機械論的な自然観と法律、特に殺人
背景
儒教系統の認識
(1)科学者、特に物理学者はこの世界の全ては機械であると主張してきた。
この自然観は機械論的自然観と呼ばれる。デカルトが考えたものであるらしい。この考えでは、人間も動物も単なる機械である。医学でも、この考えが適用されていて、人体は機械とみなされる。
大和民族の科学者はこの考えを自然と受け入れている。また、悪い場合、白人の考えを振り回して、彼らは他人に馬乗りしてきた。この考えを見せびらかしてきた。
しかし、俺の認識では、大和民族の科学者はこの考えの意味を把握していない。俺らが殺人行為について考えるとき、俺らは機械論的自然観の本当の意味を把握する。
機械論的自然観の意味
儒教系統の思考規律
(1)もしある主体が機械論的自然観を主張するならば、たとえその主体が破壊されるとしても、その行為は殺人行為でなく、器物損壊である。
なぜなら、この世界の全ては機械である。もしある主体が機械論的自然観を主張するならば、たとえその主体が破壊されるとしても、動物が破壊されるとしても、その行為は殺人行為でなく、その行為は動物虐待でなく、器物損壊である。
しかし、俺の予想では、大和民族の科学者は上記の規律に反対するだろう。例え俺が「もし君が機械論的自然観を主張するならば、たとえ俺が君を破壊するとしても、君はその行為は殺人行為でなく、器物損壊であると認めるのか?」と質問すると、彼らは回答できないだろう。
結局、大和民族の科学者は機械論的自然観を主張しつつ、彼ら自身が殺される場合は、その行為を殺人行為にして欲しいと心の中で願っている。彼らの主張と心理は互いに矛盾している。
彼らの思考
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