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学びを楽しくするために何が必要か?(4)- 子どもの効力感を育む。というよりも、奪わない(その2)
前回の記事で、学びを楽しくするために必要なものの2つめとして、子どもがもつ効力感をあげました。そして、学びを楽しくするためになぜ効力感が必要なのかについて考えました。
今回は、「効力感」は育むことができるのか。できるとすれば、どのような方法があるのか?について考えてみたいと思います。
効力感のある状態とは、「自分が行動すれば、自分のおかれた環境をもっと良い環境にすることができる」と信じることができる状態です。
構成主義など、教育に大きな影響を及ぼした心理学者ピアジェは、彼自身の子どもが乳児期のときの観察記録をもとにした様々な考察を著作に残していますが、彼の息子ローランが3か月の時の例がそこにあります。
"見たものを手でつかめるようになったあと、私はガラガラに結びつけた紐を右手にもたせ、その紐を十分つかめるように少し巻きつけてやる。しばらくの間何も起こらない。しかし、最初に手が偶然動いてガラガラが揺れると、彼はこれをみてハッとし、あたかも手ごたえと効果を感じているかのように、右手だけで激しく引っぱって揺らす。そのあとたっぷり15分は声をあげて笑いながらこの動作を続けた。"
ここで書かれている赤ちゃんの学びとその喜びの体験は、それ以降も続く学びを楽しむ態度の原型、学びについて効力感をもつことになる経験です。赤ちゃんのころからこのような経験を数えきれないほど繰り返して人間は少しずつ大きくなります。
自分の4歳の娘は、まだ字を書けませんが、なにかのおまけでもらった「ひらがな表」をにらみながら、現代アートのような字を苦労して紙の切れ端に書きます。それはシンプルな文がつづられた手紙です。「おばあちゃんだいすきだよ。」などと書かれています。それを読んだ祖母は当然大変喜ぶのですが、それを見て娘もたいそう嬉しそうです。そして、「保育園の先生にも手紙を書く。」などといって、また「ひらがな表」をにらんで、同じ苦労に着手します。
4歳の娘は誰に強制されるわけでもなくいろいろな事をどんどん学びます。例えば、字を覚えることで、例えば時計を読めるようになることで、自分が好きな人と意思疎通しあう喜びを得られます。学ぶことが自分のおかれた環境をもっと良くすることになると信じることができるから、どんどん学ぶのだと思います。
何を言いたいかというと、子どもの学びについての効力感は、ほとんどの場合、子どもには"もともとある"ということです。なので、”育む"という必要はないのです。
しかし、小学校に入り学年があがるにつれて、さらには中学校に進むにつれて、子どもは学びの中に楽しさを見出せなくなっていくというデータがいくつもあります(例えば、 小中学生の学びに関する 実態調査2014年 - ベネッセ教育総合研究所)。学年があがるほど、子どもの中に学ぶことについての効力感がなくなってしまっているとも考えられます。
もともとあるものがなくなる。なぜ、どのようにしてなくなってしまうのか・・・。
心理学者のセリグマンが1970年代に提唱した「学習性無力感」という概念があります。イヌを2つのグループにわけ、両方のグループに電気ショックを与えます。一方はパネルを押せば電気ショックを回避できますが、他方のグループは回避不可能な状態にします。その後、低い壁でしきられた場所にそれぞれのグループの犬を入れて、電気ショックを流します。壁は低いので壁を越えればショックから逃れられるにもかかわらず、最初に電気ショックを回避不可能な状態で与えられていたイヌや何も行動を起こしませんでした。この有名な実験から「不快があっても行動をおこさずに諦めてしまう」という態度は「行動してもどうせ無駄だ」という経験から望ましくない学習がなされてしまったからだと結論づけます。その後、ヒトでも同じ事が起こることが確認されています。
学ぶことが自分の環境をより良くすることにつながるという経験を赤ちゃんの時から繰り返ししてきた子どもも、「学んでも何も良くならない。」という経験を繰り返し強制されると、無力感という望ましくないことを学習し、効力感が失われてしまうのです。
好きな人に手紙を書くのではなくて、何をするためでもなく、ただひらがなを書くことを覚えさせる。そして覚えたかどうかクラス一斉のテストをする。クラス一斉なのでテストのできをクラスメイトと比較してしまう。「自分は他の人に比べてひらがなをよく覚えられなかった…」という気持ちになる。「テストで間違えた字はノートに20回書いてきてね」という宿題が出されて、友達と遊びたいのを我慢してノートに同じひらがなを20回書く。これは自分の小学校の時の学びの体験です。そして、今思えば、この学びの体験は、学びについて無力感を学習する体験になってしまっていたかもしれないな。と思うのです。
学びが、他のクラスメイトと比較して感じる劣等感につながり、学びが、遊びを我慢するという不満につながり、そして、その先にも何も喜びがない。学んでも環境が良くなるという経験をすることができない。でも、繰り返し、強制的に学ばされる。そういう体験です。
ここでは説明のために、やや、極端な例をあげてしまいましたが、程度の差はあれど、このように、子どもをとりまく環境が、子どもがもともと持っていた効力感を奪うような学びの場になってしまっているという可能性があります。これでは学びを楽しむことができなくなってしまいます。
では、どうすれば学びの場がこのような環境になってしまうことを回避できるのか。次回はこのことを考えてみたいと思います。