同行二人
ある日、妻が、お遍路さんに行きたいと言い出した。わたしは妻に連れられて、八十八カ所の霊場巡りの旅に出る。だが、旅を続けるにつれて、わたしと妻の回りには——。
(物語の必要上、かならずしも現実のお遍路に即していません。ご了承下さい)
零)
——お遍路さんに行きたい。
夕食のテーブルで、妻が言った。
その時いつものように、居間のテレビは、定時のニュースを流していた。
戦争や政治の大きな報道。
経済指標の数字。
高速道路での多重衝突のニュース。
横転し炎上した車の映像が映る。
アナウンサーが深刻な顔で、告げている。
そんななかでの、妻の言葉は、わたしには唐突だった。
——お遍路、か……。
「お遍路さん」といわれて、わたしが知っていることといえば、それは四国の八十八カ所の霊場を順にお参りするもので、たしか、いにしえの弘法大師の修行にならってそうするのだったと思う。
——どうしても、行きたいのよ。
わたしの目をじっと見て、そう言う妻の表情には、有無を言わせない強いものがあった。
——ふうん?……ぼくには、あまりよくわからないけど、君がそうしたいのなら……、
急な話にとまどいながらも、わたしは答えた。
——それなら、二人で……行ってみるかい?
——ありがとう。
妻はうれしそうに、礼を言った。
そして、
——よかった。あなたがいっしょに来てくれる。
と、言う。
わたしが行かなければ、一人でもいくつもりだったのだろうか。
その熱意に驚く。
それにしても。
妻は、その四国八十八カ所の霊場をすべて回るつもりなのだろうか?
もしそうするなら、いったいぜんぶで何日かかるのだろう。
四国をほぼ一周することになるはずだ。
まあ、まさかそれはないだろう。
見どころ、というのもへんだが、ここはどうしても、というところを何カ所か見て歩くつもりなのだろうな。
そうだ、旅のついでに温泉にも入ったり……。
わたしは意気込む妻をながめながら、そんなことを、ぼんやり考えていた。
それから、妻は精力的に準備をすすめた。
計画を立て、手配をし、お遍路用のいろいろな装備を買い揃え……。
わたしは、こうしました、あれにしました、という妻の報告に、ああ、とか、うん、とか了承の返事をするだけだった。そんなふうにしているうちに、いつのまにかすべての支度は終わっていたのだった。
一)
そして、わたしたちは、最初の札所に向かうために、電車を降りた。
無人駅だった。
そのとき、わたしたちといっしょに、電車を降りた乗客は、一人もいなかった。
この駅から少し歩いたところに、第一の札所がある。
順番通りに、そこからお遍路を始める人が多いはずだ。
……もう少し賑わっていると思ったのだが。
駅の、ひと気のなさをわたしはいぶかったが、妻は気にする様子もなかった。
低く垂れ込めた曇り空を見上げ、手にした金剛杖で、とんと地面を突いた。
やや肌寒い風が、吹きすぎていった。
妻の覚悟を示すかのように、わたしたちの装束は本格的であった。
上下の白装束、「同行二人」と書かれた頭陀袋を身体の前に下げ、輪袈裟を首にかけている。頭には、菅の遍路笠を被る。
足袋に草鞋を穿き、脚絆を付け。
手甲をつけた手には、これがお遍路さんではいちばん大事だという、木製の金剛杖を握る。
そんなわたしたちは、どこからどう見てもお遍路の人である。
わたしが、
「この、同行二人っていうのは、ぼくと君のことなのかい?」
聞くと、妻があきれたように答えた。
「どうこうふたり、じゃなくて、どうぎょうににん」
「どうぎょうににん?」
「これはね、巡礼の行者は独りではない、その人には、お大師様が常に付き添ってくれている、という意味なの」
「ふうん……」
「さあ、行くわよ」
ちりんと持鈴を鳴らし、妻が元気に歩き出す。
わたしもその後に続く。
草鞋が、敷かれた砂利を踏んだ。
四)
第一の札所で参拝を終えたわたしたちは、休むことなく、次の札所に向かった。
「行ってみれば、さすがに人が多かったね」
と、傍らの妻に言った。
観光客もいたが、それ以上に、わたしたちと同じように、お遍路の正装をした人たちが大勢いて、まるで白い波のように、札所の山門を出入りしていた。
わたしたちもその中に溶けこみ、列に並び、決まり通りの参拝を終えてきたのだった。
次の札所まで、並んで道を歩いて行く。
住宅地を歩き、畑の中を歩き、第二の札所を目指す。
曇り空のもと、それなりの距離を歩いていると、わたしは次第に空腹を感じてきた。
横を歩く妻の顔をちらりとみるが、妻は前を見つめ、黙々と足を運んでいる。
わたしも並んで足を進めるが、そのうちに、空腹はどんどんひどくなってきて、絶えきれないほどの飢えを覚えた。
朝食は摂ったはずなのだが。
身体が冷え、足が萎えてくるようだった。
このままでは進めないかも。
——なにか、補給しなければ。
と、妻に訴えようとしたとき、それを見つけた。
白い団子だった。
道の脇に、屋根のついた小さな台が立ててあり、そこには、お皿に載せた丸く白い団子が、三角に積み上げてあったのだ。
「おおっ」
おもわず唾を飲みこむ。
妻が言った。
「お接待よ」
「おせったい?」
「ほら」
台には「おへんろさんへ ご自由にお取り下さい」と、墨で書いた紙が貼ってあった。
この土地には、地元の人が、お遍路の人たちに、お茶やお菓子などを供する風習があるのだと妻は言う。そうやって接待することが、功徳を積むことにもなるのだそうだ。そして、巡礼は、出されたものを断ってはならないのだという。
「なるほど、これがそれか」
わたしは、手を伸ばして、団子をひとつ手にした。
白いその団子は、まるで作りたてのように柔らかく、米の匂いがした。
お礼を言いたくて、辺りを見回したが、これを用意したらしい人の姿は見あたらなかった。
がまんできず、わたしはありがたく団子を口にした。
もっちりした団子は、餡などないのに甘く、噛んでゴクリと飲み込むと、からだに力が戻ってくるようだった。
「うまいよ、これはうまい」
わたしは、積まれた団子をむさぼるように食べた。
妻は、一つだけ口にした。
そして気がつくと、皿の上から団子はひとつも無くなっていた。
「しまった……」
わたしはうめいた。
「ぜんぶ、食べちゃったよ……」
まだ、わたしたちの後からもこの道を通る人がいるだろうに、我を忘れて、ひとつも残さなかった。
情けないわたしの顔をみて、妻が言う。
「だいじょうぶよ」
なにが大丈夫なのかはわからない。
「さあ、もう歩けるでしょう、いくわよ」
そういって、ずんずん歩き出す。
「あ、ああ……」
わたしもついていく。
歩きながらも、なんどかふりかえった。
後から来た人が、なにもない皿をみて、がっかりしていないか気になってしまったのだ。
「えっ?」
だいぶ行って、角を曲がるときに、これが最後と目を向けると、もうずいぶん距離が開いてしまい、定かではないものの、お皿の上に、白いものがまた積み上げてあるのが目に入った。
「あれれ?」
皿が空になったのをみて、いつのまにか補充されたのだろうか。
親切な——。
妻が、ほらね、と微笑んだ。
十二)
こうやって歩いていれば、わたしたち同様の装束の人たちと、たびたびすれ違う。
すれちがうときには、お互いに合掌するのがマナーだ。
なんどかそうしていると、わたしにもすっかりその動作が板について、むこうからお遍路の人がやってくれば、反射的に合掌するようになっていた。
わたしたちは、山道をあるいていた。
落ち葉を踏みながら、次の札所を目指していた。
上り坂が長く続く、なかなかの難所だった。
道がすこし広くなった場所に、小さな木のベンチが設えてあった。
今も、そこで、若い女性が三人、休んでいた。
白装束の私たちとは違い、色鮮やかな服装で、彼女らは、お遍路ではなく、純粋な観光に来ているのかもしれない。
彼女らから見たら、わたしたちも、興趣をそそる旅の情景のひとつなのだろう。
と、道の向こうから、白装束に黒い頭襟、背よりも高い錫杖をついた人がやってくる。
修験道の行者なのだろうか。
下り坂でもあり、飛ぶような速さでどんどん近づいてくる。
見れば、かなりのお年寄りのようだが、姿勢はよく、足取りも確かだった。
「すごいね」
わたしは感心していった。
「ああいう人は、きっと、長いこと修行してるんだろうね」
その人と、坂を登っていくわたしたちがすれ違ったのは、ちょうど、さきほどの若い女性が休んでいるベンチの前だった。
老人は、わたしたちの前で、ぴたりと足を止めた。
穏やかな榛色の目で、わたしと妻をみた。
そして、美しい所作で合掌した。
わたしと妻もあわてて手を合わせ、そして頭を下げる。
行者は、わたしたちにうなずくと、また飛ぶような速さで道を下っていく。
わたしたちは、その後ろ姿に頭を下げ、気合いをいれなおし、そしてまた坂道を上り始める。
「えっ、えっ」
そんなわたしたちの後ろで、若い女性が驚いた声をあげた。
「今のなに?」
「なんなの?」
女性たちは、言いあっている。
「だれもいないのに、いきなり合掌したよね?」
おかしなことを言っている。
ひょっとして、あの女性たちには、行者が見えなかったのか?
ひきかえして、聞いてみようと思ったが、
「かまわないの」
妻がそういって、わたしの手を取る。
「はやく、行きましょうよ」
「ん……? あ、そうだな」
そしてわたしたちは、まだ騒いでいる彼女らを置いて、山道を登っていくのだった。
三十四)
その札所の境内からは、海が見えた。
とつぜん、目の前に蒼く広がる海。
不意を打たれて、わたしはその光景に見入った。
波間に日射しが反射してきらめく。
おや。
あれはなんだろう。
船だろうか。
遠く、はるか水平線に、ユラユラと揺れている。
眼をこらすと、それは船というより、なにかの楼閣のように見えた。
そんなはずはなかった。
この方角には、どこまでいっても大海原しかないのだから。
しかし、見れば見るほど、それは壮麗な規模の建築に見える。
原色の瓦屋根が、海の上に浮かんでいる。
わたしはそこで思いつく。
これが、蜃気楼というやつか。
なるほど。
おもしろいものだね、そう声をかけようと妻を見ると、妻も、わたしとおなじものをみつめていた。
「補陀落」
妻はそうつぶやいた。
三十八)
晴れた空のもと、海沿いの道をわたしたちは歩いていた。
やがて道は入り江に出た。
いや、入り江ではないようだ。
ここは、河口だ。
大きな河が海に流れこんでいるのだった。
これが四万十川だろう。
目の前には渡し場があり、船が待っている。
竿をついた船頭と、わたしたちのような装束の乗客がすでに何人か乗っていた。
「これはまた、風情があるねえ」
妻に言う。
河の上流に目を向けると、そちらには立派な橋が架かり、車が行き来しているのが見えた。
「待たせたら悪いわ、いきましょう」
妻がうながす。
たしかにそうだ。
歩き出すわたしの足下を、なにか茶色い生き物が駆け抜けた。
「おっ?」
細長い身体の、猫ほどのその獣は、川べりまで走り、そこから流れるような動きで、水の中にすべりこむ。頭を出し、広い河を、水流をものともせずに遡っていく。
「カワウソ?」
そのようにみえる。
しかし、本来この河に棲んでいたニホンカワウソは、絶滅が伝えられて久しいはずなのだが……。
獣は、くるりと身体をまわして水中に潜り、見えなくなった。
わたしの後ろで、乗客が話をしている。
「……何度目ですか」
「わたしはこれで八度目です」
「そうですか……何度回っても」
「そうなんです、なかなか……」
なんと熱心な人たちなんだろう。
わたしは感心して聞いていた。
「何度回っても、たどりつけないのは……」
「お導きの……」
会話は続いている。
四十三)
妻は、歩けば歩くほど、活気に満ちて、生き生きとしてくるようだった。
それについていくわたしは、不思議なことに、なんだかすべてのことがどんどんあいまいになっていくようだった。
次の札所(それが何番目の札所なのか、それもわからなくなっているのだった)に向かう今、いったい出発してから、何日経っているのか、それがどうも思い出せない。
それどころか、昨日どこに泊まったかの記憶もない。
そもそも、このお遍路の旅に出てから、わたしたちはどこかの宿に泊まったのだろうか。
いくら思い出そうとしても思い出せない。
そういえば、わたしの仕事はどうしたのだろうか。
休みをもらったのだったか?
ああ、なんだかよくわからない。
五十九)
針葉樹林の中、夜道を歩くわたしたちを、葉の隙間から月が照らす。
なぜ夜なのか。
わからない。
夜なのに、この道が白々とみえるのはなぜなのか。
わからない。
わたしたちは、ただ次の札所をめざして歩く。
ああ、みえた。
あれが山門だ。
黒々とそびえている。
山門をくぐると、そこに灯りがあった。
四阿に、松明が静かに燃えていた。
僧侶がふたり、四阿の屋根の下で、わたしたちを迎えるように立っている。
わたしたちが歩み寄ると、僧侶は、椀に湯気の立つものを注いで、差し出す。
「お飲みなさい」
温かく、香りの良い甘酒だった。
柔らかい米の粒が、喉を通り過ぎていった。
六十四)
さっき通りすぎた林の中では、蝉の声を聞いた。あれはひぐらしだ。ひぐらしの啼き声が、幽玄に響き渡っていたはずだ。
いま、わたしの足は、雪を踏みしめている。
積もったばかりのような、なんの痕もない真っ白い雪をふみながら、わたしと妻は次の霊場をめざしている。
目の前の山は青々として。
もはや季節も定かでない。
八十七)
風が穏やかに吹いて、わたしと妻をなぜていく。
風には、馥郁とした香りが充ちていた。
かたわらの妻をみる。
妻もわたしを見て、そして優しく笑った。
妻の髪が、風に揺れた。
妻が言った。
「あと少し。あと少しで、結願の霊場よ」
「そうなのか……ぼくらは、もうそんなに歩いたのか」
わたしは答える。
「ありがとう」
八十八)
目の前に、長く石段がつづき、その上に壮麗な山門がある。
山門の向こうは光に溢れていた。
妻がふりかえる。
わたしに、その手を伸ばし、言った。
「さあ、行きましょう、あなた」
その瞬間、わたしはこの旅のすべてを了解し、そして。
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