらすのだ。
深見医師が顔を見せても、僕がとても話す気力がないことも多く、それほど話ができないうちに時間が過ぎていった。
ある日の夜、目覚めた僕は、病室に何かの気配を感じた。
看護師が巡回にきたのだろうか。
いや、違う。
僕は、ベッドに横になり、天井を見上げたまま、そのモノの存在を、はっきりと感じ取っていた。
それは、平べったく、黒々とした何か。
そいつが、ベッドサイドに蹲るように居て、じっと僕を見ていた。
ふうっ、ふうっ、ふうっ
そいつの、息を吐く音がはっきりと聞こえた。
じわり、と僕に近づいてきて、そして転落防止のベッド柵を、ずるりと乗り越えようと
「うわああああああっ!」
僕は絶叫した。
翌日。
調子も悪く、うつらうつらしている僕の横で、母と主治医が話をしていた。
「つまり、これはせん妄という状態で……」
「時間や場所、自分が誰であるか、そういう感覚があいまいになり、幻覚をみたり……」
そんなことは知っている。
これまでにも、何度も体験している。
あの大手術の後や。
抗がん剤による、化学療法の最中に。
いるはずのない人をそこに見たり。自分がぜんぜん別の場面にいたり。
あとで覚えていることもあれば、全く覚えていないこともあるのだが。
「昨日は、たいへんだったようですね」
と、その日の午後にやってきた深見医師が言った。
その時は、僕の調子は比較的ましな方で、ようやく深見医師と会話することができたのだ。
「ははは……」
僕は苦笑して、答えた。
「まあ、せん妄ってことですよね。前にもありましたから」
深見医師は、それには答えず
「なにか、おかしなものを見ましたか?」
と、聞いてきた。
「はい……黒い、平べったいなにかが……」
「怖かったですね」
「ええ、とても。大声で叫んでしまったようです。みんながかけつけて」
「ダイゴさん」
深見医師は言った。
「光の巨人は、現れましたか?」
「えっ?」
予想外なことをいわれて、僕は聞き返した。
「だって——」
深見医師は言う。
「黒くて、平べったい怪物と言ったら、XXXしかないではないですか」
ああ、そうか。
「XXX」というのは、『光の巨人』に登場する、怪獣の一体である。
なるほど、僕が譫妄のさなかに幻覚として見たのは、あいつか。
たしかにそうだ。
納得する。
深見医師が続けて言う、
「XXXが現れたのなら、光の巨人が現れてもおかしくないでしょう」
そういうものだろうか。
「おかしくない、とわたしは思います」
深見医師はそういって、帰っていった。
XXXが現れたのなら、『光の巨人』が現れてもおかしくない。
いや、そういうものだろうか。
僕はひとり、笑ってしまった。
坂道を転げ落ちるよう、という比喩がある。
そこからの僕の病状はまさにそれだった。
苦痛の軽減のため、オピオイドはさらに増量された。
もはや、はっきりとしている時間の方が短くて。
譫妄はおさまらない。
今が昼なのか、夜なのかもはっきりせず。
ここが病院であることもわからない日があり。
今、母が横にいるから昼間なんだと思うが、その母の後ろを、ひょろりとした黒い影が横切る。
あれは——僕の脳が一瞬まともに回転し、その影の正体を思いつく——「YYYY人」じゃないか。
これもまた『光の巨人』に登場する、不気味な異星人だ。
YYYY人は、何も気づかない母の周りを、ふわり、ふわりと走る。
あまりに調子が悪く、深見医師とも話ができないため、自分の見たものを報告できないのが残念だ。
自分の命がいよいよ終焉に近づいてきているのを強く感じる。
言葉にしなければ、言葉に残して伝えなければならないことがたくさんあるように思う。
母にもなにかを言ってあげたい。
だが、それを長々と口にする力も今はなく。
そんな夜中に。
僕は、ふと目を開けた。
病室には、非常灯と、モニター機器のかすかな光のみ。
母が、ベッドサイドの椅子に腰かけ、頭を垂れていた。
疲れた母の姿から、僕は窓に視線をずらした。
カーテンのひかれたその窓の外を、なにか大きなものが横切る。
ここは7階だから、そんなことはありえないのだが。
ああ、こいつはまた譫妄か。
来るなら、来いよ。
今度は何が出てくるんだ。
そう思って、窓を睨んだ。
* *
ふっと目を開くと、深見医師の顔が僕をのぞきこんでいる。
ベッドの周りには、母と、主治医と、看護師さんと。
どれくらいの時間が経ったのか。
日付もわからない。
僕はかなり悪い状態でいたようだ。
僕の命はいよいよ尽きるのか?
「ふかみ、せんせい」
だが、僕は、伝えなければならない。
声をしぼりだす。
「えっ? はい?」
急に名を呼ばれ、うろたえたような深見医師の表情。
僕は言った。
「……みましたよ、せんせい……」
あの、ぼくがみた、ひかりの。
深見医師に、教えてあげた。
「……光の巨人が、まどから」
目を見開いた深見医師の手が、僕の動かない手に重ねられた。
「……よかったですね」
その言葉は、深見医師が僕に言ったのか、それとも僕が深見医師に言ったのか。
もはやどちらとも定かではなくて。
(了)