いじわるじいさんはいじけるじいさんになりましたとさ。

昔話でお馴染みの、正直で優しいおじいさんを妬み嫉み羨み、暴走して身を滅ぼすというオチを担当するクソジイイ。
物語の中ではこういう人になってはいけませんよ、こんなに酷い目に遭いますよと反面教師として登場する。
個人的にはおむすびころりんのラストでネズミたちに襲われて自我を失ってしまったのが衝撃的だった。

そんないじわるじいさんに、今の自分はなっているなあと思う。行動ではなく心根が。

よくも悪くも度胸のない小心者なので、基本的に他者に対して高圧的な態度をとることはない。ないというかできない。
だから昔話に登場するじいさんのように、面と向かって嫌なことを言ったりやったりすることはない。だって反撃されたり、周りの人から注意されるのは怖いから。
でも、他人の好き嫌いは激しいし、一度気に入らないと思ってしまうと、坊主憎けりゃ袈裟まで、クリフト憎けりゃザラキまで、となってしまう。その人が何をしていても目について仕方ない。
まるで宮沢雪野を憎む伊沢真秀のように「まるで激しい恋のようだ」状態になってしまう。『彼氏彼女の事情』は名作です。年とってから読むと選民強いなあと感じることもあるけれど。
そして行動をしないいじわるじいさんは思うのだ。
 失敗しろ。
 怒られろ。
 困ってしまえ。
自分の手を下さず、何らかの制裁がなされて溜飲が下げられることを願って暗い念を送る。
我ながら陰険だと思うけれど、性質上、こういう感情が発生してしまうのは止められない。

ところで、高圧的な態度はとれないと言ったけれど、時折、機嫌が悪い時にはちょっと偉そうにしている。きちんと相手を選んで。
上記のことも含めると、いじわるというか、単なる卑怯者でしかない。底意地が悪い、という言い方もできるか。上位ジョブかな。

そんないじわる改めひきょうじいさんは、いじけるじいさんでもある。
活き活きとしている人を見ると、底辺から上目遣いで睨めつける。
でも素直に恨めしいと思うでもなく、彼らは努力をして今の彼らになった。自分は何もしていないのだから、何も得られていなくて当たり前だと自分を納得させる。別に謙虚というわけでもない。言い訳だ。
どんなことであれ、誰であっても今を築くためにはそこに至るまでの時間を何かに費やしてきたに決まっているのだ。それを理解しているふりをする。
そこまで分かるのであれば自分もそうすればいいのだが、そういう継続は自分にできない。できないから今の自分はこんなことになっている。今さら何をしても仕方ない。などと、できない理由を見つけては進まない。
現状に不満があるくせに、それを打開するためのアクションを起こすことはない。
自分のことを理解できているふりをして、現状に納得しているふりをして、何事もなく生活をしているふりをして、努力から逃げる。
逃げたのならそこで考えることをやめればいいのに、何度も何度も上記のようなことを自分に言い聞かせて感情に蓋をする。
井戸の中から空を見上げて、あそこはきれいかもしれないけど、自分には届かないのだと言い聞かせる。
そうしていじけるじいさんもでき上がった。

いじわるでいじけている、我ながらどうしようもないと思うけれど、なかなか脱却するのは難しい。
いつか昔話のように痛い目を見るんじゃないかと不安なので、せめて息を潜めて静かに生きる。
自分の中に巣食う“獣”が目覚めてしまわないように……

ふと思う。改めて読んだカレカノに選民を感じてしまったのも、精神的にいじけてしまってるからかもしれない。
あんなに夢と愛にあふれた作品で、楽しく読んでたのに。

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