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バークリー司教が売った喧嘩は誰が買ったのか?(微分積分学をめぐる論争について)

「空間とは何か」の連載は滞っています。今まで後延ばしにしてきたライプニッツの空間概念を論じるにあたって、まだまだ自分にはよくわからない部分が多いからです。ライプニッツについてもっと勉強する時間が欲しいと思う傍らで、微分積分学の大成者の一人としてのライプニッツにも目を向けなければなりません。

ライプニッツによる微分積分学については、Henk Bosの博士論文が一つの定番なのだと(素人考えだとは思いますが)考えています。私が以下に書くことにも、Bosの論文から学んだことが大きく影響している思います。

ライプニッツは連続体や延長の連続性について深く自然哲学的な考察を行っています。少々雑になってしまうことを恐れずに言うと、ライプニッツにとって連続体とは、無限小線分の反復●●です。この無限小線分という考え方の本質をどのように理解するべきかというのは、それはそれでまた難しい話だと思います。「点」の集まりによって連続体が構成されるという、現代的な集合論(および位相概念)に基づいた理解とは、私の感覚では少々異なっているようにも思われます(よくわかりません)。無限小線分とは、点的な側面(長さ0的側面)と線分的側面(非0的側面)が同居したような、よくわからないものです。「0じゃないけど0みたいなもの」が繰り返えされることで作られるもの。言ってみれば、これがライプニッツ的連続体概念の(少々雑に表現した)正体なようです。

0であるようにも0でないようにも、どちらのようにも振る舞うことができる量としての「無限小量」という考え方は、極限概念に慣れてしまった身にとってはかえって理解しづらいものですが、微積分が発見された当時の人々にとってはむしろ自然なものだったのかもしれません。もちろん、大抵の自然現象がロジックとはうまく溶け合わない(例えば、ゼノンの逆理とか)ように、無限小量もロジックでは(ナイーブには)説明できません。これは現代人にとっては由々しきことですが、当時の数学者にとってはそれほど深刻ではなかったのかもしれません。もちろん、古代ギリシャにゼノンのような人がいたように、当時でもバークリー司教のような人がいたわけですが。

ライプニッツほど明瞭ではないにしても、ニュートンによる流率法も、本質的には無限小的な概念に基づいて展開されています。この点は(ライプニッツも含めて)現代の一般的な微分積分学のやり方(極限概念を用いるやり方)とは本質的に違うので、注意が必要です。極限概念による方法では、例えば我々は

$${\hspace{10em}{\displaystyle \frac{\Delta \phi}{\Delta t}}}$$

のような有限増分に関する変化量の比を計算しておいて、$${\Delta t}$$を$${0}$$に近づける極限をとるという考え方をします。この考え方では、その極限は必ずしも「比」ではありません。つまり、分子と分母を独立に無限小にしてその比(割り算)を計算するというものではないわけです。

しかし、17世紀当時の微分積分学では、極限的な考えよりも、無限小量による(少々大胆な)計算で答えを出すというやり方が一般的でした。上の計算の場合、$${\Delta t}$$をいきなり無限小にしてしまって、計算してその結果の中に現れる$${\Delta t}$$を$${0}$$にしてしまうという感じのことをするわけです。無限小量は「0的かつ非0的」という二重性をもつ量なので、分母にもってくることもできる(なにしろ非0的なので)し、0にしてしまうこともできる(なにしろ0的なので)というわけです。

そのようにして得られた流率は、したがって、無限小量と無限小量との「比」になります。極限によって得られる結果と、無限小量によって得られる結果の間の本質的な違いはここにあります。

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