女性を消費する、というフレーズ
そういえば、少なくとも社会学において「消費」という言葉はニュートラルなものであって、「消費イコールあんまし良くないこと」みたいな意味合いは無かったと理解している。
もともとはマルクスが生産・消費という二つの概念を使って経済を理解しようとしたもので、作ったら使うよねというだけの話だからだ。
生産する人と消費する人が貨幣を挟むことで分離した世の中がおおごとになってくると、消費する側の欲望がパワフルになって、生産側を振り回し始めるというのが、ボードリヤールなんかの消費社会論だったと思う。そうですよね間々田先生。(立教でお世話になった偉い先生です)
https://www.amazon.co.jp/21世紀の消費-無謀、絶望、そして希望-間々田孝夫/dp/4623075397
でもそれ自体は「こういう社会ですよね」という指摘に過ぎない。良い悪いの話ではない。
何故こんなことが気になり始めたかというと、いわゆるツイフェミさんが、「女性を消費している」というフレーズを頻繁にお使いになるから。
だが、消費そのものは、自分が学んだ社会学の範囲ではイエローカードでもレッドカードでもない、ただの行為だったはず。
それどころかマルクスは、生産されたものはきちんと消費されないと、生産という行為が完結しないじゃないか。それはどうなのよみたいなことすら書いている。
たしかに、グラビアアイドルやストリップ嬢が女性性を含む何かを生産して市場に出したとき、それらが消費されなければ生産も無かったことになってしまう。
こうやって考えてみると「女性の消費」は、ジェンダーやセクシャリティに関わるものが消費されることを許せない人にとっては、あってはならないものとなるが、誰にとってもあってはならないものではないような気がする。
そうそう、消費というと、まるで唯一かけがえのないものがパーッと失われてサヨウナラになるみたいに見える字面なのだが、ほとんどの場合、再生産も出来るものなのだ。でなければストリップ嬢も風俗嬢もスーパー戦隊の女性戦士役も職業として成り立たない。
だから、ツイフェミの方に、あれは女性を消費している(からけしからん)と言われても、そりゃあ女性が何かを生産すれば、ちゃんと消費されないと困るでしょうと。消費されないと再生産出来ないじゃないですかと。思ってしまうのです。
以上、女性である自分自身がストリップ劇場にハマった話を漫画にした漫画家さんへの常軌を逸したツイフェミさんたちによるバッシングで思ったことです。
偏見を元にした発言や、私個人に対する誹謗中傷もみられ、私自身はあまり無事ではなく、食事が喉を通らなかったり眠れなかったり涙が止まらなかったりしています。でも皆さんの温かい感想や応援に勇気づけられて居ますので、徐々に元気になりたいと思います。
— 菜央こりん@単行本7/20発売 (@ymckolline) July 23, 2020
みなさんも買って応援。レッツ消費。
https://www.amazon.co.jp/dp/B08CRDXHDQ