■現実の寓話
<マルチバースの時代>
ベースと呼ばれるメタバースが、この国では多くの人の活動拠点となっています。
ベースのアバターは国民IDと紐づいているため、不正に複数のアバターを作ることはできませんし、アバターの姿形を変えても警察がID照合をすれば、誰のアバターなのかはすぐにわかります。
このため、ベースでは秩序が保たれています。秩序を破る行為や、人に不快感をもたらすような事をしたいのなら、わざわざベースで行うことはありません。好き勝手なことができるメタバースは他にいくらでもあるのですから。
それに、ベースでは目立つことは難しいため、愉快犯も現れにくいのです。ベースでの犯罪は処罰はされますがニュースにはなりません。そう法律で決まっているためです。
ベースは、国民IDと紐付けることができる唯一のメタバースでもあります。このため、他のメタバースを渡り歩く場合、各メタバースへの最初の登録はベースから行うことが一般的です。
また、多くの人はメタバース間を直接移動すると混乱しやすいため、ベースを拠点として他のメタバースに出入りするスタイルが一般的です。ちょうど、ベースは家のようなものです。どこに出掛けても、戻ってくる場所。そしてまた、別の所へ出かける時の出発点になる場所。
それが、マルチバース社会におけるベースの役割の一つなのです。
<家族のルール>
家族のあり方は、多種多様です。単に戸籍上のつながりだけで、お互いに何も干渉しない家族も珍しくはありません。
また、コミュニケーションを頻繁に取る家族でも、単にSNSや電話で連絡を取り合うだけというスタンスの家族もいます。
とは言え、比較的保守的な家族像を持つ人が多いこの国では、朝と夕方はベースに戻ってきて、同じ時間を共有するというルールを設けている家族が主流派です。
厳格な家族の場合は、ルールをコントラクトとして定義して、時間になったら強制的にベースの家に戻されるようにしていることもあります。
しかし厳格化はせずに本人たちの意志でルールを守るようにしている家族がほとんどです。このため、思春期の頃になると家族のルールを無視して友達と遊んだり、自分の好きなメタバースから出てこなかったりと、家族よりも好きなことを優先するようになります。
<ライフスタイル>
公教育やビジネス、公共性のあるコミュニティは、概ねベース自体で行われたり、ベースと同じアバターを使うような公共性の高いメタバースで行われることがほとんどです。
一方で、趣味やレジャーなどの余暇活動は、自由度の高いメタバースが使われます。かつては、流行の波が激しく次々と新しいメタバースが出てくる傾向にありました。
しかし、時代と共にある程度大きな運営母体が運営しているメタバースに収斂されていき、特別な趣味やこだわりがない限り、5社から6社くらいのメガメタバースがメインストリームになっています。その周辺に、中規模から小規模のメタバースがひしめき合っています。
余暇を過ごすメタバースを、1つだけに絞っている人もいますし、多数のメタバースを渡り歩くのが好きな人もいます。
また、ベースや、他のメタバースからカメラ越しに各メタバースの様子を観察したり、各メタバースのニュースを受け取ったりすることもできます。これにより面白そうなメタバースを見つけてからそこに出かけていくというやり方も一般的です。
<青年ハルトの場合>
ハルトは、家族を子供の頃に亡くし、天涯孤独でした。いくつかのメタバースで友達と呼べる人たちもいるのですが、引っ込み思案な彼は、あまり深い人間関係を持たないようにしていました。
仕事も、比較的人と話をする機会が少ない、AIの監査やアセスメントを行う企業を選びました。
法律で決められた一日の3時間の必要最小限の労働の義務さえ果たせば、ハルトの平日は自由時間になります。より多くの労働をして収入や地位を手に入れる人もいますが、ハルトはそういうタイプではあリませんでした。
自由時間の一部を、ハルトは友だちのいるメタバースで過ごします。半月ほど前までは過去のレジェンドになりきって遊ぶサッカーに夢中になっていましたが、最近は昆虫たちが織りなすサムライの世界で友人たちと武功を上げて出世を目指しています。トンボのハルトは、偵察隊の一員ですが、時には空から敵の大将を狙い撃ちにして一発逆転を狙う戦略で、活躍しています。
また、両親と暮らしていた時からの習慣で、朝と夜はベースの家で過ごす事が、ハルトのライフスタイルです。好きな音楽を聞いたり、SNSを眺めたり、映画を観たり、そういう古典的な趣味の時間を過ごすのも好きな性格です。
<リアルという名のメタバース>
ハルトの家には、両親が残した設定のまま、いつも一つのメタバースを映しているモニタがありました。
ハルトは行ったことがないのですが、リアルと言う名前のメタバースだと聞いた覚えがあります。
両親がなぜそのメタバースをずっとモニタに映し続けていたのかはわかりません。ただ、ハルトもモニタの設定を変える気にはなれず、そのままにしているのです。
そのモニタには、リアルというメタバースの中に固定されたカメラで、同じ光景が映されています。
そこには、眠っている一人の若い女性が映し出されています。屋内だと思いますが、カメラにはその女性とベッド以外の部屋の様子はほとんど映っていません。
眠っているので目や表情がわからないものの、その顔立ちは、どことなく母親に似ているような気がします。
母さんがリアルに行った時のアバターなのだろうとハルトは思っています。人が亡くなると、メタバースに残されたアバターは、こうして眠り続けるという、そういうタイプのメタバースもあるのだなと、ハルトはそんな風に理解していました。
<リアルからの呼びかけ>
ある朝、ハルトは激しい頭痛と息苦しさ、それに頭に響くような聞き慣れないブザー音に起こされます。
見ればリアルを映したモニタが赤く点滅して、激しい音を出しています。
やや朦朧としながら、近づくとモニタの下に「呼び出し」というボタンが浮かんでいるのがわかりました。そして、眠っている女性は人工呼吸器のようなマスクをつけて、苦しそうな表情をしています。
「何なんだ」、ハルトは毒づきながらモニタに浮かぶボタンを押します。
「ハルトさん。聞こえますか。ハルトさん」モニタから声が聞こえます。少しバージョンの古い、典型的なAI音声です。
返事をすると、AI音声は珍しくやや早口で説明を始めます。
そのAIの早口と、ハルト自身の頭痛と呼吸の乱れもあって、細かい内容までは理解できません。ただ、ハルトの命に関わる問題が起きているという説明をしていることは、はっきりとわかりました。そして、急いでYESかNOかの返事をするように急かされるのですが、肝心の中身がうまく理解できません。
「頭が痛くて、話がわからないんだ」ハルトがそう答えると、AIの声はゆっくりとした口調で、こう言うのです。
「では、緊急離脱の手続きに入ります。問題があれば一週間以内にご連絡ください。連絡先は後ほどお送りします」
そこまで聞いた途端、視界が暗転し、ハルトは気を失ってしまいました。
<実感のない離脱>
目が覚めると、すっかり頭痛や息苦しさは治まっていました。少し頭がぼんやりとするくらいです。
リアルのモニタは、暗転していました。何が起きたのか、ハルトには何も思い当たりません、
AI係が言っていた連絡先は、ハルトの公的なメールフォルダに届いていました。
連絡すると、ハルトの身に何が起きたのかを、担当の女性が丁寧に説明してくれました。
ハルトのようなタイプは珍しいわけではないようで、彼女は説明慣れしていました。「近頃は、お子さんに現実の話をしたがらない親御さんも、増えてらっしゃいますから」
リアルについて何も知らなかったハルトは、ちょっとした衝撃を受けます。
リアルでの死が、本当の死を意味するということ。ハルトのリアルでのアバターは、元々、幼い頃の事故で弱っていたが、今朝容態が悪化して、手の施しようもなく、死を迎えたこと。
あれは、母さんでなく、僕自身のアバターだったのか。ハルトは、だんだんと事態を飲み込めてきました。
そして、離脱を選択したことで、リアルから精神が切り離された、ということも聞かされます。
離脱とは、リアルのアバターが持っていたハルトの記憶や性格など脳の中身全てを、デジタル化することだという説明でした。いまいち実感がなく、何が変わったのかもハルトにはよくわかりません。ただ、離脱したことで、リアルのアバターの死に巻き込まれずに済んだのだな、という事は理解できました。
念のために、とその女性はサラリと説明を加えます。
「もし、現実の肉体からの離脱が本意でなかった場合には、死亡申請を提出することで、一週間以内であれば離脱をキャンセルすることもできます」
少し意表を突かれて、ハルトは思わず尋ねます。そんな申請をする人がいるのかと。説明係の女性は微笑みます。
「単に、法律でそういう制度があるという、ご案内までですよ」
おわり。