記憶という名の錬金術
3年ほど前のこと。私が住む市にある大学で、とある学術的な学会大会が開催された。私もそのメンバーであるので参加して、大会二日目に年長の女性研究者M先生と一緒にお酒を食事をした。
M先生は、とある地方都市の大学教授なのであるが、私が大学院に入学した年に指導教官からの紹介で知り合ってそれ以来、学会や研究会などでお会いしている。彼女の勤務校には「内地留学(国内留学だったかも)」という制度があって、私が大学院の博士課程のころには一年間、私が所属する研究科にもおられた。その頃は一緒に食事をしたり、先生のお仕事をアルバイトで手伝ったりしていた。
さて、久々のM先生との再会で、私たちには積もる話があれこれあって2時間以上楽しく語り合った。その中で、大学院生のころの私の話になった。
「あなた、あの頃お付き合いされていた彼氏がいたわよね」
はい、と私。もう20年近く前の話である。その人は、残念ながら「元カレ」になってしまって、その件は先生もご承知である。
「あの彼、あなたに指輪を送っていたわよね。サファイアの」
えっ……?? と私は思った。自慢ではないが生まれてこのかた、交際相手に宝飾品の類をいただいたことはない。
私のそのような戸惑いをよそに、お酒が入ったこともあっていつもより饒舌になっているM先生はその件を語るのであった。その指輪は、元カレが海外に行っていた頃に購入して私に送ったものであり、私はいつもその指輪をはめていてうっとりと眺めていたのだという。
「ああ、こんなに素敵な贈り物をする人なんだなあって思っていた。大きな石の指輪だったわよね」
このあたりでだんだん、謎が解けてきた。
確かに、私の「元カレ」である人物は私に海外から指輪を送っていた。だがそれは、おそらくマーケットのような場所で購入されたそれほど高価ではないアクセサリー類の一部であり、土台の金属は金とか銀とかプラチナとかでもなかった。また、たしかに青い石はついていたがいわゆる「天然石」のような平たくて小さな飾りだった。それが入っていた封筒が、海外のものにあるようなそっけなくて粗い紙質の普通のものであったこともよく覚えている。
だが、もちろん私にはうれしいプレゼントであり、しばらく帰ってこない彼のことを思い出しつつ、大切にそれを身に着けてた。M先生はその時の指輪を言っているのだと気がついた。若い青年が買える「青い石の指輪」が、いつの間にか彼女の中で「大きな石のサファイヤの指輪」に育っていたのである。
ここで、小学校高学年の時に国語の教科書に載っていたあるお話を思い出した。外国の方が書いた短編の翻訳で、タイトルは覚えていない。筋はこんな感じである。子どものころに一緒に育ったきょうだいがいて、成人したのちに、かつて自分たちが住んでいた家の子ども部屋のことを話題にした。ところが、上の子と下の子で壁紙の記憶が全く違った。この辺りがうろ覚えなのだが、お互い、壁紙の模様について意見が一致していたのだが片方が記憶していた色と、もう片方が記憶していた色が違ったのである。そこで二人は、どちらの言い分が正しいか、休日に実家に戻って子ども部屋だった場所の壁紙を確かめることにした。
やがて休日が来て、二人は実家に到着する。壁紙はすでに違うものと張り替えられていたが、それを剥がして子ども時代にかれらが馴染んだ壁紙を見ることに成功した。そしてこの物語はオチを迎えるのだが、なんとその壁紙はその二人が記憶していたものとは違って、黒一色で描かれていたのである。
最初にこの話を読んだ時、何が面白いのか私には全く理解できなかった。他の子どもたちもそうだったと思う。そんな私たちに担任の先生が言った。記憶というものはね、時として実物よりも色鮮やかなんだよ。と。そんなものか、とその時は思っていた。だが、私はM先生との会話によって、青い小さな石の指輪が大きな石の貴金属に化けることを知った。
私は結局、M先生のその話を否定しなかった。先生の心の中で輝き続けている、青いサファイヤの指輪を消去してしまうのはもったいない、と思ったからである。彼女と、そして私の心の中でも、その大きな石の指輪はこれからも燦然と輝き続ける。
(了)