既得権益・監視社会・公権力の利点
既得権益、監視社会、公権力。これらの言葉を見て、あなたはどのようなイメージを抱くでしょうか。
これらの言葉は、おそらく多くの人には悪い印象を持たれている言葉だと思います。しかし、そうした私たちが抱いている印象を取り払って純粋に言葉の意味を考えてみると、これら自体は善でも悪でもなく、悪用されることが問題であることが分かります。また、悪用されない限り、これらには良い面があるということも見えてきます。
この記事では、既得権益、監視社会、公権力の概念について、その悪い印象を取り払いながら、その社会的な意味を考えていきます。そして、前提条件が整いさえすれば、むしろ既得権益、監視社会、公権力は強化していく方が社会にとって望ましいという見方を示していきたいと思います。
■既得権益という言葉の印象
既得権益という言葉は、ネガティブな意味を持って使われます。
これは社会に不平等な状況があることを前提に、他の人よりも多くの権力や利益を既に持っているという状態を想定して使われるためです。他の人よりも多くを持っている人が、その権力や利益を失わないように維持したり、それを奪おうとする人を妨害すると、悪徳として非難されます。
一方で、他の人よりも少ない権力や利益しか持っていない人が持っている権利や利益も、言葉の意味としては、既得権益に当てはまります。この場合、その他の人よりも少ない権利や利益を守るために維持したり、奪われないように妨害するとして、非難されることでしょうか。
また、不平等だとしても、社会的に公正な手段で得た権力や利益について既得権益という言葉で非難することにも問題があります。
選挙で正当に選ばれた政治家は、その任期の期間中、通常の人よりも権力を持ちます。企業の役員なども同様でしょう。また、ビジネスにしてもプロスポーツやプロアーティストにしても、その成果に応じて得た収入額が他の人よりも多くなることはあるでしょう。こうした権力や利益を、不平等を理由に非難するとすれば、私たちの社会は一体どのような仕組みで成立し得るでしょうか。
このことは、既得権益という言葉の危険性を示しています。既に持っている権利や利益を守ること自体は悪徳ではありません。それにもかかわらず、既得権益という言葉は、正当な権利の獲得や維持のための努力に対しても、正当性のない非難の矛先が向いてしまう可能性を含んでいます。
■非難されるべき権益
既得権益を、ニュートラルな言葉として捉えなおすことが必要です。私たちは皆、何らかの既得権益を持っています。それらには、他の人と比べて多かったり少なかったり、高い正当性があるものもありますが、不当な物もあるかもしれません。
非難すべきは不当な物であったり、手続きは正当であったとしても、実際問題としてあまりにも大きな不平等につながっており、社会に悪影響を及ぼしているものでしょう。それは既得権益が悪いという非難ではなく、不当に手に入れた権益であったり、大きさや固定化が社会に害がある権益、という表現で非難する方が正確です。
そうすれば、その不当性、格差、流動性の低さを問題として捉えて、的を絞った対応を議論することが可能になります。
■普遍的な既得権益
既得権益の中にも正当で社会的にも問題のないものが多く含まれているという理解をすると、あらたに一つの視点を持つことができるようになります。それは普遍的な既得権益という概念です。
それは個人や場所や文化を問わず、全ての人類が普遍的に持っている既得権益です。代表的なものは、基本的人権です。
基本的人権は、その概念が確立するまではないがしろにされてきた権利です。従って、基本的人権は私たちが歴史の中のある時点で獲得した権利であり、それを現在も保持し続けているという事は、既得権益に他なりません。
基本的人権という普遍的な既得権益は、正当性がきわめて高く、極めて平等であり、そして流動することなく固定化されてしかるべきものです。人権を保持しつづける努力をしたり毀損しようとする動きを妨害することを指して、既得権益だと言って非難する人はいないでしょう。
時代と共に多くの国が豊かになっていくにつれて、最低限の生活水準のラインは向上傾向にあると考えられます。それは多くの人の利益が時間と共に増えていくことを意味します。最低ラインの生活水準は、そのライン上にいる人たちの利益に他なりませんが、それを既得権益として非難することはできないでしょう。
人権や最低ラインの生活水準は、それらは特定の人ではなく人類が普遍的に獲得してきた既得権益です。これらは今後も、時代と共にその権利の種類や量、利益の水準は、増えていく傾向にあるはずです。このことは、社会の目指す姿として、普遍的な既得権益を維持しつつ、増やしていくことが理想像の一つであることを示しています。
■変化の正当性への懐疑
普遍的な既得権益を増加させていくことが社会善であると考えると、社会には常に変化が必要であるという主張の正当性への疑問が浮かんできます。
仮に全ての既得権益が社会悪だとすれば、社会は全方位的に変化する余地を残しておくべきです。そうしなければ既得権益が固定化して、社会悪が改善されなくなる側面が出てきてしまうためです。
しかし、普遍的な既得権益は維持し、強化していくべきだという立場に立つなら、社会の中に変化しない部分があることが重要になります。そうした変化しないコアの部分と、柔軟に変化をさせていく部分を社会が持つような形が、望ましい姿であるはずです。
この視点からは、社会の変化の余地だけでなく、積極的に普遍的な既得権益の維持や保護に関わる部分はできるだけ固定化に近い状態にしていく能力が社会には必要になります。そして、普遍的な既得権益が時代と共に増加していくのであれば、社会の中の変化しやすく流動性を持たせておくべき部分は、徐々にその範囲が狭まっていくはずです。
社会に固定化して保護すべき部分があるということは、変化の影響を絞ることもできないほど社会を根底から変えてしまうような物事に対して、社会は慎重に対応する必要があります。世界的な大きな体制の変化の流れ、国際的な反社会的組織の力の強大化、影響が大きすぎる技術の社会適用、不可逆で急激な地球環境変化などは、その代表例です。
■監視社会と公権力
監視社会という言葉も、既得権益と同様にネガティブなイメージが強い言葉でありながら、その本質はニュートラルです。
無監視社会ということを考えれば、その理由は分かるはずです。全く社会的な監視が無ければ、治安を維持するためには各自の道徳心だけに依存しなければならいでしょう。もちろん個人のプライバシーを守る事は重要ですが、それと共に社会の治安の水準を高く保つことも重要です。
無監視社会は公権力によるプライバシー侵害が無い代わりに、犯罪者によるプライバシー侵害を含む私たちの権利の侵害の発生確率が上がる事になります。善良な個人にとっては、一定の監視の下で犯罪が抑えられる方が、犯罪が野放しになる事よりも望ましいはずです。
公権力にも懐疑の目が向けられることがありますが、監視社会の議論と同様、公的な権力が力を持つことと、犯罪者が自由に力を振るえることのトレードオフを意識しなければなりません。
監視も、公権力も、それ自体が非難すべき対象では全くありません。問題は、不正な方法での監視や公権力の行使や、社会的に問題が生じるほど強い監視や公権力の行使にあるはずです。そして、監視や公権力が弱いために、悪意のある個人や組織が力を持ってしまう事こそが、憂慮すべき事態です。
■技術の進歩
技術の進歩は、悪意のある個人や組織に有利な力を与えることになります。プライバシーを侵害するための盗聴や盗撮の道具、銃器や爆弾など、技術進歩は犯罪に利用可能なものを安く簡単に入手したり作ったりすることを可能にします。
もちろん、悪用を防いだり悪用されても被害が小さくて済むようにするための技術も進歩します。とはいえ、犯罪を行う方が圧倒的に有利です。例えば爆弾が爆発しても被害を受けないようにする技術を考えてみると、容易に理解できるはずです。
このことは、技術の進歩と共に、監視や公権力の強化をしていかなければ、善良な人たちの普遍的な既得権益が保護しきれなくなっていくことを意味します。
つまり、技術の進歩、監視社会化や公権力の弱体化、普遍的な既得権益の増加は、相容れない関係にあるという事です。
技術の進歩を進めた場合、先ほど説明した通り、監視社会化や公権力を強化するか、普遍的な既得権益を損なわせます。
監視社会化や公権力の弱体化を進めた場合、技術の進歩を緩めるか普遍的な既得権益の損失に繋がります。
普遍的な既得権益を増加させるなら、技術進歩に対して、部分的に強い規制をかける必要があるでしょう。また、監視社会や公権力により悪意ある犯罪が起きることを未然に防いだり、起きてしまった犯罪の被害を軽減することも重要です。
■さいごに
この記事で議論してきたように、私は、普遍的な既得権益を大きくし、社会的な監視を強化し、公権力を増大させることに対して肯定的な意見を持っています。これは文字だけを見ると、ネガティブなディストピアに見えるかもしれませんが、これらは極めてニュートラルな概念です。問題は、不公正な方法や、権力や利益の大きな格差や社会的な害悪を生むような方法でそれを実現する場合です。
公正であり、格差が最小限に留まる事が保証され、社会的な問題がより小さくなるように実現できるならば、私たちはより良い社会に生きることができるはずです。
反対に、技術が絶え間なく進歩し、常に変革の機会があり、監視もなく、公権力が力を持たない社会は、一見、前向きでポジティブに聞こえますが、これは普遍的な既得権益を大きなリスクにさらしています。このような社会は、私たちが獲得してきた基本的人権や、最低生活水準などの普遍的な既得権益を維持することが難しいのです。
もちろん、一度失われたとしても、進歩と変化によって新しく大きな普遍的な既得権益を得られるかもしれません。しかしその繰り返しの中で翻弄されることを、私たちは皆、望んでいるのでしょうか。
私たちは自分たちが獲得した普遍的な既得権益の上で生きているにも関わらず、前時代的な前提の上で議論している場面が多くあります。
既得権益を無条件のようにネガティブな言葉として使えた時代も過去にはあったでしょう。それは基本的な人権もなく、公正な選挙制度もなく、最低限の社会保障もなかったような時代です。そのような時代であれば、皆何も持っていなかったため、既得権益を持っている人たちは不平等の下で有利な立場にいる人たちだったでしょう。
しかし、普遍的な既得権益として人権、選挙権、社会保障制度を持ち、自由な経済活動を認められて自分の力で権益を獲得することができる現代の社会においては、全ての人が様々な既得権益を持っています。そうした背景の変化を押さえておく必要があるでしょう。
監視社会や公権力も同様です。権力と市民が敵対関係にあるような時代には、監視社会や公権力を敵視する考えや強くけん制することが重要だったと思います。
しかし、民主主義の公正な選挙で政治家を選出し、様々な監査の仕組みにより政府や官僚の仕事の透明化を進め、より民意が反映される政府になっていけば、権力と市民は協力関係になっていくはずです。もちろん不十分な面は多々ありますが、少なくとも時代と共に改善されていることは間違いありません。
こうした透明性や民意反映の度合いが高い政府を実現し、市民が政府を信頼できるようになっていけば、監視社会や公権力を公正で透明な形で強化していくことは、犯罪や様々な社会リスクの高まりに対して極めて有効な対策となるでしょう。このため、私は政府の信頼度をより高めつつ、監視社会と公権力を強化することで犯罪や社会問題に適切に対処できる社会は、十分に健全で望ましい姿だと考えているのです。