ともすると任意の角を三等分できたといい出しそうな自分の知性を危ぶむ
変な方向に知識が伸びていくのを抑えられない
これは自分の読み方が悪いのだと思うが、本を読んでもそんなに勉強にならないと思う。
読書しよう、人生はつねに勉強だ、という人は偉い。
自分の父親がそんな人で、そこそこ本を読む。
ところが、根が純粋で、本に書いてあることは全部正しいと思ってしまう。
それで、いかがわしい健康法だとか、なぞの心理学だとかを信じている。
勉強するのはいいことだけど、変な方向に知識が伸長するのも考えものじゃなかろうか。
自分も父親と同じく根が純粋なので、知らないうちに変なことを信じてしまうかもしれない。
それどころか、すでに信じてしまっているのではないか。
危機感がある。
危機感があっても避けようを知らないので、どうしようもない。
とりあえず、「ためになる」系の本はなるべく避けるほかない。
悪い本は「ためになる」系のガワを被っているに違いないからだ。
語学に傾倒すべきではないか
米原万里のエッセイだったか、数か国語を操るスーパー通訳女史が出てきて、「世の中の学問で、素人が手を出してこの世に害がないのは語学だけである」というようなことを言っていた。
それはその通りで、定期的に湧いてくる、コンパスと定規だけでどんな角も三等分できると称する数学趣味オジサンのことを考えれば納得である。
これはできない問題として有名なのだが、オジサンはあきらめない。
自分は知的ポテンシャルとしてはああいう三等分オジサンに近い気がする。
あやうい。
もう語学をやるしかないのだろうか。
余談ながら自分はTOEIC490点である。
もともと200点台だったが、婚活女子がTOEICを勉強しがちであることに着目し、モテを目指して勉強を開始したのだ。
当然モテには全く役に立たなかったし、記念に受けたTOEICは490点だったが、試験会場のそばに住んでいた女性と半同棲することに成功し、その女性にフられたという成功体験がある。
語学の素質、あるかもしれない。
だが語学は大変だ。
モテのような強烈なモチベーションがないと、始められない。
多読で知性の偏りを防ぐ
昔の日記を読むと、多読のメリットは、一冊の本に傾倒しなくて済む点である、と書いてあった。
いいことを言う。
自分の今の立場を抽象的に表現すると、山賊のぞうりとりである。
ぞうりとってるだけだから、心にひまがある。
読書には良い環境である。
多読して、中庸な知性をもったぞうりとりを目指すのだ。