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小売経験ゼロのコピーライターが左ききの道具店をはじめた理由。

2025年最初の記事、ということで、少し原点のような記事を書いてみようと思います。

左ききの道具店をはじめて6年と半年ちょっと。ありがたいことに徐々に知ってくださる方も増え、僕が名刺交換した際に「あ、知ってます!」と言われることも出てきました。

左ききの道具店って、めちゃくちゃに分かりやすい名前なので、結構いい話のネタになるんです。左利きなんですか? に始まって、どんな商品があるんですか? 実は私の家族も左利きで……とか、まあ話しやすいですよね。

その中でも多いのが「どうしてこのお店を始めたんですか?」という質問。

あんまり詳しく説明するのも手間なので、

リアルで聞かれたら高確率でこう答えます

と回答するのが常。これはこれで本当です。でもずいぶん話を端折っていることも事実で。どこかで書き残しておきたいなーって思っていたら気づいたら6年半が過ぎました。

このままでは記憶に埋もれてしまうので、備忘録も兼ねてここに「左ききの道具店をはじめた理由」を書き残しておこうと思います。

これから新しい事業をやっていきたいという人にも参考になるかもなので、なるべく詳しく。

2015年|独立当時の環境について

左ききの道具店開業の話をする前に、僕自身の当時置かれていた環境を紹介しておかないとリアリティがないと思うので記載しておきます。まず僕のキャリアはこんな感じ。

福井県の私大卒業(一期生)
→ 名古屋でコピー機営業(1年)
→ 採用系制作会社(6年)※コピーライターのキャリアスタート
→ 映像制作会社(3年)
→ ITベンチャー(1年)
→ 独立(2015年3月)

独立当時の年齢は33歳。制作キャリアは約10年。長女は1歳。名古屋に中古マンションを買って、住宅ローンが始まったばかりでした。


前職からお客さんを引き継ぐとかはなく、広告代理店に大したコネがあるわけではなく、世間に知られた代表作があるわけでもなく、TCC(東京コピーライターズクラブ)会員でもない。さらにいえば、独立してやりたいことがあるわけでもなかった。

ごく平凡なコピーライターですが、会社で働くのが合わなくて独立しました。


というのが、当時の状況を最も適切に説明しているんじゃないかしら。
今考えると、子どもが生まれて住宅ローン始まったばかりで、よく独立したもんだ。同じような状況の人がいたら「安易に会社を辞めなくてもいいかもよ?」みたいなことは言いそうな気がします。

僕の場合、会社員の安定以上に、どうも前職の「日報」が嫌いすぎたんですよね……。見張られる空気というか、行動を説明する面倒さとか、とにかく馴染めなかった。だから、自力を信じて飛び出した、というよりはドロップアウトに近いんでしょうね。


まずは売上を安定させないと

どんな経緯であれ、独立したからには生活費を稼がないと暮らせません。とりあえず、過去にやり取りがあった営業、ディレクター、デザイナー、クライアントの担当者に独立の連絡をしました。

コピー書くよ! 取材するよ! 映像もサイト制作でもなんでもやるよ! 

幸い、10年のキャリアでそれなりの制作実績はあったので、それらをアピールしつつ売り込んでいきました。初月の売上は5万円。これはよく覚えてる。ローンも払えなくて、当時まだ会社員だった妻に頼ってました(ありがたや)。

それからガムシャラに働いて、多少売上は上がってきたのですが、どうにも忙しすぎる。働いても働いても終わらないしその割にお金ない状況になっていきました。とにかく時間がコントロールできない。この原因は結構明確で、企画の末端としてのコピー仕事ばかりだったんですね。

企画が決まって、予算が確保されて、制作がスタートして、それから呼ばれる仕事ということです。

当時の仕事のよくある流れ

この流れで呼ばれることは、コイツならやれる!と思われることで、大変光栄なこと。今でも呼ばれたら喜んでやらせていただくのですが、この手の仕事はスケジュールと予算ありきの仕事なので、自分のコントロール範囲が極めて限られるんですよね。仕事の全部がそれになると、もう自分で自分のカレンダーが組めなくなる。

これをどうにかしようと、ずいぶん試行錯誤しました。目指したのはこういう流れ。

ぜんぶ言葉主導で進めていきたかった

課題の解釈、企画の言語化、コピー主導の制作物、つまりコピーライターが最上流に立つ仕事のやり方です。構想はしつつも、実際に体現でき出すまでに1-2年ぐらいかかったんじゃないかな。元々、制作会社時代はディレクターも兼ねていたので動きに違和感はなかったのですが、クライアントを増やしていくのが大変だった……。

実はこの先に、「企業のポジショニングを再定義する」や「会社の文脈に相応しい事業立案をサポートする」や「EC事業を伴走する」といったフェーズもあるのですが、この段階では表面化していないので今回は割愛します。またどこかでちゃんと書きますね。

ま、とにかく。少しずつ売上は安定してきたわけです。

でも、危機感はずっと変わらずあった

ただ将来への不安は消えなかったし、むしろ大きくなっていく気配すらありましたね。

自分が発注する立場になるとより実感するのですが、僕らの仕事って基本「呼ばれてナンボ」。声をかけてもらわないと何も始まらないわけです。そして、基本的に案件に必要な人間は、一つの職能に対して一人。同じ案件で複数のコピーライターが顔を合わせることはまずありません。

呼ばれるだけで、すでに選ばれている。

そして、選ばれ続けるということは、想像以上に至難なわけです。
これは僕の私見なのですが、選ばれる人は大きく二つに大別できます。

組みやすい人と、組みたい人。

この2つの候補からしか、まず選ばれることはありません

この2つについてはフィー(報酬)の多寡はもちろん、企画との適正や普段の付き合い、メディアへの露出、性格の相性など、複合的に絡んでいくので言及は避けますが、とにかくこの2つに入っていないと選ばれることはない。

で、ここに「年齢」が無視できないだけの影響を及ぼしていく

僕自身経験があるのですが、やっぱり組みやすい人は同年代、ひとつ下の世代、ひとつ上世代。もっと上だと、組みやすい人はレアで、ここぞという案件で「組みたい!」と思わないと、簡単には声をかけられない。安めの仕事なんて絶対無理でしょ(申し訳なくて)。

そして、クライアントも同業者も、みな世代交代があります。そのとき現場の最前線にいる人が、二世代上のコピーライターを紹介されて、果たして組みたくなるか? 新しいものを作りたいのに、古い人を呼びたくなるか?

そういった年齢バイアスにかかった「印象」を、たぶん誰しもが抱いていて、知らず知らず自分が選ばれなくなっていく……という悲観的シナリオがどうしても頭の中から離れなかったんですよね。

新しく商売を始めるしかない、僕以外の人間によって

受託の仕事は、声がかかってナンボ。これは年齢の影響を避けられません。でもまだまだ子どもにお金がかかるし銀行残高が乏しいのは不安。どうしても何か別の収入の柱が欲しかった。

でも、同時に思ったのは、「僕が主体にはなれない」ということでした。

僕はそれまでの制作キャリアの中で、大小いくつかの「プロジェクト」と呼ばれる仕事に関わってきました。これは一般的な案件とは違って、同好の士、あるいは有志のクリエイターが集まって行う自主創作みたいなもの。

広告賞などの公募に参加する力試し的なものもあれば、クリエイティブによる文化貢献のようなもの、会社の新規事業を目指すものもありました。

こういうのって単純に楽しいし、制約が少ないので尖ったアウトプットに繋がるんで実績づくりにも最適なんですよね。僕も大好きです。

ただ、継続的なビジネスになることはない。
可能性はほぼほぼゼロ
だと思います。

理由は簡単で、

ほんとそう


です。


大事なことだからもう一度言います。


何度もいいたい


これはね、仕方ないんですよ。だって本業で食ってるんだから。誰かの本業が忙しくなった時点で止まり、そのまま自然消滅するプロジェクトのなんと多いことか。

僕はプロジェクトではなく、商売をしたかった。でも僕の本業はコピーライターです。締め切りに追われたら必ず止まる。だから、それを本業にする人間が絶対必要でした。

しかし創業まもない零細企業に新しい人材を雇う余裕はありません。それに辞められたら元も子もない。だから必然的に、妻が主体となるビジネスをやろう。に行き着いたわけです。


2017年|迷走

ながーい前段でしたが、そういった背景から妻に言いました。

もうちょい優しく伝えたと思う

当時、妻は次女を出産したばかり。2人の子育てに追われつつ、会社の経理業務をサポートしてくれていました。

そんな中で、新規事業を立ち上げてくれと言い出す夫。まあまあな無茶ブリだなと思いますね。

で、いろいろ考えて、かなり最初の方に出てきたのが現在の左ききの道具店の原型のような構想でした。

構想はかなり早くからあった


これに対して僕は、


にべもない

という反応でした(苦笑)。

言い訳をさせてもらうと、当時はインフルエンサーマーケティングが全盛期。原価をかけずに影響力で売るみたいな話がゴロゴロとあって。その時代に、他でも買える商品をわざわざ仕入れてニッチに売る業態に全然魅力を感じなかったんですね。

今なら、楽して稼ぎたかったんだなーバカだなーって笑えるんですけど、当時はマジでそんな感じ。

でも、当事者が妻ということは変わらない。妻がやりたいことを探そう

ここからは大分迷走してました。
左利きの専門店は却下したものの、新しい商売の主体が妻ということは変わりません。だから妻がやりたいことを色々と探していくんです。

妻がピラティスにはまっていた
→ オリジナルのピラティスグッズをつくろう!
→ 講師の方におすすめのヨガマットを教えてもらったりリサーチ開始
→ 別に今あるものでいいじゃん?

妻の実家が電気工事をしていた
→ 電気器具のメーカーと繋がるんじゃないか?
→ オリジナルの電気器具をつくろう!
→ めちゃくちゃカッコイイやつ!
→ 別にほしくないかも・・・

 
他にもどうでもいいアイデアがたくさん出た気がするんですが、全部忘れました。ほんとどうでもいい案だったんだろうなぁ。

ただ、この時期はかなりお互いに話をしていて、お昼ご飯に出たり、クルマで移動するといった、2人で話せる時間は常に相談していた気がします。何かいいのない? やりたいことない? あんなのどう? こんなのどう? って。

そんな時間を1年近くやってました。

2018年|左利きのお店、復活

そして、忘れもしない2018年7月6日。
この日は妻の誕生日で、せっかくなのでと栄のちょっとオシャレなカフェでランチにいったんですよ。誕生日デザートとか頼んじゃって。

花火なんかついちゃって

ここでも、新しい事業の話になり、妻がこう言うのです。

2度目の提案

ここまで約1年ほど、ずーっと一緒に考えてきて、それでも出てきた左利きのお店。これはね、もうやるしかないと思いました。

名前はすぐに決まりました。ニッチなお店である以上、ニッチな人たちにとって分かりやすい名前でなければいけません。「左ききの道具店」。これはほぼ一瞬で決まりました。

ただこれだけでは弱いな、左利きのキャラクターとか作れないかな、、、、とググったら、なんとホッキョクグマが左利きらしいと(イヌイットの言い伝えみたいです)。これは渡りに船とこちらも即決。

この誕生日ランチに、新事業とその名前、キャラクターまでが決まったのでした。ちなみに開店日は同年の8月13日(国際左利きデー)。1ヶ月ですべてを整えてオープンしたの、めっちゃ大変だったのですが、それはまた別の機会にでも。

決定の裏話

妻がやりたいお店を、2度も提案してきて、その想いにGOを出す。これはこれでその通りだし、きれいにまとまります。ただ、そこにはもう少し生々しい話があるので補足しておきます。

2度目のときには、お金があった

これが実はめちゃくちゃ大きいんですよね。1度目のときは、コピーライターとして多少売上が安定してきたものの、所詮ひとりが受託で稼げる額は限られます。余裕なんてあるわけがない。銀行口座はいつもカツカツでした。

で、その状況が続くとストレスだし、PCか何かまとまったお金が必要なタイミングがあって。あるとき融資を申し込んだのです。日本政策金融公庫。確か創業融資かなにかで300万円だったかな。当時は無借金経営こそが正義だと思っていたし、借金怖いタイプだったんですけど、今となれば借金は英断でした。

PCを買って2ヶ月分ぐらいの生活費を引いても、100万円以上残っている。口座にお金がある安心感たるや。

そして、この時期に妻からの提案があったわけです。
当事者の想いは確認できた。お金はある。もう、やるしかない。

ですよね。ちなみに走り出した小売業は、仕入れという名の先行投資がかかり続けるビジネスモデルのため、伸びるほどに借金も増えていっていつの間にか借入が常態化していくのですが、これはまた別のお話。

とにかくここで言いたいのは、


ダサいが真実

ってコト。

何かやりたいな、って思ったとき、現金がないとマジで動けないんですよ。そんなことがないように、時には借入なども利用して、機会を逃さないようにしたいですね。


気づけばずいぶんなボリュームになってしまいました。ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございます。これが左ききの道具店を立ち上げた背景のだいたい全部です。

それにしても、ここから6年半が経ったのか。頑張ってるなぁ。よろしければ、ぜひ覗いてやってください。それでは、また。


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加藤 信吾|LANCH Inc. 左ききの道具店
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