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極座標と鈴蘭の王

平面上の$${x}$$軸と$${y}$$軸による座標(直交座標)は誰でも知っているだろう。しかし、極座標はどうか。極座標$${(r,\theta)}$$と直交座標$${(x,y)}$$の関係は$${x=r\cos\theta,y=r\sin\theta}$$で与えられる。

直交座標系において、原点$${(0,0)}$$は一見特別な点だが、実はそうではない。平行移動でどの点に移っても、状況は同じだ。平面上のどこでも同じような座標が敷設されている。しかし、極座標において原点は特別な点だ。原点には、すべての偏角$${\theta}$$の値が凝縮されている。まるで、原点にだけエネルギーが凝縮されているかのようだ。そして、原点の外に座標は同心円状に広がっている。そういう、パワフルな世界を想像させるのが極座標だ。

スウェーデンには『鈴蘭の王(Kung Liljekonvalje)』という不思議な合唱曲がある。非常に綺麗な曲だ。聴いたことがない人は、まずは聴いてみて欲しい。3分半くらいの短い曲だ。

誰でもこんな美しい曲の歌詞はどんなだろうと思うだろう。作詞したのはGustaf Froedingという19世紀の人だ。実はこの詩が、いろいろと問題なのだ。私は20年ほど前に、この詩にとても興味をもって、詳しく調べたことがある。これは『Staenk och flikar』というスウェーデン語の詩集に収められた詩『故郷の村に続く曲がりくねった小道』の中の「Kung Liljekonvalje av dungen, kung Liljekonvalje är vit som snö(鈴蘭の王は雪のように白い…)」で始まる最後の連(第4連目)から取られている。私はスウェーデン語はわからないがドイツ語訳があったので、20年ほど前に、それを手がかりに詩の全文の日本語訳をしてみたことがある。それを紹介しよう。

故郷の村に続く曲がりくねった小道



海の上には閃光、天は燃え
浜辺と湾にはぼんやりした光がやわらかに明滅する
そしてその後ろには見事な森が緑にそびえる
風にうねる草原の後ろに。

そこには夏の日のように美しい私の故郷の村がある
そのまわりには森の風がもてあそぶように吹く
やぁ、しばらく! しかし私の生まれ育った家は何処なのだ?
いや、そこはただ楓の並木道があるだけだ。

そこは空虚で忘れ去られ、破壊され、焼失してしまった
家のあった所は、岩だらけで地面がむき出しになっている
それでも思い出は国中を吹く風のようにめぐる
もう色あせてかすかに光る思い出が。

そして私には、まだ切妻が見えるようであった
あそこの窓は開いているようであった
ピアノは小生意気な歌を奏で
まだ快活な和音を鳴らしているかのようであった。

そして私は父の声を聞いた、よろこびに歌うかのような
その昔まだ若くて幸福であった時のように
その歌は死病病みの胸の中にか細く消えていった
彼の人生は重く悲嘆に暮れたものなのだった。

ここは荒野で空虚だ、私は海辺に横たわる
父の声を今一度聴くために
過ぎ去った幸福と不幸を聴くために
アルスターダルでそうであったように。

彼の悲壮にささやく答えを私は聴く
それは静かな祈りのように鳴り響く
「もう終わったのだ、過ぎ去ったのだ、二十年も前に、
忘れ去られて、風が吹き去ったのだ。

愛らしい姿がその昔幸せに過ごしていたところは
今は空虚な荒野で、禿げ地になっている
しかし私の子守唄はいつでもそして永遠に鳴り続ける
ここアルスターダルでそうであったように。」



ここは林だ、カッコーが鳴いている
そして少女が元気よく飛び跳ねている
はだしで継ぎはぎの服を着て野いちごを摘んでいる
ここには影が、ここには光が昇る
そしてここにはカッコー花が生い茂っている
かわいい森を私は愛する
そこには私の子供時代があるのだ。



ここは茂った森の中の狭い小道だ
ここではメルヘンが強く荒っぽく支配している
そしてここは山の亡霊が巨石を投げたところだ
異教の土地の修道士めがけて。

ここにはオルフがいた、それは洞窟の狼
それは号泣しながら首に向かって頭を擡げた
ここにはオルヴァもいた、彼の小さな娘
毛むくじゃらの胸をして魔性のまなざしをもった娘だった。

ここから幸福の国へ通じる道が始まる
それは長く狭く灌木のように分岐している
そして白い長靴を履いた狡猾な雄猫はいない
我々に正しい山道を教えてくれるような。



鈴蘭の王は雪のように白い
若い王はまだ少女だった鈴蘭の王女の喪に服している
鈴蘭の王は悲しみに頭を擡げる、重々しく力なく
夏の黄昏にその銀の兜を弱々しく輝かせて。

棺と蜘蛛の巣の周りで
花の粉の香皿から
樹脂の香の煙がゆるやかに立ち上り
森はその芳香に満たされる。

樺の木のざわめく頂きから
風の緑の揺れる家から
悲しみの歌が囁くように鳴り響き
森はそのため息に満たされる。

声はこの地方一帯を駆け巡り
王の悲しみを葉から葉へと伝える
広い森に鳴り響くのは
鈴蘭の国の首都より聞こえる声である。

一見してシンボルに満ちあふれた、豊かな詩想を持った詩だと感じられると思う。これは何なのだろうか?

「父と娘」という配役が「オルフとオルヴァ」に変わり、「鈴蘭王と鈴蘭王女」に変化するという流れがある。

「風」が重要なシンボルとなっている。詩全体を通じて、風が吹いていることに気付くだろう。周囲の木々が囁くように聞こえることは、作詞者の心理的な耗弱状態を反映してもいそうである。実際、作詞者のGustaf Froedingは、その人生の大半を精神病院で送ったらしい。

「白い長靴を履いた狡猾な雄猫」という件があるが、これはペロー童話集やグリム童話集に出てくる「長靴を履いた猫」をイメージして問題ないだろう。幸福へ主人を導くトリックスターだ。ということは、そのちょっと前に現れる「巨石を投じる亡霊」も、なにかメルヘンか神話からとってきたものなのだろうか。

しかし、これら以上に印象的なのは、この詩全体が非常に壮大な一つのコスモロジーの中に展開されているということだ。

最初に海と天という縦軸と、浜辺と湾という平面軸が明示される。ことに平面の方は草原と、その後ろに控える森という広がりをもっている。道は荒野と化した故郷の村を「曲がりくねって」通っているので、その分だけなら一次元的だが、そこから山を昇る道は灌木の枝のように多くの分岐をもつので、二次元的な広がりを感じさせることになる。風は森の「まわり」とか「もて遊ぶように」吹くので、心理的エネルギーの移動はある点を中心として円環上に吹いているようだ。ということは、この世界の平面は直交座標的なのではなく、極座標的に定位しているということになるだろう。そして、その中心に蜘蛛の巣と棺があり、その周りの香皿(香皿は複数形でかかれている)は風の吹く俗界とその内部の聖域とを区別する結界となっている。あまり強調されていない上下の軸も、上に向かう煙を通じて定位されていることがわかる。

そしてその中から「声」が聞こえてくる。スウェーデン語の原詩では「声」は「Bud」。ドイツ語ではBotschaft。英語のmessageにあたる言葉だ。

「亡き父の声」という解釈は簡単であるし、はずれてはいまい。しかし…

多分、普通の人は「鈴蘭の国の首都より聞こえる声」を聴くことは、とてもできないのだろう。私自身も「海の上には閃光、天は燃え、浜辺と湾にはぼんやりした光がやわらかに明滅」した時点で、恐ろしくなって目を覚ましてしまうだろうと思う。この歌は、私のような臆病な人にも「声」を聴かせるような曲なのだ。

(この文章の転載・切り抜きなどは禁止します。)


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