進化する数式の世界
私たちの住んでいる世界は、物理的な物や法則によって支配されています。
もちろん、物理学で扱われる概念より複雑な、化学や生物や人間の社会など様々な仕組みがあります。しかし、それらも元を辿れば物理的な物や法則の集合や積み重ねによって成り立っています。
そして、物理的な法則は全て比較的シンプルな数式で表現することができます。その数式に、初期状態と経過する時間を与えると、どんなに先の未来であっても正確に予測することが可能です。
ここで疑問が浮かぶはずです。シンプルな数式で法則を表すことができ、それで世界が成り立っているのであれば、より複雑でありながら物理法則とは異なる法則を持つ化学や生物や人間の社会のようなものが、なぜ世界に現れるのかという疑問です。
この記事では、その謎の答えとして「進化する数式の世界」という概念を紹介します。
■世界はなぜ複雑な秩序を持つのか
まず、先ほどの疑問について、考えてみます。
私たちがまだ理解していない物理法則があり、それが非常に複雑かつ秩序を持つ現象を生み出すのでしょうか。それとも、そもそも世界は物理法則だけでは成り立っていないのでしょうか。
そうした考えは魅力的かもしれませんが、これまで観測されてきた科学的な現実とつじつまがありそうにありません。それほど大きな影響を持つものを見逃しているとは考えられません。
では、数式で表される法則が、時間と共に複雑さを増しつつも秩序を維持するのでしょうか。これも考えられません。物理法則は基本的に時間経過に対しても一定です。
シンプルな数式で表される法則であっても、その法則を繰り返すことで、秩序を伴いつつ複雑さが生まれるという考え方があります。しかし、数式を一度に計算しても、細かく分けて計算しても結果は変わりません。そして、法則が時間に対して不変である限り、今から1秒後と、1年後で、物理法則で表現される事象には何も複雑さの違いはありません。
また、複数の数式が組み合わさる事で複雑さが生まれるという説明も可能ですが、それは数式が組み合わさった時点で既に複雑であり、そこから新たな複雑さが出現することを上手く説明ができません。また、こうした複雑さは、初期値の僅かな変動によって未来の結果が大きく変化するという性質を伴います。そうなると、複雑とはいえ、一定の法則を持つ化学や生物や人間の社会のようなものが現れることに対して、反対方向に作用します。
そして、この理解の下では、シンプルな数式に過ぎない物理法則だけがあり、時間経過に対して法則が変化しない以上、より複雑で秩序を持つような事象は出現しそうにありません。
■相互作用による複雑さと秩序
この疑問の答えとして、相互作用という説明がなされることがあります。シンプルな法則に従う多数の要素が相互作用しあう事で、複雑で秩序を持つ事象を生み出すという説明です。
しかし、相互作用自体もシンプルな法則に従う以上、数式で表現できることになります。数式が複雑にはなりますが、時間と共にその数式自体は不変であるはずです。そうなると、先ほどの議論と同じように、1秒後と1年後には、数式自体の複雑さは変わりません。
■状態の相互依存関係
では何が変化しているかといえば、数式の中の実際の値です。物理的な用語で言えば状態です。数式は同じであっても、時間と共に状態が変化しています。
多数の要素が相互作用する場合、要素の状態がシンプルな数式で表現できる法則に従って互いに影響を及ぼし合います。
そこには、数式を介した値の相互依存関係が見られます。
相互依存する数式は、例えば x=F(y,a,t)、y=G(x,b,t)といった計算式です。tは時刻を表し、値xとyは関数FとGを介して相互依存しています。aとbは、それぞれxとyの初期値です。
こうした相互依存関係を持つ数式は、物体の三体問題のように、数式を介して解析的に答えを求めることができなくなります。
■相互依存関係を持つ数式の近似
解析的に答えを求めることができないというのは、時刻tが決まっても、この数式からすぐにxとyを求めることができないという事を意味します。
そのような場合、何れかの数式から順に計算して答えを求めることで計算を進めることはできますが、先に計算した式には、後に計算される式の影響を含めることができないため、大きな誤差が生じます。
この誤差をできるだけ小さくするために、短い時間単位に区切って計算するという手法を取る事ができます。
計算式で表現すると、まず短い時間での差分を求める式として、Δx=F(y,a,t+Δt)-F(y,a,t), Δy=G(x,b,t+Δt)-G(x,a,t)という式を考える事ができます。
そして、これを繰り返してxとyを求めるような loop(x=f(x,y), y=g(y,x), Δt) というアルゴリズムを考える事ができます。Δtを小さな値にすれば、より誤差が小さくなります。
このような反復型のアルゴリズムは、tを1秒後にしても1年後にしてもアルゴリズム自体は変化しません。しかし、tを長い時間にすると、その分計算を反復する回数が増加します。
従って、トータルの計算式全体が増加することになります。つまり、計算式の複雑さが時間と共に増加するということです。
■時間と共に増加する計算式の複雑さ
話が複雑になりました。ここで改めて整理しましょう。
まず、相互依存関係を持たない計算式は、状態の初期値と時間tが決まれば、その数式だけで解析的に値を求めることができます。この場合、時間が短くても長くても式の複雑さは変化しません。
一方で、相互依存関係を持つ計算式は、解析的に値を求めることができません。ここで、解析的に答えを求めることを考えない場合には、相互依存しない計算式と同様に、時間tの長さに関わらず計算式の複雑さは一定であるように見えます。
ここに、見落としがあったのです。
解析的に答えを求められる計算式と、解析的に答えを求められない計算式を、同じ視点で捉えられると考えていたことが、その見落としです。
解析的に答えを求められない式を、近似的にでも、解析的に答えを求められるようにしようとすると、loop(x=f(x,y), y=g(y,x), Δt)のように、tが増加すると計算式が複雑になるのです。
例えばΔtが1秒だとして、2秒後の状態を計算しようとすると、xとyの初期値をaとbとした場合、x=f(a,b), y=g(b,a)という計算で求めることができます。
しかし、2秒後のxとyを求めるためには、x=f(f(a,b),g(b,a)), y=g(g(b,a),f(a,b))という計算をしなければなりません。3秒後になればさらにもう一段fとgの計算が増えます。 1年後を計算しようとすれば、途方もなく複雑な計算式になります。
■複雑化する計算式の世界
これは、アルゴリズムが同じであっても、時間と共に計算式は複雑になっていくということを示しています。
つまり、1秒後と1年後は、非解析的には一見同じ計算式で表現できるように見えても、解析的な現実としては計算式が全く異なり、その複雑さは時間に比例して複雑な式になるということです。
これは、時間と共に計算式が複雑化していると考える事ができます。
通常の物理的な世界には三体問題における3つの物体よりもはるかに多くの物体が相互作用します。従って、基本的に物理的な世界は非解析的な相互依存の数式で表現される世界です。そして、解析的な現実としては、複雑化する計算式の世界です。
複雑化する計算式の世界として物理世界を数学的にモデル化した場合、初めに提示した謎の半分は理解できます。
なぜ、世界はシンプルな数式で表現できる物理法則から成り立っているにもかかわらず、化学、生物、人間の社会などの秩序を持つ複雑さが現れるのか、という謎でした。
このうち、複雑さに関しては、ここまでの説明で謎が解けました。現実世界はシンプルな計算式により状態が相互依存しており、解析的には複雑化する計算式の世界です。そこでは計算式が時間と共に複雑化していくため、複雑さが必然的に現れるのです。
これは、人間が世界をシミュレーションするために、計算式が複雑になるというだけではありません。世界は実際に時間変化に従って状態を変化させています。そこには、人間が行うシミュレーションと同じように、複雑化する計算式の世界があるのです。
■統計と周期性
では、複雑化する計算式が、なぜ同時に秩序を持つのか、という点も考えてみましょう。
ここでは、統計と周期性がキーワードになります。
物理的な法則は普遍的ですので、同時に存在する多数の要素に、同じように適用されます。
このため、ある2つの要素に loop(x=f(x,y), y=g(y,x), Δt) というアルゴリズムが適用される場合、現実世界では同様の要素のペアが多数存在することになります。
これらの要素のペアは初期値は異なっていても、同じ時間tを与えられると、同じ計算式が展開されることになります。こうした反復的な計算では、初期値の僅かなズレが、大きく異なる結果に結びつくケースが強調されがちですが、必ずしもすべてのケースがそうなるわけではありません。
摩擦などでエネルギーが散逸するケースや、法則がバランスを取ってある状態に収束するという場合もあります。また、結果がズレているように見えても、統計的に見えればある分布内に収まっていたり、ある範囲内で値が変動するというケースもあります。
このため、集合的に見れば値が分布を持たずに発散するという場合よりも、むしろ一定の分布に収束するケースも十分に一般的です。
この統計性は、マクロ的なスケールでの秩序を形成します。しかも、時間が経てば経つほど、その統計性は精度が高くなっていくことになるため、より秩序が強化されることになります。
また、loop(x=f(x,y), y=g(y,x), Δt)のようなアルゴリズムでは、xやyがΔtよりも大きな周期で同じ状態変化パターンを繰り返すことも良くあります。公転や自転のような周回運動、波や振り子のような周期的な繰り返しなど、様々な周期で様々な繰り返しパターンがあり得ます。
これは、時間的なマクロスケールではその周期でのloop(計算式, ΔT)といった形で法則として捉えることができる事象が生じる可能性があります。
■進化する計算式の世界
このように、統計的な性質や周期的な性質により、複雑化する計算式の世界において、マクロスケールでは秩序が形成される場合があります。
このように秩序が形成される場合、単に計算式の複雑さが増しているだけではなく、計算式が進化していると捉えることもできるでしょう。つまり、進化する計算式の世界です。
これが、最初に提示した謎に対する全体的な答えです。
世界は物理法則から導かれる反復的な計算式が複雑化と秩序形成を担うため、世界にはスケールが異なり、複雑でありつつも秩序を持つ、化学、生物、人間の社会のような現象が現れます。
■さいごに
この進化する計算式として世界を捉える視点は、1つには科学的な物事を理解するためのレンズとなるという利点があります。
一方で、もう1つ大きな価値は、数学において相互依存する計算式の集合が、複雑化する計算式や進化する計算式、という概念に結びつくという考察です。
これを厳密に数学としてモデル化することができれば、私たちはより深く、かつ論理的に、私たちの世界を理解することができるようになるでしょう。