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さようなら、ぼくらのエヴァンゲリオン。

2021年3月8日。ひとつの作品が終わりを迎えた。ここが新たなスタートとも解釈することは出来るが、間違いなくひとつの終劇の形が提示された。解釈はひとそれぞれだ。

エヴァンゲリオンシリーズの最新作となる映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開された。公開後、約1ヶ月ほど経った今、様々な考察や感想がSNS上に飛び交っている。その中でも概ね”終わり”を好意的に捉えてる人が多数のように見えるが、やはり否定的な意見もある。それもいいと思う。
ここではできれば細かな設定の考察は少し置いておいて、個人的に感じたことをツラツラと書き連ねたい。

#以下ATネタバレフィールド全開です

シン・エヴァンゲリオンで描かれた3つのストーリー

新劇場版4部作はREBUILD(やり直し)の物語。テレビシリーズや旧劇場版、漫画版など、全てを”やり直し”ひとつの完結(答え)を提示するための作品のように感じた。

新劇場版は大枠として3つの主軸のストーリーがあり、そのまわりを独特な演出やアニメーションの表現技法が取り囲み、スキマを埋めるように難解で細かすぎる設定が散りばめられている。(その難解な設定こそがエヴァをエヴァたらしめるものだと思う)

主軸に置かれたと感じた3つのストーリが以下。

1.11:『碇シンジ(庵野秀明)の成長物語』
2.22:『碇ゲンドウの”愛”の物語』
3.33:『ぼくらとエヴァンゲリオンの物語』

ひとつずつ、エモい部分を書いていく。

0:エヴァンゲリオンはメタ視点抜きで見るのは勿体なさすぎる

まず大前提条件の話をしたい。エヴァンゲリオンという作品は庵野秀明という作家の手によって作られた作品であり、その思想が詰まっている。それゆえ、当然ながら登場するキャラクターはそれぞれが庵野秀明の分身であったり、深浅の程度はあれど関係のある他人が投影されていたりする。こんなことは長年エヴァンゲリオンと伴走してきた人たちにとっては周知の事実だし何をいっとるねんという話だけど、それがどうもそうじゃない人もいる。そりゃそうである、「シン」で初めてエヴァンゲリオンという作品を知った人もいるだろうし、単純にロボアニメとしてドンパチヒーローコンテンツを楽しんでいる人もいる(稀だとは思うが)

わざわざこんなことを書いているのは、作品鑑賞後にとあるネタバレチャットに参加していた時に、こんな意見に出会ったからだ。

作者の生い立ちやバックボーンまで知っていないと楽しめないって作品として不完全じゃん。そんなところまで調べないと納得がいくエンドにならないってどうなの?

言わんとすることはわからんでもない。日常になんの影響も与えないで脳みそお花畑にして楽しめるアニメ作品(そういうのも好きよ)に身を委ねてばかりいると、人生に侵食してくるような作品とやりあえる感性は育たない、ゆえにエヴァンゲリオンの思想性全開の作品は理解不能だと思う。とはいえ、そういった層まで楽しめるようなパッケージになっているのもスゴいところではあるんだけど。

これは”作品”と”商品”の違いみたいな話にも通じるが、俺はこう思ってるけどお前はどう思う?というような問いかけをしてくる”作品”に、作家の人生をフル無視しで向き合うのは勿体ないと思う。深く楽しめた方がお得だ。

というわけで大前提としてエヴァンゲリオンは思いっきりメタ全開、特に今回のシン・エヴァンゲリオンは終盤はほとんどメタメタしていたので、もしそういった事情を知らなかった人は、もう一度知ってから観て欲しいなと思う。

1.11:『碇シンジ(庵野秀明)の成長物語』

主軸の置かれたストーリーのひとつとして、主人公である『碇シンジの成長物語』がある。これは誰の目にも明らかだっただろう。本作の中では一度は失語症になり生きる気力も無くなってしまったが、周りの人の優しさ、手助けによって立ち直り、リアリティの世界で立ち直って、親と対峙し、答えを出した。TVアニメシリーズ→旧劇場版と観てきたファンたちは、もうこの時点で涙腺崩壊、マスクビショビショではないだろうか。

言うまでもなく、シンジ君は庵野秀明そのもので、エヴァンゲリオンという作品を作るというのはあまりにも辛すぎる戦いだったんだろう。なんとか周りの人に支えられて、安野モヨコ(=マリ)というパートナーと出会い、立ち直り、エヴァンゲリオンと再度向き合い、終劇させた、庵野秀明監督の自叙伝的なストーリーともいえる。

他人の死と想いを受け取り、自分の作り出したこれまでのカオスにケリをつけたのである。本作のエゲツないところは、作品の中での自分の物語としてケリをつけるだけではなく、エヴァの呪縛に囚われていた全ての人々をも補完しようとしているところだ。こんな長文をグダグダ書いているぼくは間違いなくエヴァに囚われている。本作ではそういったファンたちを置き去りにせず、向き合い、終わらせてくれたように思える。

2.22:『碇ゲンドウの”愛”の物語』

個人的には本作でのナンバーワンエモポイントは、ゲンドウの深い愛だ。この愛はユイへの一途すぎる愛情はもちろんだが、不器用すぎる親子愛がエモすぎて初回鑑賞時は子どもシンジを抱きしめるシーンで嗚咽して泣いた

このエモさを体感するためには、宇多田ヒカルが手掛けた主題歌の存在はかかせないだろう。これについては長くなりそうなので別の形で深堀りするとして、とにかく新劇場版のために書き下ろされた3つの主題歌(Beautiful World/桜流し/One Last Kiss)の歌詞を穴が空くまで読んで解釈して気持ちをいれこんでから本作を観ると、ゲンドウくんが可愛くて愛おしくてたまらない。私だけのモナリザと再開できてよかったね。

3.33:『ぼくらとエヴァンゲリオンの物語』

僕は小学校高学年ぐらいの時に、再放送で深夜アニメのエヴァンゲリオンと出会った。2000年、作中ではセカンドインパクトが起きた年に14歳だった。そんなことになんとなくシンパシーを感じてしまい、アニメやサブカルといわれるものが好きになった。それから常に隣にあったわけではないけれど、根っこの部分を形成している、コアのようなところにエヴァの存在がいるような気がしている。さすがに歳を重ねて、経験値を積むごとに、その存在はすぐには取り出せないような奥の方までしまいこまれていたんだけど、今回久々にひっぱり出してみたら、色々と気づかせてくれたように思う。そこに居たんだね、というような感じだ。

こんな風に拗らせているアダルトチルドレンはエヴァンゲリオンを必要以上に特別視したがりがちだ。これも庵野監督には重かっただろうなと思う。本作では北上ミドリや鈴原サクラがファンとしてのぼくたちの役割をしてくれていた。エヴァに人生を壊された、エヴァにだけは乗るな、エヴァは作るな、作るならちゃんとしろ。生半可な終わりを許さないアダルトチルドレンこそ本作と向き合うべきだと思う。

エヴァンゲリオンはアニメ作品であり、”他人の物語”だ。そろそろ自分の物語を生きろ、と。作中終盤はメタ的な演出がこれでもかと盛り込まれていた。マイナス宇宙、ゴルゴダオブジェクトはぼくらが生きるこの現実世界だ。エヴァンゲリオンイマジナリーはぼくたちの頭の中にある、頭の中にしかない、概念の集合体のようなエヴァンゲリオンだ。それを破壊と創造の槍で補完し、元の世界に返そうとした。それが本作でやろうとした、アディショナルインパクトであり、ネオンジェネシスでもある。

今後のエヴァンゲリオンはどうなるのか

個人的には庵野秀明が監督をするエヴァンゲリオンはもう無いのかな、と思う。ただ、それは「今は」もう無い、ってことで、いつかまたフラっと始まる可能性も大いにある。宮崎駿が長編アニメ引退を撤回するのと同じように、引退を決めたときは毎回今回が最後、って思うらしい。でもまたやりたくなっちゃうんだよねって。そういうもんだろう。

各所で言われているが「さよならはまた会うためのおまじない」なんて言葉を作中に残しているぐらいだから「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」というおまじないを信じていても良いと思う。

渚カヲルは全てを持った理想のシンジ(=庵野監督)であると言われている。
本作における綾波レイはエヴァンゲリオンという作品の象徴みたいな役割だったとぼくは解釈している。作中のラストシーン、大人になりエヴァの呪縛から開放されたシンジ(庵野)とは反対のホームに、カヲルとレイ、二人の姿がみえる。理想の自分はまだエヴァンゲリオンといたいのだ。カヲル(理想の自分)はこちらを向いていて顔が見えるが、レイ(=エヴァンゲリオン)の顔は見えない。ひとまずは終劇を迎えたので、こちらを向いてないように思う。

最後に、作中で渚カヲルと加持リョウジと会話するシーンの、ぼくなりの解釈を。

加持リョウジというのはエヴァンゲリオンという作品を通して唯一といって良いが、シンジに生き方を示してくれるような”大人の男性”の象徴のようなキャラクターだ。庵野秀明にとってもそうであり、渚カヲルにとっても当然そうなる。だからこそ一緒にいることに違和感は全くない。

カヲルは加持に心を許しているように見える。そして「そろそろカヲルって呼んでよ」というが加持は「それはまだお預けです、渚司令」と言い、決して”カヲル”とは呼ばない。

カヲルの名前の由来は”オワリ”だ。理想の自分はそろそろエヴァンゲリオンを「オワリ」にしても良いと思っているのかもしれないが、それはまだお預け、ということだろう。


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