浪人生活日記〜あたりまえに怯える今日このごろ〜
押入れの荷物整理をしていると、ふとiPhoneの箱を見つけた。そこには以前使用していたiPhone XRのものと今使用している14プラスのものがしまってあった。思えば今使っている機種は今年の夏頃に買い替えたもので、まだ使って半年も経っていない。なのに、必要なツールやデータの整理が整うと前の機種と同じように使い始め、今では同じ携帯としての役割を果たしている。新しいモデルでの機能や見た目の変化などに感動していたのも束の間。携帯という日々の生活に必要不可欠なツールとしての側面を帯びることで、買い替えた時のまるで子供が誕生日に欲しかったおもちゃを買ってもらったときのような喜びは、いつしか何処かへ消えてしまった。否、自ら消してしまったのかもしれない。
約半年使い続けた携帯は、汚れ、傷が付き、扱いも新品の時のような丁寧さは無い。だが、こうして買い替えた当時のまま時間が止まった「箱」と対面したとき、この携帯はまだ買い替えたばかりの「新品」であることを改めて認識させられる。いくら買い替えたところで、自分が使うのはiPhoneという物体の携帯という側面であり、結果的に新品のものを使うには至らないということではないだろうか。新品も使い始めたら、それは以前とは何ら変わらない携帯であること。それは私が日々使い続け、あたりまえという慣習の中に新品のiPhoneが支配されているからではないかと考える。「あたりまえ」に支配されることは、そこに時間の尺度や物体の新旧・状態に問わず、無自覚・無意識のうちに自分自身によってなされる。それは受動的な要因が能動的な要因かはわからない。だが、「あたりまえ」(※以後ソレに省略)という形も根拠も無い変えようの無いの事実は、確かに存在する。扱っているものが物質的には違いがないとしても、頭の中でソレが私の判断・行動・意識に何らかの作用をもたらし、全く違うものとしてそこにあるかのように見せてくる。そしてそれを私は何の疑いも躊躇もなく見てしまい、あるがままの姿形、そのものの本質が見えなくなってしまう。
ここで更に2つの気になるワードが出てきた。
1つ目は「箱」。
先はiPhoneのことを言っていたが、これは他の事象にも共通すると考える。
箱は、中のものを外部から遮断することで状態を維持する梱包としての役割や、物を収納するための器としての役割がある。今回の話だと前者がより関係してくる。
先のiPhoneの話で語るとしよう。
機種変更をしたい私は「新しいiPhoneが欲しい」という願望がある。実際にアップルストア(他のどんな店でも言えるだろう)で買う時には、新品の携帯を生身で渡してくることはなかなか無い(※例外として携帯ショップなどでは、箱がいらないという要望があれば、今すぐに使える状態にした上で生身での受け取りというケースもある)。そのため、商品を何らかの形で保護するために箱が付随する。取引をする時点では箱が必要になるが、その役目はすぐに不要になる。箱は持ち主によって解体させられるか、保管されるかの二択に迫られる。商品がまだ新品というラベリングがされている時点で、箱は何らか処理が施され持ち主から切り離される。よって、箱はその時点で箱としての時間が止まり、再び誰かと接触するまではその時間は動き出さない。
押入れを開けて出てきたiPhoneの箱は、取引した当日の状態のまま保管されていた。傷や汚れの類はなく、あたかもその中に新しいiPhoneが入っているかのように佇んでいる。買ったその日で時間が止まっている箱に接触することは、新品だった頃のiPhoneの時間に触れるということ。持ち主が箱に最後に接触した時間に還ることになる。それは私に新品であった頃の記憶や感触を呼び起こさせると共に、かつてこの箱に入っていた新品のiPhoneが「あたりまえ」に支配されているということを自覚するに至る。
ここで同時に新たな疑問が浮上してくる。これは2つ目のキーワードになる「新品」とは何なのかということだ。先程からたびたび文中に"新品"という言葉を使っているが、前項の「あたりまえ」について語ったことに則して言うと、物体に新品も旧品も無いのではないかということだ。
確かに物は使い続ければ、劣化や破損といった表層的な状態変化はおこる。それは買った当時よりも汚なくなることや、年季が入ることにあたる。いくら丁寧に扱おうと、使い続ければやがて汚れていく、人間が老化するのと同じようにこれは物の宿命であり当然の帰結である。
であれば、新品のiPhoneは使い古されたiPhoneと同じだということになる。では、押入れにあった新品の箱に半年使ったiPhoneを入れたら、それは新しく買ったiPhoneと同じだと言えるのか。
それは違う。なぜならiPhone本体が「新品ではない」からだ。
なぜ新品ではないのか。
使い続けたことによる損傷や汚れがあるからだ。
それでは、その傷や汚れを治すことで新品と言えるのか。
言えない。あくまで側を変えただけであり、新品同様という枠組みに留まる。
では、内部のパーツまで一新することで、新品になり得るということなのか。
それはもう別のものに置き換わっている。確かに条件としては新品と同じではあるが、私があの時買った新品のiPhoneの状態に戻るということにはならない。
まだ誰も使ってない品物が新品なら、iPhoneの箱はビニールなどの梱包がなされていなく、店員に触れられている時点でそれは新品とは言えない。これは本屋のシュリンクが付いた本にも同じことが言える。それを新品となぜ言える。箱ははなから商品の一部としてはカウントされていないのか。疑問は積もるばかり…。
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