ご自分のことは、ご自分で

 私は家でも外でも楽しめる人間だと思っている。家だとスマホだ動画だ、今年からはSwitchのゲームが加わって、いよいよ文字だけだとデジタル廃人のようになってしまっているけれど。楽しいからいいのよ。
 今のこのご時世だと外に出てもできることは限られてしまうこともあるけれど、それはそれで。でもできる範囲であるならば、私は意味もない妥協はしたくない。私が自分自身に対して最大限に楽しめることを提供していきたいな、という意識でいる。

 「趣味や楽しみ」ということに関して、今のところ特定のものにあまり執着していないのかもしれない。もちろん、どうしてもこれがいい!というときもあるけれど、基本的にはないならないで仕方ないし新しい楽しみが見つかるかもしれないじゃん?というスタンス。軽やかだね、と言われることもあるけれど、それはきっと人の目の厳しさに怯える以上に自分の希望を聞き取って、むやみにそれをへし折る真似をしていないからかな、と思っている。

 私自身は元々ものすごく他人の言動や行動を気にしてしまうし、機敏を感じ取っては相手の望む行動を取ることが比較的できる方だった。人のことばかりを優先してしまって、私の考えや希望を聞かないふりをしたり「そんなことだめに決まってるだろう」とやたら否定してしまっていたため、今でも自分の希望や要求が霞がかってしまっていることがある。というかしょっちゅうだ。年月を経て「自分のことは自分で叶えるしかないし、他人が察知してくれることなんてない。けれど自分で行動していくことが、一番楽しいのだ」と気づいてから、自己対話や自分への行動のやり方をずっとずっと試行錯誤し続けてきた。そして少し方向性が見えてきた今、世界がどんなことになろうと、私自身のために気持ちを整え、希望を行動へと移していくことが大切なんだと思っている。そう、世界がどんな論調になろうとも。(失敗することや、自分を責めて「なんで生きてるんだろ。死なないかな」って考えることもしょっちゅうだけど)

 私は自分にいろんな楽しいと思う経験をしていきたい。体を動かすこと、家の中でやること、誰かとでもひとりでも関係なく。病気が怖くないのかと言われるとそんなことはないのだが、それ以上に我慢しすぎて他人に怒りで以て強制していくような精神状態になるのが嫌なのだ。それは自分自身が許せていないから。第一、私は明日も生きていることが当たり前だと思っていない。限りある時間、過度に我慢したまま、自分と同じ我慢をしない他人を恨んだまま、この世からいなくなるかもしれない。それで人生よかったなと思えるだろうか。最後の最後まで、可能な限り私は自分の中に、経験という財産をためていきたい。物質は簡単に失うが、記憶や経験はそれらよりは蓄積していくことはできる。豊かさってきっとこういうことだろうな、と思っている。それが役に立つことかどうかさえも関係ない、私の気持ちが心地よいと思えた。それを積み重ねていく。ただそれだけ、恐ろしいまでにシンプルだ。

 ただ、それは私の希望が今の所「自分ひとり、もしくは友達と2人でもできることであり、行動手法も極力大勢の人が集まるような必要もなく、それが心地よいと思える」ものが多いからだろうと思う。運がよかった。逆に「大勢の人と集まって、できるだけ会話をたくさんしなさい」なんて言われた日にはストレスがすごかったろう。それはそれで無視してたかもしれないな。だから人のことも責められない。得意不得意があるし、また世界がガラリと変わっていつ自分が責められる側になるかなんてわからない。そして責める人が私の人生の責任をとってくれるわけじゃない。

 「楽になりたいなぁ」と思っていたとしても、誰かに願うだけではなく、自分自身が楽になれるように行動を取っていくようにしなければ、不満が解消されることはない。もちろんその行動によってよからぬことが起こって責任を取らなくてはいけなくなったとしても、怖がるだけでは何も動かない。怖がっているから、ますます人にも制限をかけたくなるし、責めたくなる。怖がりすぎ!病気に対して、じゃなくて、人に対して。自分の人生の操縦桿を他人に握らせてもしょうがない。自分でちゃんと、操作すること。自分で考えて行動する経験して、それが自信になって、だんだん揺るぎないものになっていったとき、もっと世界が開けていくんだと思う。それは今の未熟な段階でも、感じられている。


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