『悪いものが、来ませんように』芦沢央 角川文庫

 不妊と夫の浮気に悩む紗英。彼女のよりどころは幼い頃から一番近くにいた奈津子だったが、彼女も自分の居場所を見つけられず、紗英を支えに生きていた。
 周囲にも理解を得られないほど密接な関係が、徐々に彼女たちを追い込んでいく。人が理解し合うことの困難さを突きつける心理サスペンス。

 なんというか、グロテスクな作品。後味や読み味を意図的に悪くするイヤミスと呼ばれるものとは違うと思うが、とにかく終始ザラっとしていた印象。
 そもそも、紗英と奈津子の関係があまりにも近すぎて違和感を禁じえない。でも、そういう人もいるかもしれないと納得させて読み進める。
 物語は紗英と奈津子の視点が交互に描かれ、その合間に【関係者の証言】が挟まれて、独自の視点から紗英と奈津子についての印象を語るという構成で進んでいく。
 この【関係者の証言】というのがまず、誰が何のために聞いているのかが分からない。分からないけれど、つかみきれない主人公について参考になるかと読んでいく。すると他者のことになると、そしてそれを聞いている人がいない場であるとこれほど残酷になれるのかと思うほど、赤裸々に証言者の中にある人物像を披露している。ここで、どうやらこの2人は何か世間に対して後ろ暗いことをしたのではないかということが分かる。いわゆる、ワイドショーのインタビューなのだ。ここでは実際に関係のあった人の証言だが、付き合いがあったのかどうなのか分からない隣人が訳知り顔で人となりを喋る、あの感じがどうしても拭えない。自分は社会正義のために喋っている。その錦の御旗が見えるような、むしろ被害者はこちらだと迷惑な様子を見せびらかすような、そういう雰囲気があった。
 紗英と奈津子の関係と共に、この時の証言者の表情を想像すると、それもまた気持ち悪いし、自分の中にもこういう側面はあると叩きつけられるようで、そこに向き合う体験もまた居心地の悪い思いになる。
 とにかくもう、グロテスクだ。

 自分の中にある常識に照らしたときにどうしても生じてしまう違和感。
 自分の生きている世界との見過ごしきれないズレ。
 どう読み直しても次々に湧き上がってくるそれらが何に起因するのかを考えつつ、どうにか飲み込んで読み進めていく。投げ出さなければ何かがある。前にも書いた気がするが、こういうときの妙な信頼感はどこに由来するのか、それもまた不思議。
 そしてやがて、全てが納得できる瞬間がやってくる。たった一言、一文字で。まさにあれは瞬間であったと思う。
 それまで頭の中に思い描いていた場面のある部分がすべて塗り替えられる、そのカタルシスを味わうことが出来る。
 現代らしい設定と、それでも一般的になっているわけではないとある一点を突いて、ものの見事に錯覚させられていた。やられたとしか言いようのない心地よい敗北感。

 この物語には主人公の2人のほかにも、証言者というかたちでたくさんの人が登場する。その人物のどれにも、正直言って共感はしにくい。できないわけではない。することに抵抗があるのだ。あまりにもむき出しで人間くさい部分を暴かれているので、共感してしまったら自分のそういう部分を認めることになるので、感情面では理解をしていても理性がそれを拒絶する。
 あちら側に行ってはいけない、と。

 何を考えているか分からない。
 価値観が違う。
 全く気持ちが理解できない。

 生活をしていて、テレビを見ていて、そういう人に行き当たることは多い。
 そう思う人にも、その人の中には理屈があって、作られた常識がある。それは誰の中にも当然にあって、信念と呼べるほど強くなくても、正義と呼べるほど確固たる物でなくても、行動する上での指針とか、気持ちを呼び起こすきっかけになる価値観が存在している。生きていく中で形成されていくものや、性質的、生理的に根付いたものもあるだろうけど、誰もがそれぞれのルールに従って、もしくは支配されて生きている。
 そこが合わない、理解できないと感じてしまうと、途端にその人が得体の知れない存在になる。言葉が通じているのに、致命的に分かり合えない部分があることが、余計にその不気味さを助長する。
 無視してしまえればいいのに、どうしても切り捨てられない。無関心ではいられない嫌悪感が存在感を増す要因となって、心や頭のどこかに居座り続ける。その要因の中には怖いもの見たさや檻の中の珍獣を見るようなもの珍しさもあるが、最も強く、最も目をそらしたいものが「自分はこんな醜い人間とは違う」という優越感ではないだろうか。
 だからだろうか、こういう人々はフィクションの中では魅力的なスパイスになる。テレビの向こう側にいる限りはエンタメであるように、フィクションであれば自分の受容のしかたも含めて収めることができる。
 ただし、スパイスとして、1人か2人であれば。
 本作ではほとんどの人物がそういう人だ。徹底的にデフォルメされ、嫌な部分を抽出されたかたちで登場している。そのせいか、彼らこそがスタンダードになっているような錯覚に陥る。かしいのは自分なのではないかと思うほど、彼らの存在が現実に染み出してくる。
 小説家の中には無数の人間の感情や思考が内包されているのは当たり前のことなのかもしれないが、その怖ろしさをまざまざと見せられた。それが物語構成のための材料として惜しげもなく使われているのだから、すごい作品ができあがるのは当然だったのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?