コーヒー事件について思った(安楽死が合法の国で起こっていることの話)
児玉真美の「安楽死が合法の国で起こっていること」を読んでいたら、コーヒー事件なる記述があった。
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オランダの女性が「もし自分が介護施設に入らないといけなくなったら、安楽死させてほしい」という書類を作成していた。
実際、認知症が進行して介護施設に入ったので、安楽死させることにした。
前処理として鎮静剤入りのコーヒーを飲ませ、死に薬を注射をしようとした。
すると鎮静剤の効きが悪かったのか、老婦人が抵抗する様子(腕を引っ込めた)だったので、まわりで抑え込んで、そのまま注射した。
検察は「担当した医師は、注射するまえにもっと意思確認しなきゃいけなかったんじゃないの?」と主張したが、医師は無罪になったという。
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この事件の白黒については、まあなんというか、自分は現在どちらかというと注射される側よりおさえる側になりやすい立場のため、ボケ老人いたら大変だよね、殺すよね、だって本人が書類書いてるんだし、と思ってしまうものの、それではいかんのではないかという気持ちもある。
そもそも、これがなんで事件になったかというと、老婦人が手を引っ込めたのはそのとき気が変わっていたせいで、もしや死にたくなくなかったのではないの、という疑問があるからである。
オランダでは安楽死が合法とはいえ、当人の自己決定が前提としてあるわけで。
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人間の決定というのは大なり小なり選挙の投票先選びみたいなところがあり、どれも嫌なんだけど、消極的に選ばざるをえないことが多々ある。
さらに、自己の純粋な決定なんてものは幻想で、実際は周りに強くすすめられたとか、組織内の雰囲気的にやむを得ずそうするとか、外的な影響が多大にある。
そして人間の気分なんてコロコロ変化するわけで、自分はさっきまで旅行に行こうと思っていたが、天気も悪いし面倒になって今も家にいる。
人間の意思なんて適当なものである例として、「安楽死が合法の国で起こっていること」には、さっきまで死にたい死にたいと言っていたのに、今度は「オレンジジュースに栄養剤をちゃんと入れてくれた?」と看護師に聞いた人が紹介されていた。
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そもそも客観的かつ明白な意思確認はいつだって困難なのだが、であればせめて丁寧に時間をかけて意思確認していかないといけないのではないか。
不可能であってもそういった姿勢ぐらいは示すべきではないか。
いや世の中が事務処理過多でパンク寸前、現場はにっちもさっちもいかなくなっている、これは自分もそうだから、大いにわかる。
何事にも客観性が必要で、だからすべて書類を取って証拠にしていかないと世の中進んでいかない、これもわかる。
ただそれだけではうまく回っていかないのではないか、世の中ってもんは。
あるいは不幸な人がどんどん発生してしまうのではないか。
竹内浩三の「骨のうたう」にあるような、感じ悪い日本がさらに加速してしまうのではないか。
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村上靖彦の「客観性の落とし穴」を読んでいて思ったことだけど、世の中簡単に割り切れるものではないし、割り切れないものを無視するのは一見能率的で賢そうなものの、実際は知的格闘から逃げてるだけなんじゃないか。
安楽死も、自分の命のコントロールというのが主眼であるはずだが、めんどうで複雑な物事を単純に解決する手段として使われていくのに違いないのだ。