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ふくらむ理想と現実

 ひさかたぶり。
 いろいろやりたいことはあれど、なかなか言葉にできなくって、浮かびは消し浮かびは消しを繰り返すこと数十回。
 そもそもあんまりSNSやインターネットの書き込みすらする頻度が少なくなってしまっていたからね。ROM専かしら?と思うくらい。

 あーだこーだと考えれば考えるほど、どんどん理想だけが膨らんでくるものの、自分の技量と照らし合わせて、そのギャップに落ち込んだり「できねーな」と投げ出してしまったり。そう、勝手に思っては勝手に拗ねてる状態。
 気分よくなろうとするために、私自身が楽しくやるためにこのnoteを始めたのに、なんで高尚なことを話しようとして、そして苦しんでるのか。「自分自身のために」が「自分自身に身になるように」になってしまっていた。後々の自分が見て、振り返って「これ書いてよかったな」って思うものじゃなければと躍起になっていた。完全に目的がすり替わってしまっていたのだ。

 違う違う。なんで私はすぐ「身になるように」とか「役に立つように」だとか成果や意義を見出そうとするのか。裏を返せば「身になるように、役立つようにしないものは無駄なものだ」と切り捨てているということだろう。無意識に。
 成果だとか意義だとか言うものも、あくまで「私がそう思っていること」に過ぎないのだし。他人や未来の私がどう思うかなんてわからない。くだらないなぁと思うことでも役に立つかもしれないし、ばっちりだと思っていても「なにこれ?」なんていうのもたくさんあるだろうし。

 そもそも私は一番最初に書いていたじゃない。「あそびばにしたい」と。あそびばなんだから、好きにしたらいい。くだらなくたっていい。文章の雰囲気だって気分でかえりゃいいし、顔文字だって使えばいい。

わーい!\(^o^)/

 続けるのが苦しくなる理由は目的が変わってしまって楽しくなくなってしまうから、というのがほとんどじゃないかと思う。数字を追うようになってしまったり、意義を見いだすことになってしまったり。そうなるとどうしても息苦しくなってしまう。楽しさから外れて、自分の考えうる範囲の行動に押し込めようとしてしまうから。そうなると続かない。続いたとしても、つらさを抱えたままだと相当精神を疲弊させてしまう。

 もっと自由に。
 楽しくったってあほらしくったって、なんなら悲しいことだって好きにすりゃあいい。
 「そんな当たり前のことを」と我ながら思うけれど、すぐに見失ってしまうのだ。
 大丈夫大丈夫。どうにもなりゃしないさ。
 本当に自分のためになるのは、小手先の言葉に意味を持たせるのではなく、心から味わった気持ちを言葉にすること。それしかない。

 それに気付いたのも、久しぶりにこのnoteを開いたからだ。
 なんの意味もない、一番最初の記事の言葉をふと思い出したから。一番だれにもみられていない、私自身もほとんど忘れかけてしまった言葉。

そうなると何か作りたくなってきた。夢中で綺麗な泥団子を作る子供の遊びのような、ただただ私のための、私が楽しい遊び場。

 「楽しい」ことは、いつでも誰でも気分を明るくさせるような出来事じゃなくてもいい。私が私に正直であれば、本当はよかったんじゃないかな。
 それでこそ、私が作りたかった空間になる。
 まさかこんな何気なく書いたものが、2年も経て私に改めて教えてくれるとは思わなかった。

 まだまだ私も欲深い人間なので、きっとこういう理想と現実の渦に巻かれて溺れることもあるだろう。けれどそれでいいのかもしれない。
 改めて気づいて軌道修正。たびたびやるのもめんどくさいなぁとは思うけれど、その過程でさえも大事に思えたらいいなぁ、と思っている。もちろん、気負いすぎず。

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