認識と応答に関する一般論
ここでは、俺は応答に関する一般論を提示する。人種や民族に関して、もしある主体が自分の人種や民族に関して応答しないならば、その主体は自分の人種や民族を認識していない。俺はこのような理屈を作った。
これを一般化して、俺は次の理屈を提示する。
応答に関する一般論
儒教系統の理屈
(1)もしある主体が自分の何かに応答しないならば、その主体はその何かを認識していない。
より正確には、もしある主体が自分の何かに応答しないならば、その主体はその何かを自己認識していない。前の記事では、その何かは人種と民族であった。
例えば、名前を考えてみよう。もしある主体が自分の名前に応答しないならば、その主体は自分の名前を認識していない。ボケ老人を考えると、わかりやすい。彼らはぼけているので、たとえ彼らが自分の名前を呼ばれるとしても、彼らは返事、つまり応答しない。
このとき、俺らはこのぼけ老人は自分の名前を認識していないと判断する。同様に、人種や民族に関しても、同様である。もしある主体が自分の人種や民族を侮辱されても、もしその主体が反応しないならば、その主体は自分の人種や民族をぼけ老人と同様に認識していない。このような理屈を使用して、俺は認識を外部から判断する。
具体例を整備しよう。
具体例
①人種
②民族
③名前
④文明
⑤国籍
代表的な例はこれである。下記では、侮辱が問題になる。または、呼ばれたときに、返事をしない場合も問題である。
①人種:もしある主体が自分の人種に応答しないならば、その主体は自分の人種を認識していない。
②民族:もしある主体が自分の民族に応答しないならば、その主体は自分の民族を認識していない。
③名前:もしある主体が自分の名前に応答しないならば、その主体は自分の名前を認識していない。
④文明:もしある主体が自分の文明に応答しないならば、その主体は自分の文明を認識していない。
④国籍:もしある主体が自分の文明に応答しないならば、その主体は自分の文明を認識していない。
応用例
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