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個人と集団の二重性〜俺ら(katotoorera)の政治信条〜

以下では、筆者は個人と集団の二重性を提示する。

1.0 個人と集団の二重性

1.1(儒教系統の認識)
彼はx教系統の人間を個人と集団の二重性と認識する。

彼はx教系統の人間を個人と集団の二重性と認識する。つまり、x教系統の人間は個人であり、かつ集団である。

西欧では、人間は個人であるのか、または集団であるのかである。そして、西欧人は個人と集団を対立的な何かを感じているように思える。だから、彼らは個人主義か、集団主義(全体主義)かのどちらかを選択しようとする。

しかし、東洋では、東洋人はx教系統の人間を個人と集団の二重性と個人と集団の組みとして認識する。つまり、x教系統の人間a=(個人a, 集団α)。

2.0 具体例

2.1(儒教系統の認識)
彼は死を個人と集団の二重性と認識する。

彼は死を個人と集団の二重性と認識する。または、彼は死を個人と集団の組みと認識する。

個人では、ある人間の死は世界の終わりである。その人間が死んだ後、その人間は世界からいなくなる。その人間の視点は地球上には存在しない。時間も空間も何も存在しない。これが個人としての死である。

同時に集団としても死も存在する。この時、ある人間は彼が死んだ後に、葬式や遺言を考える。彼は自己の子孫のことを考える。彼は国家や文明や宗教について考える。なぜなら、たとえ彼が死ぬとしても、集団は存続する。

3.0 善悪

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