行く道は同じじゃなくて笑えない
子供叱るな 来た道じゃ
年寄り笑うな 行く道じゃ
よく言われるこの言葉。
そういうものだよなあという戒めとして、とても分かりやすいし納得しやすくて、いい言葉だと思う。
特に自分が歳をとってくると、年寄り笑うなという言葉は実感を伴うようになる。
行く道なのだ。
でも、と思う。
肉体的な衰えは平等であろうと思う。冒頭に引いた言葉もそこを指しているのだろう。
でも、と思うのだ。
多分、行く道は同じではない。
肉体の衰えをカバーするための金銭的な部分で、間違いなく同じにはならない。
満足な貯蓄もできないし、どんなに払っても年金なんてもらえないだろうし、安眠のための高級マットレスは買えないし、ニンニク卵黄も養命酒も買えない。
同じになるはずがない。
10代の頃の自分が、将来の姿をどう想像していたかは覚えていないけれど、まさか45歳にもなって時給900円で働いているとは思ってなかった。
このままあと20年このままだったとしたら、そもそも今の生活環境であと20年も働けるのか、果たしてどれだけ働き続ければいいのか。
余生や老後なんて言葉は自分には関係がない。それは分かっている。
それでも、今のままだとそんなことですら悠長な言葉あそびに過ぎない状況になる。
そんなことを、本を求めてレジにやってくるお年寄りたちを見て思った。思ってしまった。
こんな風に、本を買うような時間が、この年齢になった自分には訪れるのか。
訪れるわけがない。
行く道は、同じではないのだ。
怖い、と思った。
それは死ぬのと同じくらいに、根源的な将来への恐怖だった。
今まで散々サボってきたツケを払っているのだと言われれば反論はできない。
真面目に人生を生きて来なかった自分に怖がる権利はないのかも知れない。
ただ、感情は止められない。
死ぬのも生きるのも怖くなってしまって、足を止めてしまうしかないのか。
それはそれで怖い。人生から下りるだけの度胸もない。
であれば、手遅れであろうがなんだろうが足掻くしかない。
老後や余生はなくとも、行く道が同じでなくても、出来るだけ生を全うできるように、どうにか。
そんなことを、レジ打ちの裏で全身を包む震えをこらえながら思った。