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プラトンの魂の不滅性と殺人

紀元前4世紀古代ギリシャの哲学者プラトンは、著作『パイドン』の中で、はソーマ(肉体)からのプシュケー(いのち、心、霊魂)の分離であり、そして分離したプシュケーは永遠に不滅であるとした。不滅であることのひとつの理由として、プシュケーは部分を持たない、とした。つまり何かを破壊するためにはそれを部分に分けなければならないが、プシュケーには部分がないのだからそれは分けることができない、すなわち破壊不可能である、と論じた。そして不滅であることのもうひとつの理由として、物事の状態は互いに逆の状態からもたらされる、ということを挙げた。生きているとはソーマとプシュケーが一つになっていることであり、死はその反対、ソーマとプシュケーとの分離であるとした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/実体二元論#歴史

人間の主体(中の人、または魂)が不滅であるのかは不明である。しかし、上記の議論に従うと、殺人行為が軽く考えられるように思える。そこで、俺は次を提示する。

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【魂の不滅性と殺人】

(儒教系統の思考規範)
もし魂が不滅であるならば、たとえある主体が肉体を破壊するとしても、その行為は殺人行為にはならない。

その行為は魂と肉体の分離行為である。古代ギリシアでは、魂が不滅であるのかどうかが考えられた。この魂は主体であり、日常的には、肉体の中の人である。

上記の問いに対して、現実的な、または法律的な対応が考えられる。プラトンが言うように、もしもし魂が不滅であるならば、肉体を破壊する行為は魂の肉体から分離である。

そして、その時、殺人行為もまた肉体を破壊する行為は魂の肉体から分離である。この時、なぜ殺人行為(魂の肉体から分離)が悪いのかが揺らぐように思える。当然、親しい人からの別れや競技場からの選手の退場が悪いかもしれない。

日常的には、殺人行為が悪いのは、人生が一度きりであり、貴重であるからであるように思える。一度死ねば、永遠に蘇られない。そのような貴重な命を奪うことは悪い。これが殺人行為の善悪に関する議論であるように思える。

【儒教における魂と肉体】

(儒教系統の思考規範)
もし肉体が滅亡するならば、魂も滅亡する。

言い換えると、もし肉体が滅亡するならば、肉体の中の主体も連動して滅亡する。そして、その主体は永遠に復活しない。だから、主体を破壊する行為は悪い。

魂を不滅と仮定すると、儒教徒を破壊することは問題で無くなる可能性が上昇する。そのため、俺は上記の思考規範を提示して、肉体の破壊は魂の破壊に関連づける。そのためには、魂の死は肉体の死に連動している必要がある。

【クローンと中の人】

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