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アカペラとジェンダー論〜ギャルバンとヤロバン・審査員の男女比・有利不利〜

現状の整理として、この時代の、今の自分の考えをまとめておくことにした。
将来的に「こんな古い考えを持っていたなんて!」となる可能性も大いにあるが、2024/12/8現在のメモとして残して、おく。


執筆の動機

タイタン所属のお笑い芸人 XXCLUB 大島育宙 氏がXにて
「M-1グランプリ2024の決勝進出者全員が男子であること」
を題材としたポストをし、それが大きな話題となっている。
(元ポストはタイミングによって鍵状態になっていたりするので引用はしない)

大島育宙のポストや一連の発信は、お笑いであったり漫才であったりM-1グランプリというそのものであったりあるいは芸能界あるいは世の中全般__における構造的な問題を指摘していると思われるのに対して、意図してか意図せずか、また、一部を切り取ってだったり全体に対してだったり・・・

様々な角度で論争が巻き起こっている。

わたしとしては、この件については是とも非ともここで表明する気はないのだが
「はてアカペラはどうだろう」
と思い、これを機会に一旦考えを整理しておこうと思い至った。

女声・男声と、ギャルバン・ヤロバン

わたしは歌やアカペラ歌唱について述べるときは「女性・男性」という言葉は使わず「女声・男声」という言葉を意図して選ぶことが多い。

これはわたしがイマドキな?ジェンダー規範を身に着けているから__とかではなく単純に声を機能として捉えたときにその人の性別は関係ないと考えており、問題はその声が「女声なのか男声なのか」でしかないからだ。

ここでいう女声・男声というのは、楽譜におけるソプラノ・メゾソプラノ・アルトを女声、テノール・バリトン・バスを男声とした括りの、どのパートを歌うかというカテゴライズであって、例えば”身体的男性”がアルトパートを歌った場合それは女声であるし、ノンバイナリーを含むあらゆる性自認の人に関しても、同様である。

だから、女声と呼ぶことでその人を”女性”と決めつけるとか、そういうセンシティブなところを避けて通ることができる。
これは日和見的な対処法であり本質的ではないが、なんにせよ、不要に男性女性で言うよりも、多少ましな気がして、個人的に楽である。

とはいえ

結局女声と括られるパートは大多数の”身体的女性”の声の特徴に基づいて常識観として定められた音域であるのは変わりのない事実なので、音域で括って女声と呼べば良い、というのは精神面を軽視した論理の押し付けと言えるかもしれない。

男子中学生における合唱のパート問題

男子中学生は声変わり前後の状態が混合しているが、「男声パートは"男性"が歌う」という常識観は存在する。

声変わりを終えていない人にとって男声パートは低くて出ない。しかしシスジェンダー(生まれたときに割り当てられた性別と自分で認識している性が一致している状態や人のこと)の男子は「女声パートは恥ずかしいから嫌だ」と感じる場合が、ある。

合唱においては並びの箇所を男女パートの境目に女声を歌う男子を配置するとか、あるいは無理して男声パートを歌うとかすることになる。

わたしの考えでは当然「性別関係なく機能で分ければよい。より良い音楽にすることだけ追求してもらう」という強硬的な姿勢になるわけだが、現実問題としては、世間的な感覚や当人たちにとっての感覚との矛盾であったり摩擦であったりを無視して強制することはできないだろう。

テノールとバスパートのどちらかを選ばせるとなったときに、わたしであれば当人の発声に適したパートに配置する以外の選択肢はないが「低い声の方が男らしい」という理由でバスをやりたいとする人がいたとして、その価値規範を覆しきっていない世界においてそれをただ無視することはできないだろう。

トランスジェンダー(生まれたときに割り当てられた性別と自分で認識している性が一致していない状態や人のこと)の人の中には、自認性別の発声をできるようになりたいケースが少なくない(らしい)。
その場合における合唱パートの選択はより複雑だ。

わたしが何かできるとすれば、様々な事例と共に「結局、音楽としてのレベルを最大化できる選択を取り続けられる人が一番カッコいい」という価値観を布教するということだろうが、それこそ個人的な信仰でしかないという点には注意が必要だ。

と、いうわけで

よりフラットさを目指すならば、女声の”女”の部分を変更して”高声”とか、そういう風に変えていくという発想の方が、よりイマドキ?なのかも、しれない。

声楽コンクールとかはどうなっているのだろう?

例えば

日本クラシック音楽コンクール

では

・ ピアノ部門と声楽部門は男女別の審査となります。
 例)小学校高学年女子の部、中学校男子の部、一般女子の部など

日本クラシック音楽コンクールのホームページ

とのことだが、厳密なことは分からなかった。

※ピアノが別審査であるということについては議論があるらしい?
※審査が別なだけで評価は絶対評価だから気にしなくてよいという考えの人もいるらしい?

常識的に考えれば、歌唱する声部で区別するという話だろうから、発声が男声か女声かで審査のくくりが別れると考えるのが自然だろう。
つまり、多くの場合においては身体的な性別で区別され、審査されると予想する。

ギャルバン・ヤロバンという呼称について

(やっとアカペラの話題だ!)

女性のみで構成されたアカペラバンドのこと。Girls Bandの略称。

 アカペラ用語辞典「アカペディア」https://media.acappeller.jp/acappedia/9258/

男性だけで構成されたアカペラバンドのこと。野郎バンドの略称。

アカペラ用語辞典「アカペディア」https://media.acappeller.jp/acappedia/9260/

歴史的経緯から
・”性自認女性/男性のみ”
という括りとは考えにくいので、
・"身体的(発声的)女性/男性のみ"
という括りと捉えるのが妥当だろう。

今まで性自認男性だけど発声女性の自称ギャルバンがいたかもしれないし、今後もいるかもしれない。
別に誰にとっても、一向に構わない話だ。

そもそも、こういう括り自体が、自称するのは自由だし、周りが括るのはそれぞれの問題(※追記①)という話なので、細かいことは気にする必要もない気がする。

慎重に考える必要があるとしたら、括りで何かしらの枠が設けられている場合だ。

ギャルバン大会、ヤロバン大会について

A cappella Spirits:国内最大級のアカペライベント。通称「アカスピ」。

このアカスピでは地域別に行われる通常の本選ルートと、『EX』という様々な括りで行われる部門別大会が同時並行的に行われる。

この『EX』の括りに「ギャルバン大会」「ヤロバン大会」があるので、それについて(勝手に)考えてみる。

先の定義通り発声で区切ればよさそう__かに思えるが、実はそう単純ではないかもしれない。

クラシックのパート区分が旧来的な楽譜や音域によるパート分けに基づいているのに対して、コンテンポラリーアカペラでは声部の括りに捉われずに、それぞれのグループが自由にそれぞれのアレンジメント・楽譜によって歌唱を行うという点に難しさがある。

そもそも「発声による区分」というものが身体的性別によって必ず分類できるのか?よく分からない(有識者さま、ご教授願います)

具体的なケースを考えてみる。

身体的女性で、性自認男性の人は通常の身体的発声のみで過ごしていった場合、所属できるのはギャルバンということになる。

例えば、発声を(性自認に寄せる目的などで)男声発声を習得したとしたら?

当然ヤロバンに所属できる__(?

というか、別に性自認に関係なく、発声さえ習得できれば元の身体的性別とは異なるギャル/ヤロバンに所属できるという論理になるはずだ。

となってくるとやはり「発声による区分」に明確な基準がないとフェアな判定は不可能ということになるだろう。

しかしその一方で、実運営を考えた際「発声による区分」を明確に行うことは現実的にはそうとう難しいだろう。

ということで結論としては

・当人たちがギャル/ヤロバンと言ったらギャル/ヤロバン

というところに落ち着くだろうか。

スポーツでは、このあたりの話題が非常に活発に議論されている。
体格的優劣によって区分けされているためだ。

それと比べると
・男女で筋力量の差があるというような強い前提がなく
・そもそもスタートは表現活動であり、競技ではない
ため、アカペラ演奏においてはこのあたりは曖昧さを保つことができている。

???

__というよりも

「ギャル/ヤロバン」というもの自体が、見られ方の括りを提出しているのみの概念でしかないと捉える方が自然かもしれない。

極端な話、発声女性のシスジェンダー女性がヤロバンとして応募しても全く構わない(?
その場合、審査で「ヤロバンとしての括りとしてどうか?」という判定によって落とされるなどするかもしれないが、それは運営側の判断。また、その背景には社会的なジェンダー感覚が反映されることになるだろう。

結局「女芸人No.1決定戦 THE W」も「ギャル/ヤロバン大会」も社会的なジェンダー感覚の括りを切り取っているだけとも言えるし、あるいは、それを助長していると言えるかもしれない
__この詳細な論考は別の専門家に任せることにする。

現状の解釈を整理すると
・「ギャル/ヤロバン」として見られることを推奨したい人はそれぞれ名乗ったり、その括りの大会に応募するでもちろん構わない
・推奨したくない人はこれまたもちろん名乗らなくていいし、応募もしない

というあたりか。

(※呼称が持つ印象に関する話題を追記②に掲載)

審査員の男女比率

審査員周りのジェンダー論はこれまた非常に議論が活発化しており、様々な論点や主張を観測している。

(以降の男性・女性表記については、芸能活動上の本人や事務所の表明に基づく)

例えば

旧来的に男性主導の業界では、男性が偏って評価を得やすい。その結果として審査員は男性比率が高く、男性優位の評価が再生産されていく

よくある指摘

という観点について取り上げる。

この記事の執筆動機となった「お笑い」においては、審査員は予選を含めて圧倒的に男性比率が高い。

M-1グランプリの歴代審査員の男女比

を確認してみると

年号:男性人数-女性人数
2001年:7-0
2002年:7-0
2003年:7-0
2004年:7-0
2005年:7-0
2006年:7-0
2007年:6-1
2008年:6-1
2009年:6-1
2010年:7-0
2015年:9-0
2016年:4-1
2017年:6-1
2018年:6-1
2019年:6-1
2020年:6-1
2021年:6-1
2022年:6-1
2023年:5-1
2024年:?

※2015年は歴代のチャンピオンが審査員を担当。今まで1人も女性のチャンピオンは存在しないため、必然的に審査員が男性のみとなっている。

確かに男女比が偏ってはいる。
ただ、論点は複雑だ。
お笑いというもの自体がジェンダー規範と密接にかかわっているが故に、かなり議題としては複雑で、難しい。

・そもそもの参加比率が男性が9割であることを踏まえる必要がある
・そもそものお笑い芸人志望の男女比に大きな偏りがあることを踏まえる必要がある
・しかしテレビ番組での出演お笑い芸人の男女比や、他形態の大会と比べると、M-1ないし漫才という形態におけるアンバランスさの存在は無視できないのではないか?

などなど、議論は複雑である。

※データを参考にさせていただいた記事↓

お笑いという誰しもが(?)感覚として持っている、面白い面白くないを判断できる題材ということも、議論が活発化(炎上に近いものもある)している要因の一つだろう。
これらのお笑い周りのジェンダー議論は、大島育宙氏を含むみなさまに、譲る。

他の表現系領域はどうか?

参考になりそうな記事を見つけた。

まず結論から書くと、いずれの分野においても、受賞者・審査員ともに男性が圧倒的に優位であり、ジェンダーバランスの不均衡が明らかになった。たとえば文芸評論では、賞の受賞者・審査員ともに100%が男性という事例が見られた。また各分野の賞・コンペティションで女性が比較的多い割合を占める場合も、ほとんどが「3割」程度までとなっている。

美術・映画・文芸などのジェンダー不均衡が明らかに。表現の現場調査団が「ジェンダーバランス白書2022」を発表。賞の受賞者・審査員は男性7割以上、女性3割以下が常態化https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/hyogen-genba-hakusho2022-news-2022-7-3

実際、近年では美術系大学の出身者は女性のほうが多いにもかかわらず、若手を対象としたほとんどの賞で受賞者に男性が多いというのは、「男性のほうが優秀な作家が多い」「女性の作家は実力不足」などと片付けられない構造的な歪さがあると推察される。審査員の多くを男性が占めることでその賞の性格が同質性を持つようになったり、選考時にアンコンシャスバイアスが働くことで、結果的に男性以外のジェンダーに対して不利になるといった可能性も考えられる。

また女性はアーティストとして長期的なキャリア形成が難しく、結婚や出産などのライフステージの変化等も相まって制作・発表の場から離れるといったケースはよく聞かれる。長期的なキャリアを持つ作家を対象とする賞の受賞者のジェンダー不均衡にも、その実情は表れていると言えるだろう。

白書の総評で三浦まりも、「⼈材を育成するには時間がかかるので、まずは審査員を男⼥50:50にすることから始め、10-20年かけて表現者がジェンダー均衡になるよう持続的な取り組みが⽋かせません」と書く。これはどの分野にも共通することだが、美術分野でも今後の改革に向けて必須となる指摘だろう。

美術・映画・文芸などのジェンダー不均衡が明らかに。表現の現場調査団が「ジェンダーバランス白書2022」を発表。賞の受賞者・審査員は男性7割以上、女性3割以下が常態化https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/hyogen-genba-hakusho2022-news-2022-7-3

引用のように結論付けられているということ自体は踏まえつつも、事情もよく知らないので、単純に同意はできない。

旧来的に男性主導の業界では、男性が偏って評価を得やすい。その結果として審査員は男性比率が高く、男性優位の評価が再生産されていく

よくある指摘

これが事実であれば、アファーマティブアクション(人種や性別、宗教、出身国などによる差別を解消するために、積極的な措置をとる取り組み)抜きにしても、良い表現が評価されていくべきという表現至上主義的価値観に基づいた場合、是正すべき点があるのかもしれないと、思う。

審査員を男⼥50:50にする

美術・映画・文芸などのジェンダー不均衡が明らかに。表現の現場調査団が「ジェンダーバランス白書2022」を発表。賞の受賞者・審査員は男性7割以上、女性3割以下が常態化https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/hyogen-genba-hakusho2022-news-2022-7-3

といったような形式的なやり方に同意するかはさておき、方向性としては良さそうな気は、する。

アカペラの審査員の男女比率

(やっとアカペラの話だ!)

JAMの審査員比率をわかる範囲で調べてみた

年号:男声人数-女声人数
2009:1-0
2010:1-0+プロデューサー
2011:---
2012:2-0
2013:2-1
2014:3-0
2015:2-0(筆者が代表を務める『たむらまろ』優勝の年)
2016:2-0
2017:2-0
2018:2-0
2019:3-0
2020:中止
2021:本選3-0、二次審査2-1
2022:本選3-0、二次審査3-0、一次審査2-1
2023:本選3-0、二次審査2-1、一次審査2-1(筆者が本選の審査員を務めた年)
2024:本選3-0、二次審査2-1、一次審査2-1

参照:JAMホームページ、https://jam-acappella.org/

※芸能活動をしていない方も多く、表明性別を確認できていないので、あくまで声部という括りとした

実際には2010の記載のように、プロデューサーが審査に関わっている回も多い?ので、そのあたりの厳密な数字は不明。

こうして並べると、やはり他の表現系領域同様に偏りがある

単に偏っているからならした方が良い、とするのではなく、果たして本当に良くないのか?評価が再生産されているのか?という観点で捉え直したい。

※JAMは先に述べた他表現系領域とは異なり、アマチュアの大会に過ぎない。審査員を多く務めるプロの表現家への登竜門として機能している事実もほぼ無いため、並列して比較することはできないという点にも注意が必要か

※ボランティアで運営してくださっている皆さまに対する批判として捉えては欲しくない。皆さまには本当に感謝しかないし、私の戯言がいたずらに影響を及ぼすことを良くは思わない。あくまで”整理”のためのテキストと捉えていただけると、助かります

アカペラ人口の男女比率

正確なデータは存在しないが、体感としては女声が6割、男声が4割程度か、あるいはもっと女声割合が高いかもしれない。
(どう思いますか?)

男女比率に対して、編成の都合で男声の需要の方が高いため、限られた人数の男声が引っ張りだことなっているサークルもよくある。

・女声人口の方が多いにも関わらず、審査員は圧倒的に男声比率が高い

という点は、無視できないだろう。

JAM優勝グループの男女比率

年号:男声人数-女声人数
2009:4-2
2010:5-1、イクスピアリ賞(特別賞)6-0
2011:3-3
2012:中止
2013:5-1
2014:3-3、審査員特別賞6-0
2015:3-3
2016:2-2
2017:5-0、BASS ON TOP賞6-0
2018:4-2、BASS ON TOP賞4-0
2019:4-2、BASS ON TOP賞5-1
2020:中止
2021:4-2、オーディエンス賞 Presented by BASS ON TOP4-3
2022:0-6、オーディエンス賞4-2
2023:4-2(オーディエンスも同じグループ)
2024:0-5

参照:JAMホームページ、https://jam-acappella.org/

優勝グループだけだと合計46:34=57.5%:42.5%
アカペラ人口全体の男女比とは逆転した結果。
評価に対する不均衡として捉える人もいるだろうか。

しかし、わたしはこの数字を出しても、審査上の問題とは即断しない。
理由は次の通りだ。

アカペラにおける性別の有利不利

なぜならそもそも、アカペラという表現スタイルがその縛りによって、男女間で表現の幅に大きな差があるからだ。
これは多くの他表現系領域と根本的に大きく異なる点である。

端的に言って、一般的に男声の方が低い音域が歌える都合上、有利な場合が多い。
有利というのはサウンド上の聴き映えのことである。

ギャルバンよりヤロバンの方が基本的に有利なだけでなく、
男声-女声比率が3-2、2-3、1-4であれば前から順に有利な編成になる場合が多い。
(これは一般的な見解ではなく、個人的見解である。こんな元も子もないことを言葉にしてしまっているのはもしかすると、わたしだけ。もちろん「女声が多いからだから不利」とか言っているだけではなく「編成の都合に合わせたアレンジメントや表現の工夫が必要だ」という語り方を、する)

完全にそれだけで決まってしまうわけではないにせよ、全体の傾向としては有利不利が存在しており、部分的にスポーツに近い要素がある概念がアカペラということになる。

つまり「そもそも発声音域上の都合で男女の有利不利が存在しているために、優勝グループの男女比がプレイヤー全体の男女比と逆転していても、審査自体に不平等があることにはならない」とわたしは考える。

そして逆に、そのように考える自身の中に、そもそも表現として男性優位的なバイアスがないと言い切ることもまた、できない
このあたりがアカペラを題材としたジェンダー論の難しさの肝だろうか。

一応述べておきたいのは、ある程度の有利不利があるのみで、他の要素で十分に覆りうる程度に収まっていると、わたしは思っているし、多くの人や審査員も多分同じ様に思っている。

現実に、男声人数の比率が少ないグループが優勝している年はいくつもあり、また、2022年と2024年では女声のみのグループも優勝していることから”ある程度の有利不利への影響”に留まっているという見方もできる。
※2022年の特殊性については後程言及する

※アカスピのギャルバン大会は、比較的不利な女声限定の場を設けることで、表現としての多様性の確保と成長を促進する役目を果たしているという側面があることを、この有利不利議論から思わされる

ポイントの整理と、結論

・アカペラの審査員は男声比率が高い
・アカペラプレイヤーは女声比率が高い
・審査で評価されているグループは男声比率が高い

これらを踏まえて

・(わたしは)演奏形態として男声が比較的有利だと考えているので、バランスの歪さだけを根拠に、不平等が再生産されているとは言い切れない(と思う)
・またその一方で、男声が有利という認識自体がバイアスに基づくものである可能性も否定しきれない。この点は検討を続けたい

そしてその上で結論としては

・審査員の男女比率を均等にすることによる文化発展に対する効用はあるかもしれないが、強く肯定するには至っていない。また、強く否定するにも至っていない

という日和見的なスタンスで、今日のところは納めさせていただく。

※そもそもが基本的にボランティア頼りの文化なのだから、ボランティアで支えてくださっている方々が楽しく、満足できるようにしてもらえれば、それが一番だと、思う。

参考:エフェクターの使用

2022年の優勝グループは女声グループであり、大きな特徴がある。
エフェクターを使用して、ベースパートにオクターバーをかけた演奏を披露した点だ。

エフェクターの使用が演奏の選択肢として当たり前になると、アカペラ演奏における男女の有利不利の価値観自体が意味をなさなくなるときがくるかもしれない。
その先駆けとなった可能性が、ある。

参考:女声ならではのサウンドの追求

ちなみに今年(2024年)の優勝グループも、女声のみのグループだった。
※エフェクターは使っておらず、ただただ良い演奏によって優勝していた。

やはり相対的な有利不利はあれど、十分にひっくり返る程度ではあると言えるのかもしれない。

また、旧来的な女声が不利とする価値観自体、2024優勝グループが示したような「女声ならではのサウンドの追求という観点の開拓」によって一気にひっくり返る可能性も、あるかも。

これは個人的に研究しがいのあるテーマだと思っている。
また何か分かったらツイートします。

終わりの感想

以上の通り、現状の考えを幾つかデータを基に整理してみた。

近い他の表現領域と比較することで、アカペラの特殊性や立ち位置、現状の論点の相対化が進んだと思う。

そしてさらに
ただの感想として___

今回、論拠とするために、数値として男女を扱ったのだが、その作業にはかなりの違和感を覚えた。
個人を無視する感覚。

結局、男女で括られていたとしても、それぞれはあくまで個人個人でしかなく、そのときそのときのベストな人選や表現の追求で選択されているのであって、男女という括りで平等性を評価することに対する逆の違和感も知ることができた。

日和見的なところで収めたので物足りなかった方もいるかもしれないが、とりあえず今日のところは許して欲しい。

結論を出したり、自分の持つ意見の方に世界を寄せることだけではなく、考え続けることこそが本質的には重要だと思っているので__

その一つの足跡としてこのnoteが機能することを、願う。

追記①ギャル/ヤロバンと周りが呼ぶことについて

「周りが括るのはそれぞれの問題」
として、本文では具体的に触れなかったが、シンプルに考えれば、括られ方を自分たちでは提示していない人たちに対して、周りが勝手にギャル/ヤロバンと括ることによって、不快な思いをさせる可能性はあるだろう。
(自分の性別の括り方を表明して人に対して、決めつけた呼称を用いる必要がないのと同じ)

特に負う必要がないリスクな気がするので、避けておけばよい感じはする。

社会的責任の観点で言えば、講評を書く審査員が気にするとよさそう、くらいかな。

追記②ギャルバンの呼称について

・「ギャル」から一般的に連想される平成ギャルのビジュアルイメージが想起されるので、相応しくないと感じている
方がいた。
基は内輪ノリ的な俗称として使われ始めたのが起源だと思うが、現在は大会名になっていたり、SNSを介した外向けの発信でも当たり前に使われ続けていることで、絶妙な違和感が生じている説がある。(ジェンダー論抜きにしても)

よりフィットした名前が欲しいものだ。

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加藤ぬ。
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